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キム・ヨンボム著「日本主義者の夢」プルンヨクサ社出版、日本語訳連載⑯)



―朝鮮人による司馬遼太郎の歴史観批判―





[第3部]


藤岡と言う人物

 

―挫折と変身の化身―


 

(140p~147p)

 

 

一人の人間の思考方式を理解しようとすれば、予めその人間が育って来た生活環境を探ってみる必要がある。その上に、その人間が社会的に注目を引く社会運動を主導しているときは、彼がそんな決心を固める事となった契機を把握する事が、彼の思想を理解する近道となる事が出来る。

歴史教育の改革を主導し、日本の知識人社会を大きく揺り動かした藤岡の場合も同じだ。

 

藤岡の歴史教育改革運動を繰り広げる事となった契機は、二つの枝がある。一つは、1991年1月に発生した湾岸戦争であり、他の一つは、歴史小説家、司馬遼太郎との出会いだ。

二つとも、彼のナショナリズム、特に日本主義を育てる事となった重要な契機として指摘されるが、まず、湾岸戦争を通した思考方式の転換から探って見る事としよう。

 

湾岸戦争直後、藤岡は米国で研究員として滞在中だった。湾岸戦争は、よく知られている様に、イラクのフセイン大統領がクエイトを武力侵攻するや、これを懲らしめるために米国が、英国・フランス・サウジアラビア等と多国籍軍を組織しイラクを攻撃することで繰り広げた中東戦争を言う。以前の様であれば、米国がこんなやり方で反米的な回教国家イラクを攻撃することは難しかったものだ。しかしその時は、ベルリンの長壁が崩れ(1990年10月)事実上、東・西冷戦体制が崩壊されていた為に、国際秩序は米国単独の覇権行使によって維持されていた。即ち、ソ連邦解体を約1年前にして発生した湾岸戦争は、米国が世界唯一の超強大国として国際政治舞台を牛耳った、そんな性格の戦争だった。

 

原油輸入を、中東地域の産油国に大きく依存していた資源小国日本は、湾岸戦争で米国を助ける為に、ひたすらお金しか出すことが出来ない立場だった。日本国憲法の禁止条項の為に、戦闘艦や陸上自衛隊兵力を多国籍軍に派遣する事が出来なかったのだ。

これは、日本国民であれば誰も良く知っている事実であったし、米国人達もその点を良く知っていた。

 

 

 

思考転換の契機、湾岸戦争

 

ところで藤岡は、湾岸戦争直後の米国で‘日本が湾岸戦争で、いかなる人的貢献をしない事に対して詰責する非難の声’を聞いた。人的貢献とは、自衛隊兵力を多国籍軍に派遣することを言う。実際に日本は、米国の多国籍軍隊に130憶ドル(1兆1千7百億円―90円換算)と言う巨額の戦費を支払った事にも、米国のブッシュ大統領やクエート国王から、公式的な感謝の表示を聞く事は出来なかった。国家の体面が話にならなかった。米国滞在中に、日本非難を直接経験した藤岡は、次のような結論に到達した。

 

“日本は経済大国にふさわしい、自分の役割としての行動をすることを要請されている。しかし実際には、政治的とか哲学的に、いかなることもしないものの様に見えている。それは自国の歴史を否定され、アイデンティティを持つことが出来ない状況に追い込まれた為だ。”-<朝日新聞>の週刊誌<AERA>1996年8月19~26日号

 

‘お金だけ面倒を見る小人国’‘国家なき日本の矮小な姿’など、自分自身を卑下し自嘆する声が、当時日本の右翼政治家と知識人達、そして日本民族主義者達の口から、憚ることなく噴き出た。

さらに、一角では“経済力にふさわしい政治大国をつくろう”“日本はすでにこれ以上、頼みさえすれば金を出す、自動金銭出納機と成ることは出来ない”と言う主張が露骨的に出始めた。これは、途方もない金額の金を、戦争費用として支援した事にも、それに対して公式的に感謝する言葉一言、聞く事が出来なかった事に対する怒りが、湾岸戦争直後の一部日本人達の間で、そんなやり方で表出されたのだ。

