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キム・ヨンボム著「日本主義者の夢」プルンヨクサ社出版、日本語訳連載K)



―朝鮮人による司馬遼太郎の歴史観批判―





第2部 再び明治の栄光を

 

―司馬遼太郎史観、その日本主義の正体―

 

そのK(p102〜p111)

 

 

 

‘朝鮮は朱子学で停滞された国’

 

 

日本が、中国―韓国の儒教文化と異なる独自的文化を創出した事を誇りに思った司馬の日本文化観は、ややその追従者達に、日本文化それ自体を絶対化したものとして、受け入れられる可能性が大きい。それぐらい司馬史観は、日本文化の独自性を格別に強調するものとして、それを絶対化する潜在力を秘めていると言う話だ。しかし司馬は、自分の国の文化と日本人を絶対化する言説を、公開的にありのまま話すほど愚かな文明批評家ではなかった。

 

その代り、彼は中国と韓国を、あの悪名高い植民地史観である‘アジア的停滞論’によって罵倒することで、日本民族と日本文化の独自性と優越性を誇示した。言い換えれば、朱子学のイデオロギーを、人民達に強要した韓国と中国が、社会発展の停滞を避けられなかった事と異なり、日本は、‘社会学的美学’の極致を見せたサムライ(武士道)文化と商人達の合理主義精神を身に付けた為に、二つの国と鮮明に区別されると言う論理だ。

 

司馬史観が露わに見える明治礼賛書である、(司馬の)≪明治と言う国家≫には、つぎの様に書かれている。

 

中国と韓国は、“純度100%の儒教国家”であるのに比べ、日本は、“儒教20%、残り80%は武士道と呼ばれる、体系化されない社会学的な美学、或いは美学的な倫理の国だ。”

この言葉は裏返して見れば、日本は朱子学に中毒されない国だった為に、停滞を抜け出て素早く文明の世界に進入したが、中国と韓国は儒教的価値観に従い、禮教を重視する‘中華と小中華の文明国’である事を自慢するが‘野蛮’へ没落する悲運を迎え入れると言う話になる。禮教の静寂だけがぎっしり詰まった韓国―中国社会と、荒っぽい程度に躍動的なサムライと商人の社会に特徴付けられる日本、司馬は、その様に全く異なる社会と文化の特徴に由来して、日本がアジアで真っ先に、唯一文明国に発展し、欧米帝国主義列強の仲間に加わる事が出来たと徹底して信じた。

 

 

 

‘江戸時期、すでに準備された近代化’

 

 

司馬は、中国と韓国を停滞させた主要要因として、儒教思想を指摘し、これに対し大変厳しい叱咤を加えた。彼の批判は、あたかも“お前たちが、我々を野蛮として罵倒した当時、我々はとっくに社会経済的には、お前たちの国を追い越し文明国となった。”と、あてこする様に聞かせる。

 

“(18世紀の)朝鮮と比較するとき、江戸日本の重要な特質は、圧倒的な商品経済(貨幣経済)の沸騰の中にいたと言う点だ。農村の商品生産者である富農層、問屋(朝鮮の呼称は都賣商―トメサン、訳注)制によって、均質で良い商品を作り出した町人(都市商工人)層、商品を日本領土の隅々にまで流通させる海運業者、この3大柱は、それだけで見れば町人の革命、即ち、ブルジョア革命であるフランス革命が、江戸日本で起こったと言っても、何も奇妙な事ではない位だった。商品経済、即ち貨幣経済は、物品を数量と質の面で注意深く観察する。同様に、社会と自分自身との関係で観察する。そこから導き出されるのは、封建道徳でなく合理主義であり個人の自由だ。合理主義と個人の自由は、特に後者は、ヨーロッパの同じ時期と比較すれば、米1かますに(対して)、御飯茶碗程度にしかならない微弱な水準だったが、それでも徐々に蓄積されて行った事を、江戸中期以後の思想書と文藝から探して見る事が出来る。”

 

