平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意した。この、日本国憲法前文の理念こそ、第9条の力の根源である。
第9条(1項、2項)は、アジアの民衆に対する「謝罪宣言」であり、日本の民衆の「決意表明」である。
教科書から「慰安婦」の記述を削除し、強制連行は根拠がないと主張、大東亜戦争を賛美して、君が代と日の丸を強制する国家権力の先頭に立っているのが、安倍晋三である。 君が代を、歌う声が小さいと子供の口に、汚い手を突っ込んで唱わせた東京都教委を支えているのが安倍である。
しかしこの、君が代訴訟で、まだ憲法第19条(思想,良心の自由)と教育基本法第10条、1項(不当な支配)が生きていた為に、この国家権力(直接には東京都)の行為を、地裁は「違憲」と断ずることができた。 今これと同じように、憲法第9条2項(軍隊はこれを保持しない)は、自衛隊を「憲法」上の裏ずけのない「軍隊」としている為、米国との軍事同盟では、集団的自衛権の行使と言う戦争行為を制約し、今のところ直接的には、人を殺す集団にさせないのである。(後方支援はやっているが)
憲法第9条は、侵略行為の反省の上に築かれた、アジアの民衆に対する歴史的な「謝罪宣言」とも言うべきものであり、又、二度と日本天皇制軍国主義・帝国主義の復活を許さない!と言う日本の「民衆の決意表明」でもあるのだ。 中国、朝鮮、東南アジアのひとびとは、この9条を、「平和条項」と呼んで讃えてきてくれた。 この条項を「捨てる」ことは、アジアの民衆にたいして、日本天皇制帝国主義の歴史を、正当化するものになるのである。
第9条の理念の対極にあるものは、アメリカの非人間的なイラク戦争である。
安倍自民と日経連は、改憲を正当化するために、「占領軍の押し付け憲法だから自主憲法が必要だ。」とか「現実と乖離した、空洞化憲法を、実体化するだけだ。」とさけんでいる。 日本列島がアメリカの植民地の様に米軍基地で占領されている状況なのに、そして、この改憲こそアメリカの要求でもあるのに、尊王民族主義者として、安倍やブッシュに文句の一つさえよう言わない、「国粋主義」が聞いてあきれる、ていたらくな日の丸右翼の街宣車から流れるアジ演説と、どこがどう違うのだ。
「平和憲法」を亡き者にしようと、法を絶えず蹂躙することによって「空洞化」を企んで来たのは、他でもなく国家権力なのだ。「押し付け」と「空洞」が問題なのではなく、その憲法が持つ理念と、それを壊そうとするもう一つの理念が問題なのである。 憲法前文は述べる。「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意した。」 この決意と理念こそ、第9条(1項、2項)が力を持つ拠り所なのである。 この、軍事プレゼンスの対極にある平和の理念こそ、現実の国際社会で最も生き生きとした力をもっていることは、六カ国協議2・13共同声明の道筋があきらかにしている。 この対極こそ、イラク戦争で、人間性腐敗のおぞましい姿をさらしている、アメリカの政策にいきつくのである。
安倍自民と日経連は、「日本国憲法にもとずく平和立国」を拒否し、国際政治に対する日本の軍事プレゼンスの強化の道を選択したのだ。それは、何度も繰り返すが、国内の民衆に対する強権支配の道具となり、国家統合の思想を生む。
たとえば、「徴兵制」で、自分の息子たちが兵士として戦場に送られ、「国家の人質」としてとられた時、無数の「愛国者」を生み出して来た事を、日本の歴史が、教えているのではないか?治安法規や有事法規、国家による教育介入・統制はすでに始まっている。
改憲は、日本資本家の、私的利益のための軍事国家化である。
安倍自民と日経連がいま、日本の政治と社会と法体系を、根本的に「軍事国家」へ向けて押し出そうといることに、おおくの国民は目くらましされている。目をくらます為に矢継ぎ早に,でっち上げ公聴会や、御用諮問会議を開き短期間の国会審議で,憲法を否定する諸法規をつみかさねてきたのだ。
日本の資本家階級は、アジアと世界の資本主義市場で独立した(日本独自に)軍事的プレゼンスを持ちたいと考えているのだ。(安倍は最近各種談話で、祖父の遺志として、日本の米国への軍事的依存が、政治の弱体化を生んでいる。60年安保は、片務的であるとの趣旨で、日本の武装化を論じている事に注意を向けなければならない。) 国民総生産世界第2位の日本は、例えば、アジアの中国だけをとっても、現在、約2万社と言われる日本企業が進出している。「国益」と称する日本資本家どもの私的利益の防衛の為にも、それが必要だと考えているのだ。 改憲は、このプロセスの中にある。
日本資本主義と安倍自民は、在日米軍5万数千名もの兵士と列島128箇所の巨大米軍基地を、自衛隊にむすびつけ、米軍の新たな世界的再編への統合の中に、自らの利益を展望しているのだ。
「在日米軍再編」は、日本と自衛隊を、アメリカの世界戦争戦略に組み込み、日本列島を軍事列島に変え、平和憲法体制を破壊しようとするものである。
