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キム・ヨンボム著「日本主義者の夢」プルンヨクサ社出版、日本語訳連載M)



―朝鮮人による司馬遼太郎の歴史観批判―





[第3部]  ‘記憶との戦争’を展開する人々

 

―司馬史観の忠実な継承者、「自由主義史観研究会」−

 

 

 

 

‘日本の乞食’と‘韓国の乞食’

(本書・121p〜128p)

 

 

―曲解された韓国観―

 

 

 

1997年8月8日、東京市内の真ん中である赤坂の健保会館では、極めて注目に値する行事が開かれた。「自由主義史観研究会」と言う新保守派団体が第二回全国大会を開催したのだ。司馬史観の忠実な信奉者達が参加しているこの研究会は、日本の近現代史に対する歴史観を取り換えようとする史観転換運動を積極的に広げる‘教育改革’集団だ。大会午後の段取りでは、‘子供達に、どの様に歴史を教えるのか―日韓関係を中心として’と言う題目の講演があった。講演は対談形式で進行されたが、対談者は「自由主義史観研究会」の代表である藤岡信勝東京大学教授と作家・井沢元彦だった。大会場の中には、「自由主義史観研究会」の国粋主義的・日本主義的歴史観を支持する会員達を含む、2百名ほどの聴衆が席を占めていた。当時、駐日特派員だった筆者もその場に参席した。

まず、二人の対談内容から探って見る事としよう。

 

 

 

‘江戸以前にも、(朝鮮と日本の)仲が悪かった’

 

 

藤岡:「日本の中学校教科書にはこんな内容が書かれています。

日本の植民地支配に関する部分であるが、“このような中で、日本人の心の中には朝鮮人を差別する間違った意識が育ってしまったのです。”となっていますね。私は確実にそんな面があると見る為に、その様に書いた事には反対はしません。しかし、それより以前に、日本人を蔑視する間違った思想が、朝鮮人の中にあったと言う事実を書かなければ、近代日韓関係の歴史は見えない事となると考えます。それが所謂、朝鮮人達の‘小中華’思想です。朝鮮人達は一方では、大中華思想を持って中国には慎重に接したが、他の一方では、自らを少し高く評価する‘小中華’思想を持っていました。」

 

井沢:「その点が最も無視されている部分だと考えます。よく江戸時代の徳川幕府と李氏朝鮮が、大変仲が良かったと言う様に知られており、将軍が変わる毎に朝鮮通信使が江戸に来て祝賀した事もあり、それが理想的な日・韓関係だと考える人がいます。

しかし、私は違うと思います。どうしてかと言えば、朝鮮通信使達が残した記録、例を挙げれば、平凡社の東洋文庫で出た≪ヘユウロク(海游録)≫(1719年に日本を訪問した朝鮮通信使の製述官のシン・ユウハン・申維翰が残した海游録を言う)を読んで見れば、昨今に話題となった或る女性記者が書いた著、(≪日本は無い≫を指して言ったもの)と、全的に観点が同じです。≪海游録≫にみれば、日本の乞食はお金を貰おうとやって来たとなっているが、これを見て朝鮮通信使は、ただ驚くだけだったのです。韓国の乞食は、お金ではなくて食べるものを物乞いするが、日本の乞食は金を物乞いした為です。当時日本では、貨幣経済が韓国より発達した為に、お金ならば何であろうと交換出来ましたね。そうであれば客観的に見たとき、日本側が貨幣経済面で韓国より、ずば抜けていたと言う考えをしなければ駄目なのです。」(中略)「≪日本は無い(?????)≫(訳注―1993年,チョン・ヨオク/田麗玉の日本人論エッセイ。日本では「悲しい日本人」の題名で出版された。しかし、在日韓国人・柳在順/ユ・ジェスン氏が自著の盗作と指摘し物議をかもした。)の様なたぐいの反日的本を見ると、日本の百貨店の店員がニコニコ笑うのは、多分に職業的な笑いだと批判しています。サービス職業は、昔に私もして見た事があるが、微笑はセンスです。

なぜかと言えば、病院の看護者が怖い顔をしていれば、患者が不安になります。だから、いつもニッコリ笑うのは、一つの文化か、文明として、評価しなければならないと思います。

