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(キム・ヨンボム著、「日本主義者の夢」プルンヨクサ社出版、
日本語訳連載E)

 

<その6>


(―司馬遼太郎の歴史観を糺―キム・ヨンボム著・「日本主義者の夢」日本語訳連載E本文57p〜68p)

 

 

司馬の明治称賛(T)

 

 

 

 

 

―<龍馬が行く>のイメージ

 

 

 

 

日本人達に、好きな作家は誰かと問えば、40〜50代は総じて司馬を指折り数える。特にビジネスマン達は間違いなく、司馬を最初に数える。しかし、司馬のどんな作品が好きなのかに対しては、同じビジネスマンといっても答えがそれぞれ異なる。一般の会社員達は≪龍馬が行く≫(以下<龍馬>と略称)を数えるが、(会社の)幹部層や経営者層は≪坂の上の雲≫(以下<雲>と略称)を挙げる。幕末の乱世を清く正しく生きて行った<龍馬>の主人公が、今日の日本の若い彼らに‘夢と抱負を植えつけてくれる’とすれば、<雲>の主人公達は、‘透徹した現実感覚を持って責任ある行動をし、危機を突破する経営哲学の教訓を教えてくれて’いる。

 

小説<龍馬>の主人公は、土佐藩(今の四国地方・高知県)の、貧しい田舎武士一族出身の若い志士、坂本龍馬(1835〜67)だ。一般的に明治維新の主役としては、薩摩―長州同盟軍の二人の核心人物である西郷隆盛と木戸孝允が言及され、龍馬は脇役程度に知られた。それが明治維新史の通説だ。しかし司馬は、こんな通説と歴史の定説を完全に覆し、龍馬を誰も否定できない主役の座に座らせた。

 

 

 

青写真を持った浪人青年

 

 

司馬が描き出した龍馬の人生を一度探ってみよう。

歴史上実存する人物である龍馬は、1853年,ペリー米海軍提督が率いて来た‘黒船’の来航に刺激を受けて、次の年である19歳の時、東京に行き剣術を学んだ。そのあと一時帰京したが、土佐藩の政策に反対し1862年脱藩し、浪人生活をする。浪人生活の過程で龍馬は、大政奉還、即ち政権を天皇に戻そうとする自身の意志を貫徹させるために、薩摩藩(今の鹿児島県)の実力者である西郷隆盛と長州藩(今の山口県の一部)の実力者である木戸孝允を和解させ同盟軍を結成する事とする。その同盟軍が徳川幕府を倒し、明治維新を成功させるのに決定的な役割を遂行した。しかし龍馬は明治維新を見ることは出来なかった。天皇中心の王政復古を実現させる事はしたが、明治維新を一年残して、討幕派同僚と共に京都で暗殺されてしまった。

 

龍馬の活躍に対する実像と虚像に関しては、今日いろいろと論議が多い。そうであるが司馬は、金も権力もない脱藩浪人であり,自由人である青年龍馬を、天皇中心の国民国家建設と言う青写真を持った英雄として浮上させた。

 

司馬は言う。

“坂本龍馬は、明治維新の成立直前に死亡したが、当時の新国家の青写真を持っていた人は、ただ彼だけだった。当時の表現として、奔走家、即ちあちらこちら忙しく走り回った人々の中で、坂本龍馬だけがそんな青写真を持っていただけで、西郷隆盛も木戸孝允もそうではなかった。”

 

 

 

龍馬ブームの時代的背景

 

 

今まで1800万部が売れたと言う事実一つだけでも、<龍馬>は十分に成功した小説だ。しかし、その<龍馬ブーム>の背景には、二つの事実が、時誼適切(じぎてきせつ=timely−訳注)に融合されているのを、見過ごすことは出来ない。

 

その一つは、一人物の新しいイメージを作る優れた能力、即ち人物の虚像を実像以上に再創造する司馬の卓越した腕前であり、また他の一つは、その小説が誕生する時代的潮流が‘夢と希望と遠大な意志’を持った青年のイメージを待っていたと言う点だ。

 

1962年6月から1966年5月まで4年の間、<サンケイ新聞>に連載される時でさえ、この小説は大きく人気を集める事は出来なかった。<龍馬>が爆発的なブームを引き起こしたのは、その2年後、NHK/