(憲法シリーズ1)でも触れた「在日米軍基地再編」問題を通して、今少し詳しく、日本の政治社会状況が、根本的に変えられようとしている現実を、直視しなければならない。 アメリカ・ブッシュ政権は、「国防軽視」のクリントン批判により、主に軍事産業を基盤としたネオコングループによって支えられ登場したが、2004年11月米軍の軍事戦略を50年ぶりに見直し、冷戦時代に作られた体制を同盟国を巻き込んで再編しようとして来た。即ち、基地のある近くで戦争をすると言うのでなく、「基地から遠方かもしれない場所へ、戦力を投射出来るように部隊を再配備する」(2004年6月23日・米下院軍事委員会でのダグラス・ファイス国防次官、毎日新聞)と、言うのである。
日本の、国家権力寄りの、国際政治学者も、「北東アジアから中東にかけて、いわゆる不安定な弧に焦点をうつして、むしろ脅威に対しては早い段階で、出来れば予防的に芽を摘み取ろうとする予防力としての性格を強めている。存在(プレゼンス)による抑止を前提としていた冷戦期に比べて戦術思想そのものが攻撃的活動的である。」(2004年12月2日付け 日本経済新聞、中西寛 京都大学教授)
彼の米軍再編の意図の分析はそのとうりであろう。ここで言う「予防力」とは、先制攻撃のことである。アメリカは、2001・9・11以降、テロを国家統合のイデオロギーとして最大限に利用しながら、世界市場や資源戦争に、軍事力展開の再編をはかった。 日本もまた、アメリカとの経済的対立・市場争奪に於ける危機的対立の回避や調整としての「日米同盟重視」を図らざるを得ないのである。それが結果として、一見「従属的な米国追従外交」や、「独立国としては考えられぬ半恒久的な米軍基地」となって現出しているが、それは働く民衆の犠牲の上に、日本の資本家階級の利害とアメリカの利害が、今のところ一致しているからに他ならない。
2004年11月 小泉政権時、彼の私的諮問機関「安全保障と防衛力に関する懇談会」(荒木報告)に沿って、「防衛計画大綱」が提示された。
それは、ブッシュ政権の世界的な軍事態勢見直しに沿って日米軍事同盟再編に対する日本自衛隊の全面的な合流を狙ったものである。「防衛計画大綱」は、言う「米軍の軍事的プレゼンスは、アジア太平洋の平和と安全に不可欠である。国際テロに対応し我が国に脅威が及ばないようにする為に・・・米国との戦略的対話に取り組む」と。日本は、テロを口実に、アジアに対して対話と協調ではなくアメリカの核と軍事力、そして自らの軍事態勢の強化で望むことを宣言しただけではない。米軍とともに先制攻撃も辞さないその世界的な軍事再編に全面協力を約束したのだ。
これは次ぎの日米安全保障協議会(scc)に向けての、米軍再編に対する日本側の基本方針を示すものであった。
国際法学者・中西氏は、憲法を否定して集団的自衛権を持つべきと主張している。
(注)集団的自衛権とは、軍事同盟を結ぶ相手国への攻撃を、自国への攻撃とみなす事により第三国への戦争行為に参戦する義務が生じる。従って自国の軍隊の海外派兵(侵略行為)を合理化するものである。憲法9条2項が、その歯止めとなっているのである。
この「防衛計画大綱」が策定される直前に、国際政治学者、中西寛氏は、「在日米軍再編」に対する日本政府の理解が、不十分だと、(日本の国家権力の視点から)、「米戦略の根本的変化に対する意図をつかんで対応せよ。」とハッパをかけていた。
その一文の中で「米国にとって最大の問題は、日本側が常に取り上げる法制的な制約だろう。集団的自衛権の不行使の憲法解釈や、武器輸出三原則などは、作戦計画上大きな障害になり、時代遅れの発想にもとずいた制約と見なされよう。訓練などの基地運用についても、受け入れるからには米軍に対する運用上の障害は、最低限にとどめるべきだと言う原則論が強まることになる。
更に、極東条項や事前協議と言った枠組みをもつ現行の日米安保条約そのものも、冷戦時代の遺物であり現在の条件に適合しておらず、可能なら改定が望ましいと言うことになろう。・・・・程無く確定される、新防衛計画大綱下での日本の防衛政策において、作戦や情報などで米軍との緊密な連携を期待するであろう。」(同上)引用が少々長くなったが、在日米軍再編の狙いを、日本の全面的な協力の下に貫こうとするアメリカが、日本国憲法と、現行安保条約による制約と枠組みを「障害」とみなしており、日本政府は其れに適切な対応をせよと言う、この国際法学者の立場は、日米両国家権力による法の蹂躙の是認を前提として、在日米軍の世界侵略基地化と、日本の軍事国家化の法的整理を、理論化しようとしている点において、反民衆的であると言わざるを得ない。
中西氏は、日本列島を基地として在日米軍が世界展開する上で、日本の憲法と国際法・日米安保条約が「障害」となることに注意を喚起はするが、 法の枠組みの中でしか、日本での駐留を決して許されない米軍の「日本の基地から世界中どこにでも投射出来る部隊の配置」や、自衛隊の協力などは、「極東条項」、「基地使用」、「事前協議」を破り、憲法にもとずく「武器三原則」の理念を踏みつけ「集団的自衛権」を否定する憲法に対する許されぬ違法行為であり、「法冶国家」として認められるものではないとは、一言も言わないのだ。
憲法も国際法も無視して、日本列島を総基地化して、世界中に核武装した爆撃機をとばし、原子力空母を繰り出す米軍の存在と、それに協力する自衛隊と言う、許されぬ法の破壊こそ、まず前提的に批判し糾弾すべきではないのか?
