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(キム・ヨンボム著、「日本主義者の夢」プルンヨクサ社出版、
日本語訳連載D)

 

<その5>



‘異常な国’に生まれた司馬 (本文・47P〜56P)

 

―彼のモンゴル憧憬と戦争体験―

 

 

 

 

司馬の本名は、福田定一だ。彼は1923年8月7日、大阪で開業薬剤師として働く父親の2男2女の中、次男として生まれたが、兄が2歳の時夭折したので事実上長男として育った。福田が生まれた大阪の故郷の町は、1945年3月、米軍の大空襲でほとんど大部分消失し、その成り行きに住民たちは四方にばらばらとなり敗戦を迎えた。福田の家もその時燃えてしまった。帰郷後、廃墟に変わってしまった故郷の荒涼たる姿を見て、遠い母の実家にうら悲しく歩いていった青年福田は、戦争の残酷さを痛切に感じたのだ、満州{いまの中国東北3省地方}で戦車兵として経験した関東軍の無謀な戦争行為と、故郷の凄惨な姿、即ち、脳裏に深く刻印された昭和日本のその姿が、司馬をして死ぬときまで、軍国主義に対する憎悪心を捨てることが出来ずにしたのかもしれない。(後で明らかになるが、司馬は、昭和の軍国主義を批判して見せるが、それを生み出した明冶日本の、極東アジアに対する侵略的植民地主義的膨張政策を肯定すると言う国家主義者である。―訳者注)

 

1940年、17歳で中学4年を修了した少年福田は、旧制高等学校進学を希望したが二回も試験に落ち、結局次の年4月、国立大阪外国語学校(現在の大阪外国語大学)モンゴル語科に入学した。当時この学校のインド語科には、一年先輩で、後日司馬の終生の友となる有名な小説家・陳舜臣がいた。当時モンゴル語科に入学した学生は、全部で17名だった。青年福田は、モンゴル語を専攻に選択した理由を、受験科目に数学がなかったからと書いた。しかしそれは事実ではない。彼の胸の中には、広漠に広がる大草原で馬に乗って駆けるモンゴル遊牧民に対する、抑えることが出来ない憧憬が定着していた。

 

青年福田は、在学中の1943年10月、仮卒業で‘学徒出陣’した。学徒出陣と言うのは、学徒兵として自ら入隊すると言う意味だ。21歳の福田は兵庫県の戦車第19連隊に入営した後,次の年の4月満州にある陸軍四平(サピョン)戦車学校に入校した。その戦車学校は、機甲整備学校、千葉の戦車学校と同じ陸軍の下級指揮官を養成する機関で、卒業後には見習士官として実戦部隊に配置された。

 

 

 

司馬の夢 ‘大モンゴルの歴史を知りたい’

 

 

戦車訓練兵福田は、軍人として適格ではなかったようだ。訓練も懸命に受けなかったし動作も遅かった

“(軍人には)勇猛性と意気揚々たる姿勢が要求されたが、彼にはそんな点が見られなかった。‘集合’号令が下されたら、もっぱら後に来るのは通例、福田だった。”

四平戦車学校11期同期生として一緒に入学し、敗戦時までずっと福田と一緒に過ごした友達、藤田庄一郎のこの回顧談は、福田が軍人としては不適格だったことを率直に聞かせてくれている。

“私は軍人の器(うつわ)ではない″

上官がいない時、福田はこんな愚痴を並べ、同僚たちを驚かすこととなった。戦争を執行する帝国日本軍隊で、そんな柔弱な声を口外すること自体が不敬だった当時に、福田は軍人になることは間違いだったと、公然と良く言い捨てたものだ。福田には他の夢があった。

 

“私はモンゴル語科で、語学と民俗学を習ったら、中央アジアを放浪したいし、そうして、大モンゴルの歴史、滅亡していく大モンゴルの歴史が何なのかを調べて見たいのだ。それは私の情熱を注ぎ込む対称だ。”

 

生きて帰る事が出来るのか判らない不確実な状況の中でも、大モンゴルを捜し求めたいと言う浪漫的な夢を、根気よく胸の内にしまっていた青年福田は、日本軍戦車部隊の思いもよらぬ現実を生々しく目撃した。

四平(サピョン)戦車学校では、4名が一組となって戦車1台を動かしたのだが、福田の同僚たちが割り当てられた戦車は、当初故障したものだった。四平学校で福田と一緒に訓練を受けた作家・石濱恒夫は、“最初から故障した戦車で、一度取り替えたがそれもやはり故障したため、結局(訓練教育は)8ヶ月間一度も戦車を動かして見ることが出来なかった。しかし、順調に卒業できた。”と回顧した。強大である事を自慢した、大日本帝国関東軍戦車学校の実態がその有様だったら、実戦部隊に配置された他の戦闘装備がどの程度だったのかは推し量って推測する事が出来る。こんな関東軍の‘虚像’を、四平戦車学校で直接目撃した福田は、戦車学校卒業後配属された部隊でも、日本軍国主義の更に他の‘虚像’と無謀さを経験する事となる。

 

