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(韓国 民衆言論 チャムセサン 2009年1月23日)

http://www.newscham.net/news/view.php?board=news&id=45190&page=1&category1=38

 

 

 

灰燼から、また立ち上がるガザ

 

 

 

廃墟の中、生きるための残ったかけらを集めて

 

 

ピョン・ジョンピル記者

 

 

 

イスラエルが、一方的攻撃を中断した去る18日(現地時間)、そしてその後、廃墟のなかで、住民達は破壊で散らばっていた命のかけらを再び集め始めた。人々は、また家に帰って来て、廃墟のなかで衣類などを取り出した。依然として、危険な戦争状態の中で、ガザ住民達は立ち上がっている。この文章は21日、<パレスチナクロニクル>
http://palestinechronicle.com/)に上稿された文章を翻訳した。<イスラムオンライン>の特派員である、オルラ・アタルラが取材した。

 



△写真― また家に帰ってくる、ガザ住民達〔出処・パレスチナクロニクル〕

 

 

 

ずい分早い、明け方だった。そこで、サミルはガザにある彼の服屋の外で、せっせと破片を片付けていた。ところが、驚いた事に、店の門を開けるや数分でその日初めてのお客が来た。

 

 

“破壊と苦痛でよろけるガザは、まだ生きている。”と、サミルは<イスラムオンライン>に語った。

 

 

海岸に沿って、場所をとった土地が、22日間、とんでもないイスラエルの陸、海、空の爆弾の攻撃で廃きょとなったが、人々はすばやく、命の残った部分を拾っていた。

 

 



△写真 廃墟となった家の前、食卓でご飯を食べている、〔出処/ パレスチナクロニクル〕

 

 

 

サミルの様に、ハメドゥも木材車に新鮮な野菜と果物を載せてやってきた。しかし、品物を買う客がいると言うことは期待しなかった。ところが、わずか1時間も過ぎないのに全て売れてしまった。

 

 

イスラエルの爆撃で、家に閉じ込められていた人々は、生きるのに、のどが渇いたし、空腹だった。何メーターも行かずに、子供らが群れを成してサッカーをしていた。家と学校の瓦礫の中で。

 

 

“こっちへ来い、遊ぼう!”、10歳ぐらいの子供が友達に言う。“戦闘機は行ったし、我々は直ぐ学校にいくの。母さんがいま、そう言ったよ。”幸せいっぱいな目で、友達に言った。

 

ガザ地区の教育部は、次の週の土曜から、学校と大学の授業が始められると語った。部分的に破壊された学校などは、空間不足の為、昼間と夜間に分けて授業をすることになる。ガザの学校の80%は、イスラエルの爆撃で破壊された。この爆撃で1300名以上の人々が殺されていったし、その中の半分は、女性達とこどもだ。数千名が負傷した。

 



△写真 骨をも溶かす,イスラエル軍の白燐弾の雨が降っている。〔出処/UNRWA〕

 



△写真 同上 〔出処 /UNRWA〕

 



△写真 17日、ベイツラヒヤ国連学校をイスラエルが攻撃した。 〔出処/UNRWA 〕

 

 



△写真 ガザ地区南部、カンユーニスのナセル病院で、火傷で焼けた顔を一人のパレスチナ住民が治療を受けている。人
権団体‘ヒューマンライツウオッチ’活動家達は、イスラエル軍が、燐化物質が含有された爆弾(白燐爆弾)を人口密集地域に浴びせたと、批判した。〔出処 AP PHOTO/EYAD BABA〕

 

 

 

ガザのあちこちで、人々は冷たく粉々になった祖国を、再び立てることに決心した。“ガザはまた、美しくなるだろう。”ガザシテイーのアルガルラア街の、戦害の山を片付けていた一人の公務員が、言った。“イスラエルの攻撃はやんで、今我々は占領軍が破壊した痕跡を片付けるだけだ。”と彼は説明した。“われわれ(の活動を)止めるようにする事はなにもない”と、決然とした声だ。

 

 

法秩序を確立する為に、警察は再びガザ地区の街に帰ってきた。ハマスが主導している政府は、すべての長官達が、次の週から仕事を再開するのだと明らかにした。イスラエルが、政府ビルヂングを全て攻撃目標とし、臨時で留まったビルヂングを準備した。イスラエルは、ほとんど2万棟の家屋と48個の政府事務所、31箇所の警察署、30箇所の寺院を破壊した。

 

 

しかし、公務員であるアメルは、破壊の規模だけでは、結果、生き残るガザ人たちの意思を打ち破る事はできないのだと、語った。“もしかして、我々が避難所で命を終えるとしても、イスラエルの戦争の計略は、より良い未来に向う我々の希望までは、決して取り除く事はできない”と、アメルは言った。

                                                                               

                            

 

(訳 柴野貞夫 2009年1月23日)