TVでドラマとして放映されてからだった。

NHKが<龍馬>を放映した1968年は、世界的に学生運動が渦巻いた激動の時期だった。中国は、所謂(いわゆる)文化大革命によって政治的大混乱にはまり込んでいたし、日本でも、東京大学紛争だ日本大学紛争だと言って、入学試験が取り消され授業が中断されるなど、過激な学生運動で騒がしかった。既成世代が不信を受け、既存の価値が崩壊する渦中で、学生達は頼るところを探すことが出来ず彷徨して

いた。彼らが手本とした父母世代は、高度の経済成長を達成することはしたが、もっぱら仕事にだけしがみ付き生きる、‘経済的動物’に過ぎなかった。‘精神的飢餓感’を感じていた若い彼らは、空白の胸を満たしてくれる‘その何か’を渇望していた。

 

 

 

英雄として復活した龍馬

 

 

その時ちょうど、龍馬という幕末の志士が‘英雄’として突然復活したのだ。あらゆるものが否定され、あらゆるものが自信をなくしたその時期に、龍馬は一筋の希望の光として彼らに映し出された。

 

“そうであるから、司馬の<龍馬>は、若い彼等だけでなく、あらゆる人々に自信感を取り戻させた名作だと思います。”

“一言で(当時の学生達に龍馬は)夢と希望でした。自分の拠りどころである藩を出た無一文の放浪者の浪士、権力も武力もない龍馬が、一人で天下を動かしていく。明るく堂々と夢と希望をいっぱい抱いて。こんな龍馬像は、学生運動をしていた学生たちに、夢と希望を与えました。”

 

 NHKで1997年2月‘堂々たる日本史’と言う企画シリーズの一つとして、<幕末の快男児 坂本龍馬>を放映し終わった後、単行本として発刊した同じ題目の書で、二人の龍馬ファンは、この様に<龍馬>に対する肯定的評価をずらりと並び立てた。

これを見ると、司馬が創造した龍馬の英雄的イメージは、現代を生きる日本の若い彼等が手本にしようとする人物像を提供しただけではなく、龍馬と言う偉人を誕生させた19世紀後半期の日本史の活力と躍動性を、合わせて強調する効果を遺憾なく発揮している。

<龍馬>が、時期的に明治維新前夜の時代を舞台としているにも拘わらず、明治称賛の小説として指折り数えることができる理由が、ここにある。

<龍馬>は、‘誇らしい明治’‘栄光の明治’の到来を促進した‘誇らしい日本人’に関した小説だ。

 

 

 

 

 

司馬の明治称賛(2)

 

 

 

―≪坂の上の雲≫が描写した明治人達

 

 

 

(小説)<龍馬が行く>が、明治維新前夜までの近代国家日本を作るために活躍し非業の死を遂げた幕末の‘英雄’を描いたが、(小説)<坂の上の雲>は、日本人達が未だに誇りに思う明治帝国を発展させた‘合理的で責任ある明治の人間’を描いた大河小説だ。

<坂の上の雲>は、その題目が象徴するように、国のために自分の仕事だけを黙々と誠実に遂行しながら、ひたすら、一つの(限られた)道だけを駆けて、丘に上がった二人の主人公達が頂上に立ち、青い空に浮かんでいる‘希望の雲’を眺める、司馬史観の壮大なドラマだ。同様に、帝国主義列強が植民地争奪を繰り広げた時期にアジアで真っ先に、そして、唯一近代的な国民国家或いは民族国家として、背伸びした日本が、西洋の大国を相手に争い勝利した露日戦争を、高らかに称賛している。

 

一般的に司馬史観を話すときこの小説に言及する事となるのは、歴史上‘黄色人が、白人を相手に争い初めて勝った戦争’として評価される露日戦争が、この小説で相当な比重を占めている為だ。

その点で、司馬史観の白眉である<坂の上の雲>は、明治称賛論であり、同時に露日戦争礼賛論である。

 

 

 

新しい人間の主人公

 

 

予め、小説のあらすじを探ってみよう。

“本当に小さい国が、開化期を迎え様としている。”

開化の激しい波濤に押され、揺れ始めた徳川幕府のあとに続いて、天皇中心の新しい政治体制、即ち、明治国家がまさに胎動しようとする頃を背景に、<坂の上の雲>の話は始まった。

