(ハンギョレ21 2008年6月6日 713号/小林多喜二を紹介する韓国週刊誌の記事)
http://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/291978.html
予測できない歴史の躍動性‘あっ!蝋燭’
ソ・ギョンシク (東京経済大教授)
一週間前ごろ、夜遅く家に帰って、インターネットの受信メールをチェックして見たら、ソウルのハン・ホンク(韓洪九)教授、(訳注―韓国、聖公会大教授、平凡社から‘韓洪九の韓国現代史T、U’が出版されている)からメールが来ていた。ソウル滞留中に大変世話になったが、日本に帰った後そのまま、ろくな挨拶も出来ず、消息を尋ねて来たのかも知れないと言う気がしたが、一瞬、あっしまったと言う思いがした。メールを開けてみると、こんな内容だった。“先生に在っては、本当によくない時期に韓国へいらっしゃった。どうして、先生、行かれてひと月余ぐらいで市民たちが道にあふれ出るのでしょう。”
私は、2006年4月から2,008年3月まで韓国に滞在したが、その時期は韓国の市民運動、進歩運動の停滞期で、進歩勢力が高い犠牲を払い獲得した政権を、保守派に対しあまりに容易く明け渡した時期でもあった。
私は、心の中に刻印されていた過去のイメージと、目の前にある現実とのギャップに当惑した。こんな私に対しハン(韓)教授は、普段の歴史の予測不可能性を強調した。
6月抗争を近くで体験した彼は、パク・チョンチョル学生の拷問時、事件後わずか数ヶ月だけでその大抗争が燃え上がり、遂に軍事政権の退場まで実現すると言うのは全く予測出来なかったとしきりに話した。 したがって今、無気力で無関心の様に見える大衆も、何時どんな契機を掴まえて立ち上がるのか、予測することが出来ないと言うことだった。
私は、何時も懐疑的な態度を見せながらも、そんな予測の不可能な瞬間を私の目に直接目撃し、体験してみたいと言う思いを持っていた。
李明博政権の、米国産牛肉輸入制限撤廃に対する抗議運動が、予想外にも拡散・高潮している。その上今回の運動は、既存のどんな組織や指導部が指示している事もなく、完全に自然発生的に起こったものだという。昨日、(6月1日)日本の新聞は、一連の韓国の集会参加者と関連して、その数が10万名に達し、李明博政権に対する市民達の反発は牛肉問題だけでなく、教育、福祉政策にも拡散していると伝えている。
今回の事態が、どの様に帰結するかは少し見守らなければならないようだ。ラジカルな(急進的な)変革とか、革命的状況に繋がるようではないが、・・・そうして見れば、日本でも最近、わたしの‘予測’を裏切ることが起こっている。
小林多喜二の小説<蟹取り船>〈蟹工船〉が、爆発的に売れている。“本当に、予測不可能でありながらも、躍動的ですね。この力が何処から出て来るものなのか?一方では、恥ずかしかったりして、一方ではうれしく、また同時に心配も多くなります。”ハン教授は、私に送ったメールでそのように書いた。全くそのようだ。今回の事態がどんなに帰結するのかは、もう少し見守らなければならないようだ。ラジカルな変革や革命的な状況に繋がるようではないが、しかし、どこまでも懐疑主義者である私の‘予測’であるほど、言い切ることは出来ない。
そうしてみると、日本でも最近、私の‘予測’を裏切ることが起こっている。小林多喜二の小説<蟹取り船>〈過去‘蟹工船’として翻訳されたもの〉が爆発的に売れている。日本プロレタリア文学の古典的名作だ。一時、すでに‘過去の歴史’に属するものなので、最近、読者のより好みや、関心対象になることが出来ない本だった。こんな考えをしていたのは、私だけではない。ところが、今年2月頃から急に売れ始めて、本を出した出版社も大幅増刷をしたと言う。
作家、小林多喜二は、1903年秋田県で貧農の息子として生まれた。北海道の小樽高等産業学校を出て、銀行員になったが、学校に通うときから文学活動と社会主義運動に身を投げた。日本共産党に対する大弾圧と拷問を描いた<1928年3月15日>で、権力の憎悪を買った。世界大恐慌が起こった年である1929年に書いた代表作が<蟹取り船>だ。
この作品で彼は、ソ連領カムチャッカの領海を侵犯して、蟹を取って船の上で加工し灌詰めに作る蟹取り船を舞台に、地獄のような酷使と虐待を受け働く民衆の姿描いた。その暴力は、会社の利潤と大日本帝国の国策だと言う名分として正当化された。こんな状況を耐えられなかった労働者達は、結局自然発生的に立ち上がってストライキに突入したが、彼等は自分達を保護して呉れると信じていた海軍の弾圧に直面した。
ここに描写されているのは、日本帝国主義が、その根源的蓄積期に犯した非人間的搾取の真実だ。こんな真実を描いたと言う理由で、作家小林は治安維持法と不敬罪で検挙された後、一旦釈放され地下生活を始めたが、1933年2月20日、内通者(官権のスパイー訳注)の密告でまた逮捕され、直ぐその日、警察の死の拷問のすえ虐殺される。
中国の文豪、ルーシュエン(魯迅)は、小林多喜二の死に、労を褒めたたえ、次のような電報を送った。“日本と中国の大衆はもともと兄弟だ。資産階級は大衆を欺きその血で境界線(両国の大衆に)を区切った。そして、継続して区切っている。しかし無産階級と其の先駆者達は血でそれを洗っている。同志小林の死は、それを実証するする一つだ。我々は承知している。我々は忘れないだろう。我々は、固く同志小林の血路に従って、前進し手を握り合うだろう。”
階級的国際連帯よって、反帝闘争を呼訴した小林多喜二の叫びを誰より深く受け入れた人は、日本軍国主義の侵略を被った中国の魯迅だった。その後の歴史は、小林と魯迅が血を流して発した叫びを裏切ってきた。
しかし今、その小林の<蟹取り船>(訳注―<蟹工船>)が、日本の若い人々に読まれている。1980年代以後、日本では‘貧困’と言う単語自体が実感を伴わない死語となっていた。小林多喜二の‘たぐい(類)’を読むことは、研究者や奇人達だけだった。しかし今、日本は‘貧困’が今一度切実な実感の中に言及される社会となった。若い人々が<蟹取り船>を読むことは、そこに描写される非人間的搾取の世界に自分達を投入しているためだ。
無論、こんな動きを過大評価しては駄目だろう。経験も組織もない孤立された非正規職である彼等は、すこしずつ、出口のない蟹取り船の底床で追い立てられている。
小林多喜二が殺されたとき、魯迅が発した叫びは今も生きている。資産階級は、無産階級を欺き境界線を区切る。無産階級はすでに何回も騙されてきた。今、更に騙されては駄目だ。
(訳 柴野貞夫)
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