昔からずっと、朝鮮民族の心の中には、日本人が道徳的に自分たちだけ出来ないと言う考えが席を占めていました。ですから、日本人を絶対に評価しないのです。それでは、江戸時代にはどうして日・韓関係が良かったのか。それは日本人が相手方をおだて、相手方の文化に尊敬心を表すと、朝鮮人達の気分が良くなった為です。しかし、韓国人が日本文化に関心を持ったのか、優れた面があってそれを評価したのかと言えば、そんな事は決してありません。だから、互恵ではなかったのです。古代から今に至るまで日本と韓国の間に、互恵、即ち互いに尊敬した歴史はありませんでした。」

 

 

 

‘朝鮮は中国の子分の国’

 

 

藤岡:「江戸時代には良かったが、明治時代に来てぱっと変わったと言う話もあるが・・・。」

 

井沢:「江戸時代には良かったと言うのは、徳川家康が豊臣秀吉を滅亡させた事が大きく作用しました。韓国人達は、秀吉を‘千年の敵’だと呼ぶくらい大変憎悪しています。こんな秀吉一族を完全に滅亡させた家康は、最初から韓国で好感されました。同じ脈絡で、韓国人達は、その徳川一族を滅亡させた明治時代を嫌ったのです。」(笑い)

 

藤岡:「いずれにせよ、明治元年、天皇が政治をする事となったとして、朝鮮に親交を要請しました。一旦對馬藩の藩主である宗氏を通して、仲良く交わろうと文書で早めに伝えたが、これに対し、冷淡に近い取扱いを受けました。その原因が何であるかと言えば、日本側が持って行った文書の中に“ファンサントゥングク―????(皇上登極)して、・・・”と言う言葉があった為なのです。これはつまり、明治天皇の文書と言う意味なので、ここに‘ファン-?(皇)’の字を書いた事が、不届きだと言いました。だから、對馬藩主の名前で再び書簡を送ったが、その時はまた、‘ポンチク−??(奉勅)’を書いた事がけしからんと言いました。この対談にいらっしゃった皆さんにも意見を伺いたいですが、どうしてこの二つの文字が外交上問題となるのですか?」

 

井沢:「それは、予め‘国王’と言う言葉を、理解しなければ駄目です。(中略)皇帝と王は意味が違います。英語でemperorと言えば、それはローマ帝国の君主を言うのであり、ローマ帝国に服属していたか、そんな系統の国の君主は、kingと名付けます。従って、近代史を勉強して見れば、例えば、オーストリアの様な小さい国が皇帝を称するが、英国は王と称するのを見る事が出来る。これは、ローマ帝国の後継者として認定された者がエンペラーを使用する為です。だから、フランスのブルボン家は国王であるが、ナポレオンは皇帝なのですね。無論お金も出したが、これまたローマ帝国皇帝の戴冠を受けた為に違うのです。東アジアで皇帝と言えば中国本土の君主を言い、中国に従う周辺国家の君主は国王となる。例えば、琉球と朝鮮をはじめとした東アジアの周辺諸国は、中国皇帝に誓約をして現地支配権を認定される形式を取りました。簡単に言えば、中国が‘親分’で、周辺国は‘子分’であると言う訳です。東アジアでの王達は、中国皇帝の‘子分’としての現地支配者と言う意味です。

ですから、日本も昔、卑弥呼(中国の<魏志・倭人伝>に記録されているところでは、紀元2世紀から3世紀前半頃まで、在任した古代日本の邪馬台国の女王として、魏国の明帝に朝貢を奉げ、親魏倭王の称号を受けた。)時代には、王と言う称号を使用したが、天皇家が“我々は中国の体制の中の王ではない。我々は独自的な王権を持っている”として、‘天皇’と言う文字を使用する事となったのです。従って、国王だと言えば中国の麾下に入るが、天皇と言う場合には中国の麾下に入りません。ここに明白な差異があります。江戸時代にはどうだったかと言えば、天皇は京都に閉じ込められており、外交は将軍が代表していました。しかし、将軍と言うのも極めて曖昧な表現方式であって、中国語で将軍と言えば、天皇麾下の司令官の中の一人に過ぎないのです。ですから、昔から日本に来る外国人達が日本の代表は誰なのか、分らないと言う話をしました。江戸時代には将軍を‘日本国の大君’と言い、代表問題は留保されました。無論、‘大君’である為に‘皇’や、‘勅’と言う文字も使用しなかったのです。そうだったので朝鮮と日本国大君の間に、外交が成立する事が出来なかったのです。そうした事が、明治時代に入ってから大日本帝国の‘天皇、皇帝’が、あなたの国と仲良く付き合いたいと言う文書を送る時、当然中国皇帝の‘子分’ではないので、‘勅’だとか、‘皇’と言う文字を使用したのです。」

