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キム・ヨンボム著「日本主義者の夢」プルンヨクサ社出版、日本語訳連載L)



―朝鮮人による司馬遼太郎の歴史観批判―





第2部 再び明治の栄光を



―晩年の司馬−

 

 

 ‘小日本主義’と‘美しい正体’

 

 

 

明治のダイナミズム、明治の栄光、国家と国民の一体感によって構築された明治帝国の偉大であること、そして、露日戦争の勝利を礼賛した司馬は、晩年に及んで少しずつ変化を見せた。彼の年が72歳、人生の日没直前である事を予感したのか、老衰した日本主義的‘国民作家’司馬は、日本の進路と関連し、遺言の様な忠言(忠告)をした。その忠言は、彼が死亡するひと月前、発行された月刊≪現代≫1996年1月号に掲載されている。作家・井上ひさし、との対談で司馬は、日本人が石橋湛山(1884〜1973)の‘小日本主義’を手本としなければならないと強調し、次の様に言った。

“日本が、戦後50年を迎えた今、行き詰まった道に突き当たった事を考えれば、彼の小日本主義は、必ず政治思想化し、継承されなければならない。”

石橋湛山、彼は‘55年体制’が成立した次の年である1956年、執権自民党の総裁(総理)まで経験した自由主義者であると同時に、現実主義者だった。1920年代初、日本全体が‘国家は伸長しなければ駄目だ。’と喧しく合唱していた時、石橋は‘小日本主義’を主唱した。彼の所信は、“満州を捨てよ”“朝鮮と台湾も独立させよ”と言う植民地放棄論だった。その上彼は、日本が保有していた中国での経済的、軍事的特権までも捨て、それら弱小国と提携しなければ駄目だと力説した。大日本帝国が満洲と中国の至る所で勢力を拡張し、経済的利権を掠め取るなど、威勢を振るった頃、植民地放棄論を主唱した事は実に自由主義者らしい行動だった。

石橋は尚且つ、戦後に日本の韓半島責任論を主張する事もした。

“戦前、戦中を通して永い間、38度線の以北は関東軍が担当し、38度線以南は第17方面軍が担当した。日本が決定した、そんな軍事担当地域は、そのまま米国とソ連に引き継がれた。従って、日本が少し早めに戦争を止めても、朝鮮で南北が互いに争う事も、朝鮮が南北に分断される事も無かったかも知れない。そうであるから、日本は南北分断と朝鮮戦争に多少でも責任を取らなければ駄目だ。”

 

 

 

‘小日本主義に行け’

 

 

こんな石橋の‘小日本主義’を支持した司馬は、日本の韓半島植民地支配に対し“昔話であるが、‘すまなかった’と頭を下げなければ駄目だ。”と語った。植民地支配に対する司馬の謝罪論、それは表面的には過去史と関連した司馬の韓国観が、晩年に至って多少変わった事を意味する。しかし、韓半島獲得を目的に引き起こした侵略的な露日戦争を、‘祖国防衛戦争’と擁護・礼賛した司馬史観の根本が変わらない限り、“昔の話ではあるが、‘すまなかった’とし、頭を下げろ。”と言う謝罪論が、基本的に彼の韓国観を変える事は出来ない。その上、対外膨張主義として特徴づけられる明治国家を、ずっと恋い慕う司馬の明治称賛と明治の憧憬が、堂々と効力を持っている限り、関心と排除のアンビバレンスに特徴付けられる彼の韓国観は、やはり本質的には変化がないと言う事が出来る。

 

しかし、どうしてなのか、司馬が植民地支配に対する謝罪を基本にして、‘小日本主義’を日本が指向しなければならない方向に提示した事は注目に値する価値がある。彼が意味する‘小日本主義’は、一種の特殊国家論だ。特殊国家論は、過激な保守主義者である小沢一郎の‘普通国家論’に対する対抗概念として出たものだ。

 

