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キム・ヨンボム著「日本主義者の夢」プルンヨクサ社出版、日本語訳連載I)

―朝鮮人による司馬遼太郎の歴史観批判―




第2部 再び明治の栄光を

 

- 司馬遼太郎史観、その日本主義の正体 -

 

そのI(88p〜96p)

 

 

 

 

 

 

関心と排除のアンビバレンス

 

―司馬の韓国観―

 

 

 

少年期から、韓国に来て見たかった司馬は、1971年5月、作家として大きな名声を得た後には、永い間しまっていた韓国訪問の夢を果たした。太平洋戦争の末期である1945年春、戦車を満州から日本本土へ移送する為に暫く立ち寄って以来、ちょうど26年ぶりだった。

彼は、この時の韓国訪問記録を‘街道を行く’と言う43巻のシリーズの中の第2巻である≪韓国(からのくに)紀行≫として発行した。この韓国訪問記は、司馬の初の外国訪問記だ。彼は更にまた、そこから15年後である1986年には、同じシリーズ≪耽羅(タムラ)紀行≫(第28巻)を発刊する事もした。

 

2冊すべて、朝日新聞社が発刊する<週刊朝日>に連載されてから単行本として出てくるが、<週刊朝日>の長期シリーズ‘街道を行く’の、2番目の訪問時も‘韓国’が選択された事で、司馬が韓国に対し抱いていた関心の高さがどの程度だったか斟酌する事が出来る。また同様に、そこから15年後、モンゴル科の因縁が深い済州島紀行を新たに別途の紀行文として執筆したのも、韓国に対する司馬の格別な関心を語ってくれる。

 

韓国に対する司馬の関心は、生前に親しく交わった在日韓国人の友達たちが多かったと言う点でも明らかになる。司馬は、大阪に住む韓国近代史専攻のカン・ジェオン教授と良く知る間柄だったので、平素、カン教授を呼ぶとき、日本語の発音に似ていると言って、‘カンゼオン(観世音)’だと言うほどに親しい関係だった。また、東京の小説家キム・ダルス(金達壽―1996年逝去された)氏とは、1970年代‘日本の中の朝鮮文化’を共に発掘するぐらい、とても近い関係であり、在日韓国人・朝鮮人の知識人達の声を代弁する雑誌≪サムチョンリ(三千里)≫を発行した東京のイ・チョル(李哲)先生とも、気兼ねなく会うほどに親しかった。それ以外でも、広開土大王碑文の研究で広く知られた史学者、イ・ジンヒ(李進熙)教授など、司馬には韓国人の友人たちが多かった。

 

司馬は、韓国に対する自分の関心をつぎの様に説明した。

“朝鮮に対する私の強烈な関心は、私が生まれ暮らしている場所が大阪と言う点と関係があるのかも知れない。大阪と言うこの広い平野に、人間がほとんど住んでいなかった頃、百済から来た移住者たちが、恐らくこの場所を開拓し、百済郡と言う‘郡’まで設置した。また、郡内には百済平野と言う耕作地帯があったので、恐らくは今の生野区それとも鶴橋、猪飼野(いかいの)近辺であるようだ。奇妙にも大正時代頃から、朝鮮人が大挙入って来て住んだ所も生野区地域であるが、この場所は日本で在日韓国人・朝鮮人の人口が最も多い所として知られている。”

羅唐(新羅・唐)連合軍によって滅亡した韓半島の古代国家百済、古代日本が支援軍を送り助けるほど友好関係を維持した百済は、日本に大陸文明を伝達してくれた‘文明の友人’だった。日本に渡った百済の‘渡来人’達は、漢字と仏教だけでなく日本古代王国の経営技法まで教えてくれた。

 

 

 

‘合併しに行かれますか?’

 

 

百済を通した古代日本と韓半島間の緊密な交流関係をよく知っていた司馬は、絶賛里に連載中だった≪坂の上の雲≫で、‘国民作家’と言う栄誉を享有していた時、意気込んで待ち構えた韓国訪問の道に就いた。ところで、彼はこの時、思いがけない質問を受けた。

“合併をしに行かれますか?”と言う質問だった。

 

合併は、1910年の韓日合併を言う。日本で司馬の出国手続きの面倒を見たソウルのある女子大学出身の旅行案内員が、咄嗟に投げかけたこの質問に司馬は少なからず慌てた。

“どんな目的で韓国に行かれますか?”と言う案内員の最初の問いに、朝鮮と言う国名も日本と言う国名も無かったはるか遠い昔には、“朝鮮地域の人も、日本地域の人も互いにひとつ”であった事を、くりかえし言って、太古の韓国人と日本人の先祖は一つだったので、“こんな昔の気分を、今の韓国の農村を訪ねて行って経験すれば、どうだろうかと考えて行くの”だと、説明した。ところが、彼の旅行案内員は司馬の説明を、韓半島植民地化を正当化したあの有名な‘日鮮同祖論’と言う、見かけ良い理論の繰り返しとして看做したのか、引き続いて、“合併をしようと、お行きになるのか?”と言う質問を投げたのだ。