中西氏は、「時代遅れにもとずいた制約」「時代遅れの発想」「冷戦時代の遺物」と、「アメリカがみなすであろう。」と言う文脈で、彼自身が日本の平和憲法の理念を口汚くこきおろしているのだ。この、「時代遅れで冷戦の遺物」こそ今日のアメリカ帝国主義と日本帝国主義の、一連托生の「軍事国家主義」ではないのか? かれは、文章の最後で、「日本の安全保障にとって北朝鮮や中国の動向を考えれば、米国との軍事協力関係が根幹を成す事も動かしようもない現実である。」(同上)成るほど、この「学者」が、権力の代弁者であることは、動かしようもない現実であることがよくわかった。
日米安保体制化で、権力によって「法の空洞化」がすすむ現実を、告発する事こそ学者の役割ではないのか。働く民衆は、日々の肉体の再生産に追われ、生活に結びついた問題には敏感だが政治問題は理解するには時間がない。権力は、常に虚偽の脚色をして、真実の姿を隠してきた。
生活の格差は同時に知の格差も強いられるのだ。「学者」と言うものは、この働く民衆の為にこそ存在すべきなのだ。
日本国憲法の理念こそ「平和の構築」である。
アメリカが、憲法の縛りによって集団的自衛権を行使出来ない自衛隊や、基地規定、極東条項の制約のある現行軍事同盟を「時代遅れの軍事同盟」と言うなら、我々は、民衆の立場から、「日米軍事同盟そのものが時代遅れだ」と言わなければならない。日本は、安保条約破棄・日米軍事同盟の解体のうえに、東北アジアの平和構造の構築をアジアの諸国とともに、進めていく事こそ、新しい「平和の安保体制」であるとかんがえるのである。
中西氏は、「日本の安全保障にとって・・・米国との軍事協力が根幹をなす。」と言うが、「安全保障」とは軍事力のことだけではない。 安保は、平和の安保を含む「政治の目的」であって手段ではない。彼はこの政治の目的を、「軍事力で実現する」と言っているのと同じだ。しかも侵略的・戦時的・重武装国家アメリカとである。
1831年プロシャの参謀長・カルル・フォン・クラウゼヴィッツは、その名著「戦争論」の中で言っている。「戦争とは敵を強制して、我々の意思を遂行させる為に用いられる暴力行為である。その行為には如何なる限界もない。一方の暴力は他方の暴力を生み、そこから生ずる相互作用は理論上その極限に達するまで止むことはない。」
しかもこの戦争とは、「単に政治行動であるのみならずまったく、政治の道具であり、政治的諸関係の継続であり、他の手段をもってする政治の実行である。政治的意図は目的であって、戦争は手段であり、そして如何なる場合でも、手段は目的を離れては考えることは出来ない。」(昭和40年、徳間書店版 kvクラウゼヴィッツ) 中西が、「安保」と言う政治の目的を「軍事協力が根幹」と言うとき、それは政治の一手段に過ぎない戦争を、最も基本的手段と考える戦争至上主義者・アメリカ帝国主義者の視点である。軍事力でしか「安保」を保障出来ないとしたら「暴力は暴力を生み理論上その極限に達するまで止むことはない。」イラクの悲劇がそれではないか?「核抑止力」も、ただ核の保有数と新たな核開発をきそうだけではないか?
アメリカは核弾頭を7000発も所持してどうするつもりか。
日本の平和憲法の理念こそ世界の平和構築の「安保条約」であることを、われわれは強調しなければならない。軍事力で何でも出来ると思ったら大間違いだ。世界一の軍事力を持つアメリカが、どうしてヴェトナム民族に勝てなかったのか、弱小国家北朝鮮が、何故アメリカや、日本の反共軍事包囲網の中でもちこたえているのかをかんがえればわかることである。
在日米軍の再編をめぐる論議で明らかになったことは、逆に言えば(民衆の側から言えば)、権力による法の空洞化がありながら、我々にはなお、日本国憲法と言う大きな砦があるということである。(続)
|