藤岡もその中の一人だ。“日本と言う国家は、果たして国家としての姿を、きちんと備えているのか?”米国の次を行く世界第2位の経済大国日本と言う国家に対する、新しい自覚が芽生えたのだ。日本国がこのまま行っては駄目だと言う国家意識、即ち日本人のナショナリズムに対して、藤岡は事新しく真摯に考え始めた。

 

 

 

史観転換運動の開始

 

ナショナルアイデンティーの確立が、何よりも必要だと判断した藤岡が、帰国後、一番先に着手した作業は、教育改革の急先鋒に立つことだった。彼は予め、明治図書から発刊する、月刊雑誌≪社会教科教育≫を舞台に社会科教育、その中でも歴史教育に関する授業内容の改革を訴える事に積極的に頼った。

その過程で、彼は1995年7月、現場教師達を中心に‘自由主義史観研究会’を作ることで、歴史教育の改革を理論的に支える事と同時に、改革運動の全国的な組織化に着手した。研究会の発足を前後として、季刊≪近現代史の授業改革≫(月刊≪社会科教育≫の別冊)が藤岡の編集責任下に発刊されて以来、彼の歴史観転換運動は、教育現場と、甚だしくは保守・右派政治家達の間にまで拡大されていった。

 

教育改革雑誌≪近現代史の授業改革≫は、‘暗い色彩’で塗られた日本近現代史を、‘明るい色彩’で置き換えると同時に、‘自虐史観’を‘肯定史観’に転換させる事に目的を置いた史観転換の雑誌だ。<戦争に関した授業’のパラダイム転換―‘東京裁判史観’を越えて>(第1号)、<世界史の中の日露戦争>(第2号)、<明治維新に関する授業をどの様に構想するのか>(第3号)、<‘日本占領’これだけは教えよう>(第5号)、<司馬史観と歴史教育>(第6号)等、特集の主題だけを見ても、藤岡とその追従者達が、具体的に何を狙っているのかが自明になる。

 

 

 

‘藤岡現象’

 

≪近現代史の授業改革≫は、予想外の驚くべき反応を呼び起こした。創刊後、初版8千部が瞬く間に売れて行き、増刷を重ねた2万部も売り尽くされた。所謂‘藤岡現象’が生れ始めたのだ。戦後50周年となる1995年に、日本国会で過去史反省決議の内容を巡って、ひとしきり政治的論難が広がったのも、藤岡現象を惹起するのに大きな働きをしたと思われる。

 

藤岡現象は、翌年である1996年に差しかかり、更に拡大された。常に保守右翼の立場を代弁する論調を焚きつけてきた<サンケイ新聞>は、1996年1月15日から‘教科書が教えない歴史’を連載し始め、歴史教科書の‘自虐史観’と、‘反日史観’に対する全面攻撃に進み出た。

その主導者は無論、藤岡であったし、執筆者達はやはり自由主義史観研究会の会員達だった。≪教科書が教えない歴史≫は、その年8月、同じ題目の単行本として発行されベストセラーに上がった。

これに力を受けて<サンケイ新聞>は、翌年まで2巻、3巻を相次いで発刊し、第1巻55万部を含んで、総百万部(1997年8月)を超える発売を記録した。読者たちの購買動機が何だったか、その単行本らが日本民衆の広範囲な人気を集めたと言う事実だけは、否認することは出来ない。

 

 

 

若い頃はマルクス主義者

 

藤岡は、彼自身が吐露した様に、若い頃にはマルクス主義の信奉者だった。日本の名士達の中には、青年期にマルクス主義者だったが、思想転向をした後、徹底した保守主義者に変身した人達がかなり多い。例えば、<読売新聞>の渡辺恒雄・現社長は、過去東京大学で共産党細胞組織を作ったし、近代主義に関する理論闘争を激烈に広げた日本共産党の党員だった。有名な政治評論家・早坂茂三氏も、日本共産党が米軍政下で非合法化された当時入党し、積極活動した共産主義者だった。

こんな名士先輩達の転向の先例に従って、藤岡が湾岸戦争を契機に、史観転換と歴史教科書の新書き換え運動を主導する、日本中心的な民族主義者として変貌した過程は極めてドラマティックだ。マルクス主義の歴史解釈(解析)<所謂、‘コミンテルン史観’>自体を、正面から攻撃する日本主義者として変身した藤岡について、10余年の知己である東京大学大学院研究科の佐藤学教授は、‘イクセントゥリク(eccentric・奇異な)’だと、表現した。理念と信念の変身それ自体が、奇異だと言うのではなく、変身と同時に表出された行動方式と、思考方式が奇異だと語った。