 

司馬は、自分の“悪意ない発言”に対する“明朗で、礼儀正しいその女性(案内員)の反応は、決して悪意がなかった訳ではなかった”と指摘し、当時としては、どう答えればよいか分からず、当惑したと回想した。いずれにせよ、その時司馬は、“その様にうるさい韓民族と、二度と再び合併したいと思う日本人が何処にいるだろう”と言う、‘下手な論談’を吐いて、その論談で効果があったのか、その時には案内員の顔から怒りが薄れて明るい微笑が浮かんだと言う。司馬は、自分の‘下手な論談’に対する案内員のユーモア感覚が高い水準にあったとおだてることもした。

 

しかし、ここで司馬は、極めて意味ある解釈を付け加えた。

“やかましい民族と言う言葉は、決して民族的自尊心を傷つけることとなる言葉ではない。むしろ、怖い存在である為にカラスの声の様に扱かわれる(‘こわもて’する)と感じられ、私が朝鮮人であっても、気分悪い感情は持たないだろう”と。

 

 

 

‘こわもて’と言えば構わない。

 

 

‘やかましい民族’と言う言葉で揚げ足を取って、司馬の韓国観が歪曲されたかどうか、歪んでいたと難癖をつける考えはない。尚且つその言葉は、司馬も明らかにしたように‘下手な論談’として出た言葉だ。しかし、言中有骨(とげのある言葉―訳注)と、思わず言った一言の中に本気が隠れているように、司馬の論談の中にも彼の真情が隠れていると言う事が出来る。

韓日関係史を、あまりにもよく知っており、在日韓国人・朝鮮人の親しい知り合い達を通して、韓国人の民族性とか性格を、よく知っていそうな日本の歴史小説家・司馬の目に、韓国人はふとすると、日帝36年を問い糺す‘やかましい民族’として映し出されるのだ。

問題は、司馬が韓国人を‘やかましい民族’といった事実それ自体にあると言うよりは、彼が自ら説明した‘やかましい民族’と言う表現の解釈法にある。

 

‘こわもて’する、即ち‘怖い存在である為にカラスの声の様に扱われる’という、司馬の日本語使用法は、どれだけ良く考えても、あてこすり(皮肉)を包んだものに思われ、そのまま笑い流す事が出来ない。韓国を誰よりも深く理解し関心を持っていながらも、他の一方では、‘ふとすれば、過去を問いただしやかましく振舞う民族’、こんな民族は‘こわもて’を感じる線で扱ってやり、適当に無視するのが良いのだと言う相克される感情が司馬の心の片隅に席を占めていなくては、‘こわもて’と言う言葉が飛び出るはずがないのだ。

 

関心と排除のアンビバレンス(ambivalence/事物や人に対し、互いに相克され矛盾した感情や態度を、同時に持つ事−原注)、これがつまり、司馬が韓国人に持っている屈折された感情だ。

 

 

 

36年間の(日本の)韓国支配と、‘360年の(韓国の)日本蔑視’

 

 

彼のアンビバレンスは、日帝36年の間の植民地支配に対する司馬の関心からも如実に現れる。

司馬は、東京に住む親しい或る在日韓国知識人に、この様に言った事がある。

“韓国人は、ふとすると日帝36年間の被った話を口に挙げるが、日本人は、360年間のあいだ朝鮮から蔑視を受けなかったか?この点に対しても、少し考えなくてはね。”

これと似た話は、司馬がイムジン(壬辰)倭乱のとき、日本に連れて行かれた朝鮮の陶工に関して書いた小説≪故郷忘じがたく候(コヒャン イッギ オリョプサォムニダ) ≫にも出てくる。その小説で1966年、韓国美術研究者たちの招請を受け、ソウルを訪問した日本の朝鮮人陶工の14代宗孫(チョンソン・宗家の一番上の孫−訳注)であるシム・スグァン(沈壽官)は、ソウル大学で講演をして、日帝の韓国支配を問題とする若い大学生たちに、過去ではなく未来を志向する様に促しながらこの様に語った。

 

“皆さんが36年を語れば、私は370年を語らざるを得ない。”

 

朝鮮の陶工の先祖が、日本の武将に連れてこられた後、その後裔達が鹿児島の土地で故郷を慕いながら暮らしてきた忍苦の年月360年を、日帝の韓国支配36年と対比させたのだ。

 

司馬が在日知識人に語ったと言う‘360年’と、朝鮮陶工の後裔達が経験してきた‘370年’、その二つの期間は、蔑視と苦難を受けた主体は互いに違うが、その内容は同じ次元で比較されている。それだけでなく、韓日関係史をよく知っている司馬は、それを日帝の朝鮮支配期間である‘36年間’と同一に比較している。その点で陶工後裔の言葉は、実は、作家である司馬自身の言葉でもある。司馬が実際に気がせいせいしたい話は、日本人も朝鮮人から360年間も蔑視を受けて暮らしたが、36年なのに何をその様に忘れる事が出来ずに言うのだと言うものだ。他民族に対する無慈悲な36年間の支配と、‘360年間の日本蔑視’を、同一次元で比較した司馬の発言は、私的な場所で出たためにこれ以上批判する事はしない。ただ、司馬のこんな関心は、彼の韓国観だと言う文脈で探ってみるとき、決して、偶発的だとか奇妙な事でないと言うのを、指摘しようと思う。言い換えれば、司馬の韓国観から、それは当然の帰結である。

