(朝鮮民主主義人民共和国 労働党中央機関紙 7月2日付)http://www.kcna.co.jp/today-rodong/rodong.htm
<雲揚>号事件と<江華島条約>に光を当てた強盗的蛮行
百年の宿敵である日本(日帝)が、歴史的に我が国に掛けた罪悪は、数限りなく多い。侵略的な《雲揚》号事件もその中の一つだ。今も我が人民は、我が国に対する植民地支配を実現する為に捏造した《雲揚》号事件を忘れていない。
19世紀中葉、徳川幕府統冶末期、欧米列強らの半植民地的隷属の立場に置かれていた日本では、日毎甚だしい民族的、また社会階級的危機の出路を、朝鮮侵略で求めなければ為らないと言う、極めて冒険的な《征韓論》が台頭した。
それは、《明治維新》を契機に,国家政策として転換された。これによって19世紀後半期、奸悪な日本軍国主義者は、我が国に対する強盗的武力侵攻に着手した。
1875年5月、日本の侵略船・《雲揚》号は、日本軍国主義の頭目等の直接的な命令を受けて我が国のプサン(釜山)に忍び込んだ。彼等は、所謂軍事練習と言う口実の下に各種挑発行為を強行した。《雲揚》号は、プサン港を出て東海岸へ北上しながら、我が国の沿岸に対する非法的測量をした。
この侵略船は、我が国の重要な軍事要衝地の一つであるヨンフン湾(クムヤ湾)に忍び込み、測量をはじめとする各種軍事偵探を強行した。《雲揚》号は、クムヤ湾を出て再びプサンに忍び込んだが、自分の巣窟である長崎に帰って行った。
日本軍国主義者達は、また、《雲揚》号の侵略行為と時を同じくして、数隻の軍艦を我が国沿海に侵入させ、夜昼無く、武力示威を強行する騒動を繰り広げた。
《雲揚》号は、我が国の首都だったソウルの、重要関門であり軍事要衝地であった江華島に対する武力侵攻任務を受けて、その年また江華島沖合いに忍び込んだ。敵艦長、井上は、20余名の日本侵略軍を小さい船に乗せ換え、チョジジン砲台に接近するようにした。井上は彼等の侵略軍がチョジジン砲台に接近した事が、船に水が尽きて給水地を探す為に止まったと弁明するが、事実は朝鮮砲台に対する偵察と挑発に目的を置いたものだった。
砲台に接近する侵略者達を発見した我が国のチョジジン砲兵らは、即時に、敵たちに砲弾の雷を食らわせた。こうなるとすぐ、侵略船《雲揚》号は、待っていたとばかりチョジジン砲台に向って砲撃を強行した。
チョジジン砲手達の頑強な抗戦で、到底、砲台に近付き侵略する事が出来ない事を感じる事と為った日本侵略者らは、小さい船でどんな防御施設も無い平和的住民地帯であったチョンサンドを不意に襲撃し、無辜な人民達をむやみやたらに殺し、住居らに火を放つ鬼畜の様な蛮行を強行した。
日本侵略軍は、比較的防御が弱い、ヨンジョンドの東側にあるヨンジョンジンをまた襲撃した。当時、ヨンジョンジンの中には、600余名の住民達が住んでいたが武器と言うものは射程700mだけしかない旧式小口軽砲30余門しかなかった。
悪賢い日本侵略者達は、爆弾が届かないヨンジョンジン沿岸に《雲揚》号を停めておいて、艦砲をやたらしきりに撃ち、ヨンジョンジン砲台を完全に破壊した次に、平和的住民達しか残らない島に侵入した。
日本侵略者達は、男女老少を選ばず、尽く虐殺し、人民達の財産をしきりに略奪したし、ヨンジョンジンを灰の山とした。
世上に広められ、知られた、侵略船《雲揚》号事件の真相は、即ちこうである。井上は、その後長崎に帰り、朝鮮のカンファド砲台から、どんな理由もなく、《朝鮮側が》急に先に発砲した為に、仕方なく応戦したと出まかせを言った。そして、自分達が朝鮮砲台に接近し挑発行為を強行した事実と、数多い無垢の住民達を殺害した犯罪に対しては、一言も言及しなかった。それは、彼等の悪辣強盗的罪行を隠そうとする陰険な目的からだった。しかし、日本軍国主義者達は、《雲揚》号事件の犯罪的真相を、断じて隠す事は出来ない。
《雲揚》号事件は、日本軍国主義者達の破廉恥な朝鮮侵略策動だった。この時から、日本軍国主義の朝鮮侵略策動は、武力による強盗的方法で強行され始まった。日本軍国主義者達は《雲揚》号事件後、既に立てられた侵略計画によって、朝鮮封建政府に隷属的な不平等条約を強圧締結するのに熱中した。
