(シリーズ1)
働く民衆の諸権利への剥き出しの攻撃が始まっている(2007年1月23日)
@ 国家権力は、働く民衆を支配する資本家階級の道具である。
権力とは、我が国の様な資本主義国にあっては、資本主義社会の存続を前提として、その法制度と経済システムの下で、国家行政機関・裁判所・軍隊・警察等を組織し、社会のあらゆる「しくみ」によって資本主義制度と資本主義市場経済を絶対的な善として維持しようとする執権政党と、その執行機関としての国家の諸組織のことである。この国家の「しくみ」は、民衆参加の議会選挙によって、あたかも民衆主体の民主的手続きによる「共同体社会」を実現しているように見せかけているが、それが資本主義経済体制に基づく「資本と労働」の階級社会である限り、国家権力は一方の極としての「資本」の立場による他方の極である民衆(労働)を支配する為の道具であり続けざるを得ない。常に、自らの利益の為だけに、働く民衆をいかに支配するかを考えている日経連資本家と、その下で自らの権利を守って生きて行かねばならない民衆との、現実生活の関係自体が、国家のありようを規定しているのであって、その逆ではない。国家はいつでも「共同体」の装いを持ちながら、現実生活で力を持つ資本家(日経連と大企業を中心とする)の支配の道具となりうるのである。
A 働く民衆の抵抗だけが、権力から民衆の諸権利を守る事が出来る!!
従って、民衆と権力との関係は、資本主義の枠内にあっても民衆の諸権利を法的に規定し、国家権力の一方的な支配を「縛る」闘いの歴史であったと言える。日本国憲法も、民衆の諸権利を規定し、国家権力の一方的な支配を法の文言上では制限して来たが、それは民衆と権力の力関係によって断えず左右されて来た。国家権力は、常に民衆の抵抗がなく力関係が有利と見ると、民衆に対する強権的支配へと向かい、法の文言上の「権利」をすら奪い取り、又それを民衆の「義務」に置き換えんとするのである。先般、強行採決された「改正教育基本法」は憲法第19条(思想及び良心の自由)に基づいて、教育基本法第10条が「教育が不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任をもって、行われるべきである」と規定するところを“法律に定める所により”との文言で置き換え、“通達”などの国家による行政裁量により、教育への際限なき国家権力の介入に道を開き、子供と教師の権利と人権を踏みにじるものとなる事は明らかである。
B「教育基本法改正」は国家権力の教育への介入と憲法19条(思想・良心の自由)を空文化するものである。
昨年、通常国会のテレビ中継で「教育基本法第10条で言う“不当支配”とは何を意味するのですか?」と民主党議員に問われた文部科学省の伊吹大臣は、「特定の政党や政治団体の介入のことを指していると理解している」と答えた。マグナカル憲章に範をとった近代法の概念でさえ“それ”は“国家権力の支配”を指す事ぐらい、ブルジョアジー階級(資本)の代弁人の伊吹氏なら百も承知のはずだろう。承知して言っているのであれば民衆を愚弄するものであるし、そうでなければ民衆にとって危険な大馬鹿野郎だ。昨年、東京地裁は東京都の都教育委員会が通達と職務命令によって教職員に「日の丸・君が代」を強制し、それに従わなかったとして多くの教職員を処分した事に対する「反対訴訟」に対し、憲法第19条と教育基本法第10条に照らして、憲法違反であるとの判決を下した。この間、東京都の教育現場で“君が代”を歌う声が小さい!“日の丸”への頭の下げ方が悪い!などと教師や生徒に命令を下す東京都の校長たちには、教育者としてのかけらもない。ノルマ達成に向かって、働く民衆に号令する企業の中間管理職そのものである
C 東京地裁は「日の丸・君が代」が「皇国思想と軍国主義思想の精神的支柱である事は歴史的事実」と断じた。これが、日本国憲法の理念に基ずくあたりまえの判断である。