 

 

 

日鮮同文同祖論

 

 

司馬は、誰よりも韓国に対し大きい関心を持っていながらも、どうしてアンビバレンスを持つほか無かったのか、この問いは、司馬史観の日本主義的、国粋主義的特徴を解明する作業と直接連結される。そして、その解明作業は、前もってしばし言及した、司馬の‘日鮮同文同祖論’から始めなければならない。

 

司馬は、韓国人と日本人の先祖たちがシベリアで一緒に住む途中で、現在彼らが住んでいる土地に移動して来たものと見た。去る1986年10月15日、大阪で開催された韓国関連講演会で、司馬は、2500余年前位だけをとっても、韓・日二つの国の先祖たちはシベリア地方に共に暮らしていたのだと推定し、日鮮同祖論を広げていった。司馬の想像によれば、当時シベリア、特にバイカル湖周辺地域は、“動物がたいへん多く住んで、木の実も生い茂り比較的住みよい所”だった。その地域は、黒海のクリミア半島からスキタイ遊牧民が発展させたスキタイ文明が、中央アジアを経由し定着したすぐその場所だ。

 

司馬は、万里長城で堅く閉じられた中国を経由しない文明、シルクロード(ピタンキル-絹の道)を全く踏まず、中国の北側の外郭を回りアジアの東側の広大な平原に場所を占めたスキタイ文明が、中国文明と確然と異なるのだと理解した。そして、黄河と長江(揚子江)流域に沿って発展した中国の農耕文化よりは、馬に乗り草原を力強く走らせるスキタイ文明の騎馬民族が、一群の遊牧文化が、古代の韓・日両国に、さらに多い影響を及ぼしたものと解釈した。

彼は、この様にシベリアに住んだ韓国人と日本人の祖先の有力な一派が、後で韓国と日本に移動したとし、その根拠を言語構造の類似性から求めた。司馬は、言語学者達が語るウラル・アルタイ語族の中で、ウラル山脈の東側に広がっていったアルタイ語族には、韓国語、日本語、モンゴル語、そして今の中国東北部地方(満州)と沿海州一帯に住んだツングース(東胡)族の言語が、すべて包含されたと語った。それら言語は、例を挙げれば‘私はあなたを愛する’で見るように、主語(私)と動詞(愛する)の間に、目的語(あなたを)が来ると言う点で同一性を備えており、その点から‘私+愛する+あなたを’の構造になった中国語とは、明らかに違うと言うものだ。言語学的に、それら言語が、果たして親族語なのか否かは分らないが、注目する点は、司馬がそれらを同じ親族語に理解したと言うことだ。古代ギリシャ文明の影響まで受け発展した、シベリア・スキタイ文明の広い垣根の中に一緒に暮らした人々は、同じ構造の言語を使用した親族語集団に属すると理解したのだ。

 

 

 

 

モンゴル人にとっては、むしろ中国人が野蛮

 

 

そんな言語構造の同一性を、鉄石のように固く信じた司馬は、言語構造が異なる中国よりは、モンゴル側に愛着と憧憬を抱いた。司馬の中国文化―モンゴル文化対立論は、そんな認識の土台の上で生まれ出たものだ。

“中国から北側へ遠く隔たるモンゴル高原を見渡せば、そこには遊牧する人間がいる。時々長城を破壊して侵入するこの野蛮的な勢力を、中国人は匈奴と呼び恐れた。しかし、モンゴル人の側から見れば、反対に中国人が野蛮民族だ。ぱたっとうつ伏せて土地をかき混ぜ、何かを植えてそれを食べる中国人達を見て、彼らは実に下劣だと考えた。

馬に乗っている自分たちはどれほど格好がよいか、文明と言うものは、格好良い要素がなければだめだ。馬に乗った人々にとって、土地をほじくり返している中国人の姿は格好が悪かった。だから永い間、両方の仲が非常に悪かったのだ”と。

 

万里の長城の南側の農耕地とその北側の広大な草原地帯を、一幅の壮大な絵の様に比較描写した、司馬の中国文化―モンゴル文化対比論は、彼が視覚型歴史解釈家である事を実感する事となる。まるで、TVの或る場面を見るのと同じ感じがするほどだ。自分の歴史観を視覚的に展開する事で、読者と観客の心を惹きつける司馬の卓越した話の手際に、今さら感嘆せざるを得ない。

彼の中国―モンゴルの対比を見ていると、モンゴル文化が、決して中国文化に引けを取らないという考えが入っている。(続く)



(訳 柴野貞夫 2010・4・8)






参 考 サ イ ト

日 本 を 見 る − 最 新 の 時 事 特 集 「日本主義者の夢」 キム・ヨンボル著 翻訳特集