‘日本は普通の国家として変わらなければならない。’と言う普通国家論者たちの主張で、‘普通国家’と言うのは、即ち、‘他の国と同じ正常な国家’を意味するが、‘普通国家’が実際指向する目標は、日本が政治的・軍事的な強大国となる事だ。具体的には、軍隊の保有と戦争行為を禁止した現行憲法第九条を改定し、日本を政治・軍事強国にしようと言う主張だ。現在の日本は、そんな憲法第九条の改定問題について、改憲派と護憲派、普通国家論者と特殊国家論者の組に分かれるのだ。“本当に良い国となった。”と賛嘆する様な、戦後日本の新しい姿を思考の出発点とすると言う司馬。‘暗い昭和’との断絶を明らかに宣言した司馬が、日本の理想として、特殊国家論を取り出したと言う事は、人権と平和を重視する彼の面貌を良く見せてくれる。そうであるが、富国強兵と侵略的膨張主義の明治日本に対する彼の称賛はどうなるのか?ここに我々は、司馬史観の矛盾を発見する事となる。しかし司馬自らが、解かなければならないその矛盾は、未解決の宿題として残ってしまった。死んだ司馬は、永遠に語らない為だ。

 

 

 

‘発展は終わった。’−‘美しい停滞’へ

 

 

そうであれば、死を前にした司馬が、小日本主義と韓半島支配に対する謝罪を主唱する、当時の時代的背景をしばし鳥瞰して見よう。そうしてこそ、司馬史観の終着点が何であるかを、鮮明に分かることとなる。

司馬が井上と対談を持った時は、1995年末頃だ。その年はバブル経済が消えうせてから5年目になる時期で、日本経済は少しづつ、不況の深い沼に落ち込み、到る所で失業と企業の倒産事態が相次ぎ起こったし、日本人達は次第に活力を失っていった。それだけでなく、その年1月には神戸大地震まで発生し日本列島を揺るがしたし、国家の権威に挑戦する狂信徒集団である‘オウム真理教’が、東京の地下鉄駅にサリン毒ガスを撒布する狂乱を弄し、日本を恐怖の中に追い込んだ。

 

政治もまた不安定に漂流していた。‘55年体制(保守・革新対立体制)’の下、38年間も支えてきた自民党単独政権が1993年崩壊し、社会党が参加する非自民群小政党の連立政権が入り込んだりするが、まだ1、年にならないのに、総理と内閣が2回変わる政治不安が継続された。このような中で、1994年発足した社会党中心の村山富市総理政権は、過去史反省に関する1995年の、所謂‘戦後50周年国会決議’を準備する過程で決議の文案をめぐって、保守派と進歩派間の政治対立が激化した。

政治の混迷、経済の沈滞、社会の不安で国全体が行く道を失い、座標なく彷徨している中で、司馬は日本の停滞を目撃したのだ。その時下した結論が“今、日本の発展は終わった。”だった。

発展が終わったら、その次に日本が行く道は何処なのか。これに対し司馬は、‘美しい停滞、美しい成熟’だと語った。‘美しい停滞’を、追求しなければ駄目だと言う司馬の小日本主義と特殊国家論は、彼が考える時代的状況で強調された日本の未来の姿だ。‘美しい停滞’が具体的に何を意味するのかは、不明瞭だ。ただ、経済の低成長でなく、制度成長の中で美しい生活の安全を追求する事ではないかと、斟酌するだけだ。

‘明るい明治’で、日本人の精神と活力を探そうとした日本主義者・司馬が、小日本主義と特殊国家の枠の中で、‘美しい停滞’を追求しなければならないと宣言したなら、それは、司馬史観の出発点が最初から間違っていた事を見せてくれるものだと断定する事が出来る。間違った出発点は、‘成功した偉大な明治’の暗い面を、司馬自ら意図的に眼をそむけたところに始められた。最初のボタンから間違ってかけ始めた司馬史観は、日本の高度経済成長を促進し経済大国にした精神的触媒剤としてその機能を果たした。即ち、時代の要求を充足させる使命を既に完遂したと考える。いまだに、司馬史観の使命が終わっていなかったと考える人々がいれば、彼等は司馬を思慕する狭量な日本民族主義者(日本主義者達)だけだ。彼等は、日本を盟主とするアジア連帯とアジア共同体を夢見る現代版日本アジア主義者たちだ。死んだ司馬の影響力は、だから、永い生命を持っているのかも知れない。

 

(訳 柴野貞夫 2010・6・22 )

 

 

 

○次回予告

 

[第3部] ‘記憶との戦争’を繰り広げる人々

<司馬史観の忠実な継承者―自由主義史観研究会>




参 考 サ イ ト

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