日本《天皇》は、総理大臣格である太政大臣以下、参議級以上の軍国主義の頭目達を集めておいて、所謂(いわゆる)《御前会議》を開いた。ここで彼は、まず倭館に巣を構えている《居留民》を《保護》すると言う口実の下に、朝鮮に軍艦を派遣する事と、《雲揚》号に砲撃を加えた責任を《追及》する為の《全権代表》を朝鮮に派遣し、不平等条約であって隷属的な条約を、強圧締結することを命令した。
《天皇》の命令により、日本軍国主義者達はプサン(釜山)に軍艦を侵入させ、各種軍事的挑発で情勢をより一層緊張させる一方、不平等条約締結に対する自分達の強盗的要求が実現しない場合、朝鮮に対し戦争を挑発することを計画し、その準備まで急がせた。
日本反動政府の参議、木戸孝允が《私は、最初に平和的方法で日本の利益を拡げて行くことを考えたが、今日、政府では、戦争することを決定した。》と白状した様に、当時日本軍国主義者達は我が国を隷属させる為に、侵略戦争を挑発する心つもりだった。
彼等は、所謂《朝鮮戦闘司令官》を任命し、朝鮮侵略遠征軍の編成を急がせながら、媒介部隊に下りた軍事行動命令まで作成しておいた。
陸軍大臣、山縣(有朋)は、直接広島と熊本鎮台にある侵略軍を、下関に集結させて置き、出動準備を備える事となった。
日本反動政府は、暴悪で破廉恥で在る事で有名な黒田(清隆)を、《全権大使》とし、奸功な(悪賢い)井上(良馨)を《全権副使》にそれぞれ任命し、彼らに《親善》と《共助》の看板の下、隷属的な不平等条約を強圧締結する内容と、それらを実現する為の手法まで明らかにした《雲揚》号を与え、朝鮮に送る事とした。
黒田は1875年12月19日(西暦1876年1月15日)7隻の軍艦に800名の侵略軍を乗せ、プサンに忍び込んだ。この時から朝鮮代表と公式談判を始める時まで、黒田は、侵略艦隊を率いて、我が国の南海と西海岸一帯を好き勝手に走り回りながら、武力示威で恐怖の雰囲気を造り上げ、沿海に対する非法的な測量を強行した。
談判は初めから、黒田の横暴無道な行動によって、極めて緊張した雰囲気の中で進行された。黒田は、主人から受けた侵略的な《訓令》の内容を、更に強盗的に整えた隷属的《条約》草案を取り出して、朝鮮代表に無条件に受け取る事を強要した。
朝鮮代表シンホンは、日本侵略者達が取り出した《条約》草案の不当性を道理整然と明らかにしながら、談判で主導権を失わない為に《禁則六カ条》を出した。
日本侵略者達は、朝鮮側で提議した《禁則六か条》は、単に口頭合意だけとし、基本《条約》の締結原文では明かにしないと言う、悪巧みの手法で、それを完全に否定し、彼等の侵略的要求を引き続き固執したうえ、遂に、1876年2月3日(西暦2月27日)、12か条で為った《朝日修好条規》(所謂、江華島条約)と言う不平等条約を強圧締結した。
<カンファド(江華島)条約>は、わが民族の自主権と利益を、全面的に侵害した隷属的な不法条約だった。日本侵略者達は、非法的な《江華島条約》で、治外法権を規定する事で李朝封建国家の主権行使を制限し、我が国で、彼らが朝鮮の法に捉われる事無く、自分の思うまま、侵略と略奪、そしてあらゆる蛮行を極める事が出来る法的担保を固めておいた。
この《条約》は、我が国の沿海に対する日本軍国主義者達の測量、また地図作成の自由を保障することに対する条項を規定する事で、日本軍国主義の政治経済的浸透だけでなく、軍事的侵略の道を開けた。
《江華島条約》は、日本軍国主義者達が強盗的武力を動員し、脅威と恐喝、懐柔と籠絡の方式で、強圧締結した徹頭徹尾侵略的な不平等条約だった。
その時から多い歳月が流れ、時代が変わったが、日本軍国主義者達の朝鮮支配の野望は、昔も今も、少しも変わらなかった。今日、日本軍国主義者達は、我が国を、また再び、侵略し植民地化しようと気が狂ったように暴れ周っている。彼等は、再侵略の刃を鋭く磨き、虎視眈々と機会だけ狙っている。しかし日本反動たちは、誤算している。
今日の朝鮮は、昨日の朝鮮では無い。わが人民は、日本軍国主義者達が必死で飛び掛ったら、先軍で智慧を固めた戦争抑制力を総動員し、千百倍の報復打撃を加えるだろう。日本軍国主義者達は、軽挙盲動をしてはならない。
(訳 柴野貞夫 2009年7月5日)
<参考サイト>
☆ 歴史を学ぶ視点について (日本の朝鮮植民地支配の原点ー江華事件)
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