即ち、商品経済が発展されていたし、合理主義と個人の自由が存在した江戸中期時代に、既に日本は近代化される準備がなされていたと言う話だ。司馬は、その様に堅く信じた。髪の先から足の爪の先まで儒教思想にしみ込んだ或るソンビ(在野の学者)が、日本と日本人を卑下した事を座視する事が出来なかったのだ。18世紀初葉に、すでに常平通寶(サンピョントンボ)が広く流通し、商品、貨幣経済が発達していた近代朝鮮の経済社会の実情を理解出来なかった司馬としては、この上なく憎たらしかったのだ。

 

 

 

 

辛辣な≪海游録(ヘユウロク)≫批判

 

 

司馬が辛辣に批判した朝鮮の在野学者は、申維翰(シン・ユウハン)だ。シン・ユウハンは、18世紀初葉、朝鮮通信使の制術官(ジェスルグァン)として日本を訪問し、≪海游録≫と言う日本見聞録を残したが、これに対し司馬は、彼が“日本人を人間として考えずに、一段階低い人間”として取り扱ったとし、怒りを表した。

司馬は、“朱子学的に見れば、至極、標準的な思想を持った人”であるシン・ユウハンが、日本人を“人間の様でない人間”として見た事は、彼が“朱子学と言うイデオロギーの塊の様な人だった為”だと批判した。‘360年間’日本人が朝鮮人によって蔑視されはしなかったのか?と言う、司馬の韓国観は、ひょっとして≪海游録≫にその典據を置いているのかも知れない。

 

≪海游録≫は、多方面に及んで極めて詳しく、日本と日本人の姿を記録した為に、わが国では優れた日本見聞録として評価されている。文章実力が良いシン・ユウハン(申維翰)は、彼が随行した朝鮮通信使に代わって、多くの日本人達と筆談を交わし、意思疎通する窓口の役割を受け持った。彼は、對馬から大坂を経て江戸まで往復する長い旅程で、通信使が泊まる宿舎に訪ねて来る日本官吏達と知識人達を、誰よりも最も多く応対した為に、それだけ日本に関した多くの知識を積む事が出来た。一例として、司馬がそれほど嫌う朱子学に対し、18世紀初葉日本人達の関心がどの程度だったのか、シン・ユウハンの記録中の一段落を読んで見よう。

 

“大坂で書籍が繁盛した事は、実に天下の壮観だ。我が国のいろんな賢人達の文集の中で、倭人達が尊敬するものは、≪退渓集≫に匹敵するものはない。すぐ家でこれを朗誦し、村で講論する。いろんな人々との筆談でも、彼らが尋ねる項目は≪退渓集≫の中の句節を第一の義とする。問いも‘陶山書院の地は、どの地方に属するのか。’‘先生の後裔は、今何人で、どんな官職なのか’‘先生は生前に何を好きだったのか’など、その言うところ極めて多く、到底記録する事が出来ない。”

 

大坂の読書階級が、この程度で退渓の学問に関心を表示したら、当時の日本人に及ぼした朱子学の影響も相当だったものとして解釈できる。そうであっても、韓国は儒教の純度100%の国であって日本は儒教純度が20%にしかならない国だったと規定した根拠が何であるか、司馬に問いたい。日本が、中国の儒教文化圏から‘独立した周辺国家’だと見る司馬の歴史観は、初めから‘朱子学の国=社会の停滞’だと前提しておき、‘朝鮮は停滞された国’と言う結論を下す事にだけしがみつくものとして、形成されたのではないのかと考える。それは、結論を予め正解しておき、原因を追跡する方式とも同じだ。

 

司馬は韓国に対し、こんな固定観念と偏見を持っていた為に、朱子学の禮教の基準に依拠したシン・ユウハンの日本蔑視だけを取りだし、調べて正すことなく非難したし、この朝鮮の在野の学者(ソンビ)が、江戸日本の発展した商品経済に目を注ぎ観察しなかったと叱咤した様だ。

その上、ともすれば≪海游録≫の日本蔑視を例にとり、あげつらって指摘する司馬の韓国観は、シン・ユウハンによって‘野蛮’だと嘲笑を買った日本が既に‘文明’がなされ、反対に‘文明’だと偉ぶった儒教の国朝鮮は停滞の沼から抜け出す事が出来ず植民地に没落した二つの国の、逆転された立場を今日の時代的状況でアイロニカルに再考してみる歴史認識の所産ではないかと考えられる。