彼らに対して判決は言う。「我が国において、日の丸・君が代は明治時代以降、第二次世界大戦終了までの間、皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱として、用いられて来た事があることは、否定し難い歴史的な事実であり、国旗国歌法により、日の丸・君が代が国旗・国歌と規定された現在においても、なお国民の間で宗教的・政治的にみて、日の丸・君が代が価値中心的なものと認められるまでには至っていない」「通達及びこれに関する被告・都教育委の都立学校の各校長に対する一連の指導は、教育の自主性を侵害する上、教職員に対して一方的な一定の理論や観念を生徒に教え込むこと強制することに等しく、教育に於ける機会均等の確保と、一定の水準の維持と言う目的の為に必要且合理的と認められる大綱的基準を逸脱しているとの謗りを免れない。通達及びこれに関する都教育委の都立学校の各校長に対する一連の指導等は、教育基本法第10条1項所定の不当な支配に該当するものとして、法規としての性質を否定するのが適当である」「通達及びこれに関する被告・都教育委の一連の指導等は、教育基本法第10条に反し、憲法19条の思想良心の自由に対し、公共の福祉の観点から許容された制約の範囲を越えているというべきである」。
D「教育基本法改正」は憲法改悪の前倒しである。
少々、引用が長きにわたったが、この判決は次の諸点を我々に明らかにしている。第一に、日本国憲法と教育基本法に定められた民衆の諸権利と言うものは、現実には断えず国家権力とその意を含んだ行政によって脅かされ侵害されるものだと言う資本主義国家のいわゆる「民主主義」の実体を示しており、第二に現実には断えず侵害される民衆の諸権利は、たとえ条文上であったとしても民衆の力によって守らなければならず、この条文があればこそ、このような判決によって一時国家権力に打撃を与えることが出来たのだと言う事を示している。具体的には、民衆の思想・良心に対する国家権力の介入強制の不当性を憲法19条によって、国家権力の教育におけるその実現としての教育基本法10条によって、国家権力の教育における思想・良心への介入を断罪したのである。更に特徴的なのは、この判決が皇国主義と軍国主義と言う明治から昭和への過去の日本資本主義の帝国主義的体現が生み出した、アジアと日本の民衆のおびただしい犠牲の上に日本国憲法と教育基本法が成立し、民衆の権利が書き込まれたことを暗示している点である。民衆の思想・良心への国家の介入の行き着く先は、1929年に死刑を刑罰として付け加えた日本の治安維持法や、その韓国版としての李承晩軍事政権時代に制定され、朴正煕軍事政権時代に「反共法」を吸収する形で制定された「国家保安法」のように国家イデオロギーに対立する民衆の「思想」を「死刑」によって裁く別名「死刑法」の登場であった事を思い出さなければならない。
E憲法改悪(第9条―1項・2項の削除他)の為のプログラムである「国民投票法案」は、安部自民党政府と資本家経団連による反民衆クーデターである。
東京都と文部科学省はこの判決を「不当」とし、今後とも従来通り教育への介入を公言してはばからなかった。又、その為にこそ過日の教育基本法改悪したのである。教育基本法改悪は憲法の理念をまず部分的に否定した事になるのだ。更に、憲法9条1項と2項は相互に補完しあう条文であって、「軍隊」と「戦争」の放棄を世界に向かって宣言し、国家権力が民衆を戦争に狩り立てる事を縛り、アジアの民衆から「平和条項」として讃えられている法の規定である。国家権力(自民党・公明党)はこの削除を日程にのぼせている。過日の防衛庁の格上げは、憲法9条の否定と改憲に向けての「軍隊=軍部」への準備体制である。更に安倍自民・公明党政権によって強行されようとしている改憲手続きの為の“国民投票”は、全議員の三分の二以上の賛成によってしか発議できない事を定めた憲法第96条の否定であり、全投票数の過半数でありさえすればその投票率と関係なしに改憲が成立すると言う反民衆クーデターとも言うべきものである。(詳細については次号にて説明する)これら平和と思想における民衆の諸権利に権力は何故、今矢継ぎ早に攻撃を加えてきているのか?それは次に述べる様に、今日の日本の資本主義体制が働く民衆に対し、その「肉体的再生産」=生きる命の権利さえ奪いかねない様な、剥き出しの支配をしなければ生き延びていけない事の証左なのである。
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