戦車学校を終えた卒業生たちは、成績によって三つのグループに分かれ配置された。第一に良いグループは日本本土に帰り、次のグループは関東軍に編入されたのであり、残りの成績不良のグループは中国の最前線に配置された。福田は黒龍江省の牧丹江・石頭にある関東軍戦車第1連隊第5中隊に配属された。その時は1994年12月で、日本軍の敗色が濃くなった頃だった。

司馬が配属された戦車第1連隊は、対ソ連戦部隊として2年余前(1939年6月)関東軍には恥辱的な、所謂‘ノモンハン事件’に直接加担したが、大敗した出鱈目な記録を持った部隊だった。ノモンハンは、モンゴル人民共和国(外モンゴル)と、所謂‘満州国(中国東北部地方に日本の傀儡政権を立て作った国家)’

の接境地域であるハルハ江の沿岸地区を言う。ここで、関東軍の‘精鋭部隊’である戦車第一連隊が、ソ連軍の強大な現代装備の威力を知らず、無謀な挑発を勝手気ままに行ったが破滅的な敗北を受けたのだ。太平洋戦争の敗戦時までその真相が徹底して隠されたノモンハン事件は、精神第一主義それのみで、戦争をしようとした軍国主義日本の非合理性と非科学性、そして非現実性を端的に暴露した事件として記録されている。

廃棄処分しなければならない戦車によって教育を受けた戦車学校時代の経験と、ノモンハン戦闘で惨敗した戦車第1連隊の正体を直接目撃した福田は、‘屈強’を自慢した帝国日本の虚構に、深い‘絶望感’を感じた。後日司馬は、当時、日本軍戦車に比べあまりにも桁はずれたソ連戦車の威力をみて、“日本の国力に絶望感を感じ、最初に日本国家の近代性と言うことを‘技術’の側面で考える事となった。”と回想した。

 

 

 

‘異常な国に生まれてしまった。’

 

一体全体、日本と言うのは何なのか?

 

 

さらに、司馬はその時の絶望感を、この様に表現することもした。

“歩兵であれば、運と勇敢性と用兵の妙によって、どうでも敵に抵抗する事が出来るかもしれないが、戦車部隊は、‘物理的条件’だけで闘う部隊だ。だから、我々は異常な国に生まれてしまったと言うこと以外に、他にどうにも考えられない感じだった。”

“異常な国に生まれてしまった”は、軍人福田の嘆息と絶望感、即ちこれが、小説家・司馬をして‘異常な国’昭和日本の、恥辱と暗い部分を暴き出す事自体が、‘精神衛生上’良くないため、書かないと言う決心を固めて仕舞う事となった様だ。これは後日、司馬が‘明るい明冶’と‘暗い昭和’を、意図的に断絶させてしまう契機となった。これに対する彼の告白を直接聞いて見よう。

 

1994年12月、陸上自衛隊幹部学校で行った司馬の講演は、昭和日本に対する強い拒否感で彩られている。

“当時私は、ノモンハン事件を、正しく知る事が出来ていなかったのです。ノモンハン事件は、私が中学校に通う時の事で、この戦闘で日本陸軍が大敗した事実は秘密となっていました。実に75%の死傷率だったでしょう。ヨーロッパでは、死傷率が30%を越えれば、指揮官の判断で後退出来ると言います。死傷者が30%さえ越えても、相当な打撃を受け、じたばたするのに、75%に至れば戦場に出る事が出来る者が居ないほどです。しかしこの様に大敗した事実に、きっぱりとしらを切り、国民には決して知らせなかったのです。当時には、日本の弱点はすべて秘密にされたのです・・・ところで、他でもなく私が属した部隊が、ノモンハン事件で手酷くやられたために、何か書いて残しておく必要あると思い、今から20年前に十分に調査した事があります。しかし、あまりにも馬鹿げたことだから、こんな事を書けば精神衛生上良くないと考えて、諦めました。その資料は風呂敷に包まれたまま、埃だけかぶっています。”

 

 

実際、司馬は年代上で見れば、1904年の露日戦争(日露戦争)までだけを小説の舞台として扱っているだけで、それ以後の大正時代(1912〜26)や、昭和時代(1926〜89)に関した小説を一編も書かなかった。

単行本で発刊された評論集や対談集では、大正と昭和時代に対して多く言及しているが、小説としては扱わなかった。彼の歴史小説は、時代的に露日戦争の勝利を扱った《坂の上の雲》で終わっている。即ち‘暗い昭和’時代は、‘精神衛生上良くない’と考え、小説の素材で意図的に排除し、日本の歴史の‘明るい面’、即ち‘明るい明冶’までだけを、取り扱ったのだ。

 

‘明るい明冶’だけを小説として扱うことが、日本国民達の‘精神衛生’に良いと判断した為だ。

 

 

 

また立ち寄ったプサン(釜山)

 

 

青年福田が戦車第1連隊にいる間、日本の戦車部隊はすべての戦線にわたってほとんど全滅状態に陥った。このまま行っては、首都東京を中心にした関東平野の防御自体が危険であるかも知れないと判断した日本軍大本営は、慌てて、残っている戦車を各処からかき集め、本土に集結するよう命令した。その様にして、ついに福田は関東軍戦車60隊と一緒に、韓半島をへて日本本土へ向かう事となった。