 

 

 

司馬と‘脱亜論’

 

 

‘アジア的停滞論’に立脚した司馬の韓国・中国批判は、彼自身が‘フアン’だと吐露するぐらい尊敬した福沢諭吉の、あの有名な‘脱亜論’を想起させる。

福沢は、近代日本の有名な啓蒙思想家であるとともに、今日の名門私立大学である慶応大学を創設した教育者だ。

福沢のアジア観は、アジアが明治維新の様に改革されなければ、欧米帝国主義列強によって分割の運命に会う事となると言う点に要約される。ここからアジア改革の具体的対象は、朝鮮の改革を言う。しかし、言葉は改革であって、実は朝鮮の日本化を意味し、これは、当時日本の朝鮮進出へと繋がった。同様に、アジア改革の具体的内容は、朝鮮と中国の儒教体制を破壊し、西洋の文物を投入する事だった。

 

そんなアジア観を持った福沢の眼に、韓・中両国は、旧習と徹底した儒教思想に染み込んでおり、“はしか同様の文明開化の流行と遭遇し”文明化=近代化=西欧化の道を歩こうとしない様に見えた。福沢は、自身が支援したキム・オッギュン(金玉均)一派が、1884年に引き起こした甲申の変が三日天下の失敗に終わるや、朝鮮を指さして“妖魔悪鬼の地獄国”だと酷評した。これは、日本主導による朝鮮改革(日本化)が水泡に帰した事に対する失望感の為だった。“妖魔悪鬼の地獄国”だと、野蛮以下の国と言う極めて酷い悪評だ。朱子学のイデオロギーに染まり、日本を‘野蛮’だと蔑視した朝鮮の学者たちの立場が、19世紀後半になっては、完全に逆転されたのだ。

 

‘脱亜論’は、甲申の変が失敗した次の年である1885年3月、福沢が自身で発刊した、<時事新報>に載せた論文だ。彼は‘脱亜論’の前半部分で、西洋文明を摂取する事が日本の使命である事を強調したあと、文明化=近代化=西洋化を拒否する朝鮮と中国に関して、次の様に言った。

 

朝鮮と中国、二つの国の中で、“志士が現われ、まず国事の改新に手をつけて、我々の維新(明治維新)の様に政府を改革しようと、事を起こし、政治を先ず改革し、共に民心を一新し様と言う活動がない限り、二つの国は、今から数年を越えずに亡国となり、その国土は世界の文明諸国の分割に帰着されると言うこと、この1点は、疑心するに及ばない。”と。

 

そうであれば、必ず滅びる運命の朝鮮と中国に対し、どの様に対処するのか、福沢の答えは簡単明瞭だ。“隣の国である為に、特別に事情を考えてやる必要もなく、西洋人がここ(朝鮮)に接近する方式に従って処分するだけだ。”と言うのだ。

 

“西洋人の接近方式によって処分”すると言うことは、朝鮮の植民地化を意味する。それも、“特別に、事情を考える必要がなく”日本の植民地にするのだと言ったが、なんと非情な武力侵略論であるか。即ち、この段落が、福沢の‘脱亜論’がアジア侵略論であることを立証する明々白々な証拠だ。

 

そのように、司馬は福沢を庇護した。無論、“私の様な、福沢フアンとして痛恨な事は、論文末尾にアジア侵略を是認し、日本もそこに参加しようと言った一節”だと、注釈を付けることはした。しかし司馬は、全体的には福沢の‘脱亜論’を弁護した。福沢が明治日本に対し、“主義とするところは‘脱亜’の二文字にあるだけ”と促求したことに対し、司馬は、(福沢が言う)日本が抜け出なければならない亜細亜は、“その人民を指したのではない。その政府を指し示したもの”だと注釈を加えた。さらに彼は、‘脱亜論’の趣旨が、発展と進歩の障害物である“儒教体制から抜け出ると言うもの”だとし、福沢のアジア観と、‘文明化’を既に達成した明治日本のアジア主導論に、共感を現す事もした。

 

 

 

関心と排除のアンビバレンス

 

 