日本領土の四つの島で、最も小さい四国島、その島の伊豫(今の愛媛県)地方にも、激変の渦巻きが激しくうねった。その時期、伊豫地方で最も大きい村である松山で成長した三人の青年が、話の主人公として登場する。あらかじめ紹介される人物は正岡子規だ。彼は俳句、短歌と呼ばれる伝統的な短詩型に、新しい風を吹き込み日本の短詩を中興させた張本人だ。他の二人の主人公は、松山の貧寒な士族の一族の兄弟である、秋山好古(よしふる)と眞之(さねゆき)だ。弟の眞之は、子規の一年後輩で、子規と初等学校6年と中学、大学予備学校まで一緒に勉強し、兄好古は、師範学校と陸軍士官学校を卒業した後、騎兵を志願、騎兵第一旅団長となった生活費と授業料を出す金がなく、陸士進学の道を選んだ好古はフランスの騎兵戦術を投入し日本の騎兵を育てた‘日本騎兵の父’となったのであり、海軍に入った眞之は、少将として海軍専任参謀となり、東郷平八郎が率いる連合艦隊の旗艦三笠号に乗船、ロシアのバルチック艦隊を撃破し、露日戦争の勝利に決定的役割を遂行した。

当時日本は、ロシアと戦争を行いながら、二つの困難に突き当たった。一つは、ロシア陸軍が世界最強の騎兵だと誇るコザック騎兵集団だったし、他の一つは、ロシア海軍の主力艦隊であるバルチック艦隊だった。

 

司馬は、<坂の上の雲>で、日本の騎兵戦術を開発した兄・好古と、東海(日本海のことー訳注)海戦の卓越した戦術家である弟・眞之に対して、次の様に説明した。

 

“運命が、彼ら兄弟にその責任をゆだねた。兄好古は、世界で最も貧弱な日本の騎兵を率いる外はなかった。騎兵は、彼によって養成された。彼は渾身を尽くしコザック騎兵を研究し、遂にコザックを撃破する腹案を完成したし、満州平原で凄惨極まりない騎兵戦を、立て続けに展開し、敵を撃破した。”

 

“知謀が溢れ出るこの人物、眞之は、少将として露日戦争を迎えた。その以前から、彼はロシアの主力艦隊を撃破する工夫を重ねた。彼が計画案を準備した時、日本海軍は彼の能力を信頼し、東郷平八郎が率いる連合艦隊の参謀として三笠号に乗船させた。東郷の作戦はすべて彼が樹立したものだ。”

 

“万一、彼ら兄弟がいなかったら、どうなったか?彼ら兄弟は元来から、軍人を志願したのではなく、明らかに明治初年の国際的な状況それゆえに、世上に出たからには、湧き出る限りない関心を持っている。”

 

 

 

司馬史観の白眉―露日戦争の礼賛

 

 

秋山兄弟の能力に関した描写を見れば、露日戦争は陸戦であれ海戦であれ、すべて、彼ら兄弟が国家の危機を迎えて奮い立ったために、勝利する事が出来たと言う結論をあらかじめ予感する事が出来る。

秋山兄弟を二つの柱として展開される<坂の上の雲>は、小説の初盤部を過ぎると、ほとんど三分の二ほどが露日戦争の話だ。

騎兵戦と東海(日本―訳注)海戦は無論のこと、旅順での悲惨な‘203高地の戦闘’、ヨーロッパと米国を舞台に展開される息苦しい外交戦など、露日戦争のパノラマが開かれるが、歴史のクライマクスは、ロシアのバルチック艦隊と日本の連合艦隊が対決する東海大会戦だ。

全般的に露日戦争を深く扱っていると言う点で、<坂の上の雲>は、小説だと言うよりは、小説の形式を借りた露日戦争の評伝だと見ても過言ではないと言う見解もある。それほど、司馬が登場させた人物たちは、歴史的に実在する人物であるかの様に描写されており、事件をやはり、歴史的真実であるかの様に取り扱っている。しかし、<丘の上の雲>は、虚構の小説であって歴史書では決してない。

 

司馬が描いた露日戦争は、どれほど客観的な資料を動員し記述したとしても、それは、司馬が現在の位置で見る近代日本に関する歴史観、そして、司馬の頭の中にある日本の歴史のイメージと言う濾過器を通して、再構成されて描写された虚構の歴史ばなしに過ぎない。

 

 

 

‘小さい国が、奇跡的に勝った戦争’

 

 

小説<坂の上の雲>で司馬は、こんな虚構の手法を駆使して、露日戦争での勝利を日本の奇跡だと強調した。奇跡であることを協調する為に、司馬が日本とロシアを対比させた表現技法を探ってみれば、やはり、司馬の手際が並大抵ではないと言う考えに落ち着く。日本とロシアはまるで小人と巨人の様に比較された。

 