 

奇異な事はもっとある。即ち彼の名前だ。佐藤の説明によれば1943年北海道の小さい村で生まれた藤岡‘信勝’の名前には、‘大東亜戦争肯定論’が、そのまま刻まれていると言う。‘勝利を信じる’と言う意味の‘信勝’と言う名前を付け与えた藤岡の父親は、絶えず“ソ連は卑劣な国”だと話した反ソ主義者だった。そんな彼の父親は太平洋戦争の勝利を固く信じていた為にこんな名前をつけたのだ。感受性鋭敏な青少年時代を北海道で過ごしたマルクス主義者藤岡は、“ソ連は卑劣な国”だと言う父親の非難のため、少なからぬ内面的葛藤を経験したように見える。彼は、当時ソ連教育学の拠点だった北海道大学の学部と大学院で教育学を専攻しながら、マルクス主義と接する事となった様だ。

 

 

 

変更して、変更した教育学の研究分野

 

学校教育学を専攻した佐藤教授は、変更してまた変更した、藤岡の教育学関係の研究遍歴に対し、次のように語った。

“(北海道大学を出た後)彼の研究内容の中に、歴史研究は一つも無かった。教育学の方面でも、学術研究でなく実践の分析と評論が中心だった。科学技術万能、システム万能を指向する、言って見れば、教育プログラムの開発者だったわけだ。最初10年間、彼は仮説の実験授業として、理科の予測討論実験のシステムを社会科に運用するプログラム化にしがみついた。

しかし、1980年頃から、藤岡の研究は3年乃至、5年単位で取り換えた。これに対し彼は、科学万能主義が、行き詰まった袋小路に踏み込んだ為だと言うが、この点は、日本の高度成長の限界点にぶつかった事とオーバーラップされる。”

藤岡は、湾岸戦争直後米国に渡ったが、彼が米国留学を決心する事となったのには、二つの要因が大きく作用した。ひとつ目は、ソ連社会主義の挫折と没落だった。二つ目は、彼が身を寄せていた東京大学が大学院中心に転換しながら、教授達に少しアカデミックな研究を要求した為だ。藤岡も自らに‘研究の転換’を強要する以外にない状況だったようだ。佐藤はこの時、藤岡が“米国の教室でのナショナリズムを、文化人類学的方法で研究し、1年ぶりに学位論文を書こうとしたが結局挫折し、帰国してしまった。”と回想した。佐藤によれば、藤岡は米国留学で科学主義、技術主義とプログラム的思考の清算を強要された様で、それは必ず日本企業の挫折と重なって現れた。

時期的に見るとき、(佐藤の表現通り)藤岡の“イクセントリックで、エゴセントリック(egocentric:自己中心的な)な、ナショナリズム”が火山の様に爆発したのは、アジアの成長の進化のモデルを創出したと言う日本経済が、バブルの崩壊でぺたっと座り込んだ時と一致する。

佐藤が言う企業の挫折は、即ちそんな日本経済の挫折を意味する。佐藤によれば“自虐的な日本人という言葉が出始めたのは、即ちこの頃からだ。”ここに佐藤が下した結論は、こうである。

 

“私が見るのに、藤岡側がはるかにもっと自虐的だ。彼はロシアと米国の陰謀説(日本歴史解釈の陰謀説)”にくわえ、自己自身の歴史と日本の歴史を重ねてしまっている。戦後一部日本人達が抱いてきた報復感と屈辱感が凝縮され、現われているとしか考えられない。”

 

(訳 柴野貞夫 2010・8・28)

 

○次回予告

 

<藤岡と司馬史観の出会い>

 

 

○参考サイト

 

 

★159 日本の右翼教科書(検定)を出したところは、‘品の無い’二つの出版社 (韓国・ネット新聞オーマイニュース 2009年4月10日付け)

 

☆ 20 歴史歪曲の先頭に立つ日本の“新しい歴史を作る会” 藤岡副会長インタビュー!!(韓国・ハンギョレ紙 2007.5.29) 



参 考 サ イ ト

日 本 を 見 る - 最 新 の 時 事 特 集 「日本主義者の夢」 キム・ヨンボル著 翻訳特集