 

藤岡:「日本の歴史の中で、‘天皇’と言う言葉を使用した時期は、明らかに自立の意志があったと言えるのではないでしょうか。」

 

井沢:「それと関連して、聖徳太子の時から有名な国書があります。中国・隋国の書にも記録されている“日出ずる処の太子、日が沈む処の太子”と言う言葉ですが、これは完全に対抗意識だと言う事が出来ます。しかしこんな対抗意識は、天皇家が力を失ってしまった時期には表面に現れないが、明治時代になって初めて出てきました。そこで、朝鮮が何のために嫌ったかと言えば、結局朝鮮は何処までも、中国の‘子分’である事を自覚していた為なのです。そしてまた一つ、形式的ではあるが極めて重要な理由の一つは、(皇と勅を使用した)日本の国書を接受する場合、朝鮮は日本の‘天皇’の下に入って行くという事実です。即ち、朝鮮の位置が日本の下に行く事を認める計算になるのです。

 

藤岡:「即ち、その為に、この時から隣国との関係がゆがむ事となったのです。これはすぐ直す必要があるので、日本側としては‘天皇’と言う言葉を、早くからずー使用して来たので、原則的には当然なことを言ったと言う事が出来ます。」

 

井沢:「その時どうしなければならなかったかは、非常に重要な問題です。江戸時代の日本国の大君と言うのは、曖昧模糊とした言葉を使用し、よかった時代はすでに過ぎてしまった為に、‘天皇’と言う言葉を認めさせなければならなかったのです。無論、これは力で抑えると言う意味ではなく、日本国王の親交はこの様な事だと言う点を認めさせる必要が絶対にあるのです。(中略)ここで、一言指摘する点は、韓国では今も(天皇を)認めないと言う点です。韓国の新聞などでは、天皇と言わずに必ず‘日王’だと言い、皇太子は‘皇’の字を使わずに‘王世子’と言います。ですから私が前に、異議を提起した事があります。“君たちの国と米国は、すべて‘大統領’と言う言葉を使うが、米国に比べると君たちの国は極めて小さい。それでは私が、韓国程度なら‘小統領’だと言っても十分だと言えば、どうするつもりか?君たちは、どうしてわれわれが‘天皇’と呼ぶ事を、勝手に日王と呼ぶのか。やめてくれ。”と言った事があります。しかし相変らず、マスコミでは殆んどが日王だと言います。」(中略)

 

藤岡:「後で‘征韓論’で問題となる事の様に、相手方(朝鮮側)の無礼を問題とし、一度に武力で屈伏させようと言う式の論議があったと言うのですが、流れとして見て、日本側から、朝鮮より上位に立っていると言う点を認識させる為に‘皇’の字を使用したのではないと考えます。」

 

井沢:「歴史的見地から見て、その時、我々側が上と言う事を語るのが外交的に意味があったのかと言えば、私は無かったと思います。」

 

 

二人の対談は、この後にも継続された。“明治時代の日本は、朝鮮に対し領土的野心を持っていなかった”、“日本人達は最初から朝鮮の近代化(改革)などを助けようとしたが、結局失敗してしまった”,“朝鮮半島に自立する能力と自己防御の能力がある民族国家が、早く生まれる事を願い、それが日本の安全に大変重要だと考える”と言うなどの話だった。しかし、日本主義者達の韓国観、歴史観を理解するのは、前の引用文でも十分である。

 

一人は教育学を専攻する教授であり、また一人は、≪逆説日本史≫などを書いた作家と言う点を考慮すれば、言い換えれば、二人の人物は全て近現代史の韓日関係史を専門的に研究しなかったと言う点を考慮すれば、彼らの対談内容に、敢えて神経を使う必要はないかも知れない。

しかし、大会場に集まった人々の大部分が、教育現場で働く教師たちだと言う点を勘案すれば、その波及効果を憂慮せざるを得ないのであり、その為、いくつかの内容に関しては必ずとりあげていく必要がある。

(訳 柴野貞夫 2010・7・3)




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