“‘小さい’と言えば、明治初年の日本ぐらい、小さい国はなかっただろう。産業と言えば農業の外はなく、人材と言えば三百年の読書階級だった昔の士族以外にいなかった。この小さい世界の片田舎の様な国が、初めて、ヨーロッパ文明と血を流す対決を繰り広げたのが露日戦争だ。この対決で、日本は辛うじて勝った。

いずれにせよ、その収穫として、後世の日本人は心安らかに暮すこととなったが、これは当時日本人達が、あらゆる知恵と勇気を絞り出し、訪れた幸運を逃さず良く掴んで、これを操作する見事な外交能力を発揮し、成就したのだ。今になって考えてみれば、背筋がひやりとするぐらいの奇跡だと言ってもよい。

この奇跡の演出者たちは、ざっと推し量ると数百万にもなり、少なく見ても数万名にもなるのだ。しかし小説である以上、その代表者を選ばなければだめだ。”

 

 

 

‘偉大な明治の日本人像’の具現

 

 

この言葉を解いてみると、‘背筋がひやりとするくらいの奇跡’を達成した明治の人々の数は多いが、彼らの知恵と勇気と外交手腕などを知るために、三人の代表走者を立てただけだと言う話になる。明治時代の平均的人間を代表する彼ら三人の活動と業績を通して、司馬は偉大な明治人のイメージを形象化し遂げた。このように、小説という虚構的構成の舞台の上で、‘偉大な明治の日本人像’を具現するものとして、司馬は、現代日本人の誇りと自矜心を極めて鮮明に目覚めさせ、満足させてやっている。

 

小説の形式を借りた司馬の歴史教育、特に明治日本人達の偉大さに関する口授した歴史話は、歴史書や学校教育では決して教え与えることが出来ない内容であるので、聞いた人の感動効果面でも、当然引立って見える。

 

或る評論記は、司馬小説の魅力と長所を次のように指摘した。

“何よりも感謝したい事は、我々が司馬の小説を読む時ごとに、過去の日本人の立派な事を知ることとなり、勇気と希望と自負心を貰うこととなる点だ。一言で言って、司馬の小説は‘元気を鼓舞してくれる小説’だ。”

 

この言葉は単に、司馬小説の魅力と長所に局限される評価だけではない。それは同時に司馬史観の魅力についても言っている。

‘過去の日本人の立派なことを、知ることとなり、希望と自負心を植えつけてくれる’司馬の歴史ばなし、それが即ち司馬史観の核心だ。

 

 

 

 

 

過去史を、分り易く説得させた小説技法

 

 

事実、過ぎてしまった時代は、後世の人々の目には直ぐ理解するのに難しい場面が多い。ある時代を構成していた、いろんな条件がすでに消えてしまった為に、その時代の特性を容易く理解することは出来ないのだ。司馬はこんな難しさを誰よりもよく知っていた。だから、彼は過去の時代を理解することが“同じ時代の外国を理解することよりも難しい。”と語った。どんなにすれば後世の人々が過去の時代を容易く理解する事が出来るか。

司馬は、人が敢えて真似する事が出来ない彼自身だけの小説技法を創案し、その技法を縦横無尽に遺憾なく駆使した。ある時代を動かした歴史的指導者達よりは、歴史の周辺の人物と見る事が出来る人々を主人公として登場させ、彼らを歴史の‘偉大な中心人物’にしたのだ。

その周辺人物が、中心人物に浮上していく過程の合間では、まるで映画の画面ごとに一定したメッセイジを挿入する手法の様に、話の種(主として歴史知識やエピソードなど)をはめ込んで置いた。こんな腕前のために、日本の読者たちは一旦彼の小説を手に取ったとすれば、置事が出来ずに、読む間自分も忘れて彼の論理に説得される事となってしまう。

 

しかしそれだけでは、司馬小説が爆発的な人気を集めた理由を説明することは出来ない。読者が小説を読むのは、過去の歴史を容易く理解するためではなく、いわゆる司馬史観を知る為と言うのではもっとない。過去の歴史を理解するとか、司馬史観を分かる様になるとか言うのは、まず、その小説を読み上げた後の話だ。そうであれば、司馬がミリオンセラーの人気を集めた歴史小説家として突き出る事となった秘訣はどこにあるのか?


(訳 柴野貞夫 2010・2・17)

 

 

キム・ヨンボム「日本主義者の夢」訳文次回予定

 

○「司馬人気の秘訣」

○「露日戦争、はたして‘祖国防衛戦争’なのか?

 

参考サイト

 

「日本主義者の夢」@〜D