1945年5月列車便で満州を出た福田は、釜山駅で降りた。

関東軍の四平戦車学校に配置された時、走る貨車の小さい車窓を通して、ちらっと見えた朝鮮の土地、10代の終わりから必ず一度行って見たかった朝鮮の土地を、本土に戦車を引率する小隊長の身分で踏むのだ。

 

事毎に行動がのろい福田は、この時釜山でも遅刻出発をするので、狼狽を経験した。鉄道駅で貨車に結わえておいた戦車を解くことが遅滞される有様に、他のチームより極めて遅く行き先地に到着したのだ。行き先は、ソミョン(西面)にある兵器廠舎だったが、初めての道なのでそこに行く道を分かる筈がなかった。市内の戦車の通路を頑なに駆けながら、尋ね尋ねやっと(兵器)廠舎に到着したとき、福田を待っているのは上官の厳しい叱責だった。

 

“あいつは一体全体、防諜たるものがわからんのか”

人々に道を尋ねて来た為に、戦車の集結地が暴かれてしまったと言うことだ。福田はこの時を回想し、日本軍隊にひどい評価を下した。

 

“当時日本軍隊全体が、暗号を米軍にすっかり解読されることも知らず、呑気に戦争をしていたざまに(対し)、‘最末端のチンピラ(しがない存在)’が、道を少し尋ねたとは言え叱責することはない。軍隊と言うものはその中でも、特に秩序が老化した軍隊は、叱責する形まで規格化されてしまった。軍隊と言う組織はそれ自体が、無数の定型で形成されており、その定型を最も多く記憶している者が職業軍人であり、極めて少ししか記憶できない者が新米下級士官だった。完成した記憶力で、その定型を暗記して置いている人は、陸軍大学校に行って参謀となる。”

 

軍国主義日本の形骸化した制度の枠に対するこんな酷評は、彼が‘暗い昭和’をどれくらい嫌ったかを、克明に見せた。釜山で何日かを泊まった福田は、東海側〔日本海側―訳注〕の新潟港を経て関東地方の栃木県佐野に到着した。彼の年は22歳。大阪で‘学徒出陣’して以来、1年8ヶ月ぶりに日本本州内陸地方の、一陸軍部隊に戻って来たのだ。福田はそこで軍国主義日本の敗亡を迎えた。

 

 

 

司馬遷には、遠く及ぶ事が出来ない日本人

 

 

敗戦の次の年、福田は京都にある、或る地方新聞の文化部記者として、言論界に入門した。そしてその後、産経新聞社在職時期である1956年、処女作《ペルシャの幻術師》が、その年5月、第8回講談倶楽部賞を受賞してから、小説家として本格的な活動を始めた。差し迫った応募締め切りに合わせようと、2日間の夜にかけて120枚の原稿を一気に書いたと言う初めての作品が、受賞の栄光を抱く事と成った事は、福田の小説家的才能がそれだけ出色しているのだ。

 

小説が好きで、少年期に多くの小説を読んだと言う福田。しかし、文学青年と言う言葉を聞くのが嫌いな彼が小説を書こうと言う覚悟を固めたのは、文化部記者生活を、しばらくして出てからだった。福田は、“私が30になれば、新聞社を辞めて小説を書くと、漠然と考え始めた。”と語った。しかし彼は、33歳の年に小説家に登壇した後にも新聞社を辞めず、むしろ受賞と同時に文化部次長に昇進する事までした。文化部長と出版局次長をへた、次の1961年38歳の時産経新聞から退職した。そして、退職する2年前には、同じ新聞の文化部同僚記者である松見みどりと結婚した。

 

《ペルシャの幻術師》の受賞を契機に、福田は、司馬遼太郎に変身した。それは、‘国民作家’としての跳躍を準備する変身であったかも知れない。司馬遼太郎と言う筆名には、大学時代中国の歴史家・司馬遷の《史記》を耽読した影響がそのまま、身についている。これに対し福田は、司馬遷は好きだが司馬遷には‘遠く及ぶことが出来ない日本人{遼太郎}’と言う意味で‘司馬遼太郎’と言う筆名をつけたと告白したのだ。

この様に司馬遷を崇拝した司馬は、日本と中国、その上モンゴルとタタール人の歴史を素材にした小説と評論を多く書いた。そうであるが、何よりも小説家司馬の真価が発揮された作品は、日本の歴史の1大転換期である、明治維新の前夜時代を舞台にした《龍馬が行く》と、露日戦争を扱った《坂の上の雲》だ。

 

(訳 柴野貞夫 2010・2・12) 

 

次回に続く


○次回予告  「司馬の明冶讃揚―(T)」

 

 

参考サイト

 

10年1月15日更新 日本を見る-最新の時事特集
日本帝国主義の、東北アジア侵略の歴史の正当化によって、国粋主義者の復活を鼓舞する司馬遼太郎の思想と歴史観を告発する。) <シリーズ・1>

 

○「日本主義者の夢」@〜C 参