今まで、司馬の韓国観を探ってみた。司馬は明らかに、韓国に深い関心を持っていたし、韓国に対する理解も日本の普通の知識人より深いと見る事が出来る。百済と伽耶国をはじめとする韓半島古代国家と日本間の緊密な交流に対する理解を包含し、韓国史に対する司馬の知識は幅広い。その点に局限して見れば、司馬は知韓派だった。

しかし、司馬の韓国観はアジア的停滞論の立場に立つものとして相当に屈折されている。さらに、韓国に対する理解と関心にも拘らず、韓国を意図的に貶め、心情的に無視排除するアンビバレンスを露呈している。(司馬の表現によれば)“同じ先祖の国”であり、果てしなく遠い昔には、同じスキタイ遊牧文明の影響を受けたと信ずる司馬の立場では、韓国を無視したくても出来ない。

しかし、また異なる観点では、‘周辺文化’の道を歩んできた日本と異なり、中心文化の中の‘小中華’を自負した隣の韓国を、排除するしかない矛盾が現われてしまう。それが即ち関心と排除のアンビバレンスに縛られた司馬の韓国観だ。

こんな司馬の不均衡な韓国観は、朝鮮時代数百年の間蔑視を受けるが、明治維新以後逆転し、いま韓国を圧倒する事が出来るようになった経済大国日本の立場では、容易く克服するのが難しい視角だ。

意識的か、無意識的かであれ、司馬は現在の時代的状況から、過去の歴史を解析したし、加工した為だ。その上アジアでは唯一、欧米帝国主義列強と植民地獲得競争を繰り広げた日本人の歴史の経験に照らして見るとき、司馬が言った明治の栄光と誇りが、未来を見通す歴史舞台の前面に新しく浮上すればするほど、韓国排除の心理と態度は増幅される傾向を見る他はない。かくまでも、遠い過去文明の‘周辺’から、今は近代文明の‘中心’に、浮かんだと自負する司馬史観に従って、日本人達が韓国を‘日本に追従する他はない周辺の国’とだけ認識する事となれば、日本人の‘関心と排除のアンビバレンス’が、韓国に対する優越感として発展していくのは当然だ。

 

司馬の韓国観・露日戦争称賛論・明治礼賛論を読んでみたら、司馬史観を信奉する日本の政治家達と知識人達が、日本文化と日本人を他者として客観化せず、絶対化する可能性が極めて大きいと言う結論に到達する事となる。日本文化の絶対化は、司馬史観が内包する、日本主義的・国粋主義的性格から由来したものだ。司馬は、講演録とか著述の至る所で、過去日本は周辺文化に定着していたが、今はこれ以上周辺になくアジア中心文化の位置にあることを、密かに強力に示唆している。こんな司馬史観が国粋主義的民族主義を強化し、アジアで日本中心主義、即ち明治―昭和が、日本アジア主義として絶対化される場合、それは、日本自身の孤立を自ら招く狭量な民族主義としてしまうだろう。

 

すでに、日本の教育界と知識人層の一角では、‘近現代の日本は嫌いだ。間違っていた。’と言う‘否定史観’と‘自虐史観’を、‘肯定史観’と‘自肯史観’に置き換えなければならないと言う、歴史修正主義の動きが活発に展開されており、政治家達の中でもそこに積極同調する保守勢力がある。この歴史修正主義運動は、自由主義史観研究会と言う、保守的な日本主義者集団によって推進されている。この様な積極的な信奉者たちを幅広く確保している司馬史観は、21世紀日本が指向する未来の標柱の上に、‘過去の栄光と誇り’と言う旗幟を翻している。司馬自身は、イデオロギーを憎悪したが、実際には、彼が‘手で掘り出した歴史の発掘’の現場では、過去の栄光を探す日本人達が、日本主義と言う理念の畑を一生懸命耕しているのだ。



(訳 柴野貞夫 2010・5・16)

 

 

 

 

参考著書

 

○中塚明著 高文研(価格・1700円)

「司馬遼太郎の歴史観」―その「朝鮮観」と「明治栄高論」を問う




参 考 サ イ ト

日 本 を 見 る − 最 新 の 時 事 特 集 「日本主義者の夢」 キム・ヨンボル著 翻訳特集