(韓国・週刊誌ハンギョレ21 2009年10月09日付)http://h21.hani.co.kr/arti/special/special_general/25854.html
〔企画連載―帰ってきた山、南山〕
日本帝国主義の統治タウンとなる
パク・ハンヨン 民族問題研究所 研究室長
日帝時代の南山@
統監府・憲兵隊司令部等弾圧機構と,朝鮮神宮・神社の入居した、植民支配の象徴として様変わり
朝鮮500年の都邑(首都)・漢陽の南側、守護山であるナムサン(南山)が、倭色(日本色)に汚染され始めたのは、1880年代中半からだ。壬午(イムオ)軍乱(1882)と甲申(カプシン)政変(1884)で、政局が揺動した後1885年、今のイェジャンドン(藝場洞)一帯に日本人居留地が形成された。もともと、南山・チュジャドン(鑄字洞)のはずれにあった、平らな広い芝生は、営門の兵卒などが技芸を磨いた場所だった。端午節になると青少年の集団が、(朝鮮)相撲を競った場所だ。だから、イェジャン(藝場)だった。
イムジン(壬辰)倭乱の時、軍隊が居座った場所、(日帝時代に)再び求めた日本
しかし、イムジン倭乱の中で日本軍部隊が、今、朝鮮ホテルの場所であるナムピョルクン(南別宮)に支援部を準備し、イェジャンドン(藝場洞)に日本軍1500余名が陣を張って倭城(日本軍の城)を築き、1年間ここに駐屯した。このため、住民達はここをウェジャント(倭将場)(日本の将軍の場)と呼んだ。
そこから、300年が過ぎた後、帝国主義侵略者として入ってきた日本人達は、豊臣秀吉を征韓論の先駆者として讃え、この場所を自分達の聖域の様に思い、自分達の好みに合わして南山の改造を始めた。何よりも自分達の神を祭りたかった。
1892年、(高宗29年)、日本居留民達は南山北側の山麓に、太陽の神、日本天皇家の始祖神である<天照大神>を祭る神宮を建てることを計画した。
まず、1897年3月17日、日本の工事は朝鮮政府と交渉し、公園を建てると言う名目でイェジャンドン(藝場洞)一帯の3000余坪を、永久賃借した。その年7月、これを‘ウェソンデ(倭城台)公園’と命名し、道路を作り、櫻をなんと600株も植えた。ここに根付いた櫻のように、自分達もこの土地に代々根付く心算だった。翌年、日本居留民は、本土の伊勢神宮に人を送り、神宮社庁から、いわゆる「神体」を一部、奉って帰ってきた。結局、1898年、その場所に南山大神宮が立ち上がった。漢陽の守護山が、日帝侵略の橋頭保に転落する瞬間だった。
後日、朝鮮神宮が作られるや、南山大神宮は1923年、名前をキョンソンシンサ(京城神社)に代わった。京城神社は改築発議があり、10余万ウオンの基金で新しく建て、1929年9月25日、遷座式を持った。日本天皇家の始祖神である天照大身神と、国土経営始祖である国津神、朝鮮国魂神だと言った大巳貴神、そして少彦名神など、四つの神体を集め、朝鮮を永遠に自分の土地として守ってくれる事を、日本の鬼神らに祈った。
(ソウルの)南地域の50の洞の中で、30の洞が日本人の村に
神宮と神社の建立(こんりゅう)は、日本帝国主義の朝鮮侵略と噛み合って進行された。藝場地区とその周辺一帯の各種侵略機構が、場所を取った。日帝の韓半島侵略の総本部である、日本公使館と朝鮮統監部が、藝場洞に場所を変えた。
初め、日本公使館は、1880年西大門の外の天淵亭の横、即ち今の赤十字病院の場所にあった清水館を使用した。1882年イムオ(壬午)軍乱当時、日本の花房義質公使は、日本に逃亡して清水館は燃えてしまった。同じ年8月、兵士を連れて再び現れた花房公使は、城の中に入っていって、南山の下の禁衛大将(宮殿護衛の大将)・イ・ジョンスン(李鍾承)の家を公使館にした。そして、付近の数十戸の民間と掌樂院(朝鮮時代、宮中で演奏する音楽と舞踏に関した事を担当した官庁―訳注)の建物を徴発し兵士らの宿所に使用した。その後日本公使館は、新たに校洞のパク・ヨンヒョ(朴泳孝―1861〜1939、李朝末期の‘開化派’政治家―訳注)の家をへて、南山の麓にあったノクチョンジョン(鹿川亭)の場所に行った。
1905年、日本は、所謂ウルサ(乙巳―おつし)条約を強制締結したあと、藝場洞に統監部庁舎を設置した。初代統監は、伊藤博文だった。日本公使館があったノクチョンジョン(鹿川亭)は、統監官邸に代わった。本来、ここは‘青鶴洞’と呼ばれた。生き生きとした鶴と一緒に神仙が生きる処ではなかったか。‘梅妻鶴子(メチョハクジャ)‘(梅花の中に鶴の子と言う意味で、俗世を離れ悠々自適する生活を示す言葉―訳者注)と言って、梅花を妻とし鶴を子供として生きる、欲心無く、清らかな場所、燕山・中宗時代の、学者であると同時に政治人として節義が高く、詩文が滔々としていた青学徒であるイ・ヘン(李?)の家の敷地が有った所ではなかったか。
この場所を中心に、日本公使館と総督官邸が場所を取り、境内に日本軍事司令部(韓国駐在軍司令部)が入り込んだ。この為、青鶴洞は、当時司令官であると同時に、後日第2代朝鮮総督となる長谷川好道(はせがわよしみち)大将の名前を取って、‘好道園’(ホドゥウォン)と呼んだ。プラザホテルの横、ソゴンドン(小公洞)は、後日、チャンコクチョンジョン(長谷川町)へ、創地改名になったので、これも侵略者の名前を取ったものだった。1930年代、キム・クァンギュン(金光均−1914〜1993)の詩‘チャンコクチョンジョンに降った雪’に出る、そのチャンコクチョンジョンだ。
ウルサ(乙巳)条約以後、藝場の地の統監部庁舎を始めとして、今の第一銀行支店の場所に京城理事庁(日本公使館が代わったもの)が入り込み、今の外換銀行本店の場所にあったチャンアクウォン(掌樂院―訳注、上に解説)を取り壊し、東洋拓殖会社(訳注―1908年、日本帝国主義政府が朝鮮の農地集約を始めとする、植民地経営のために設立した国策会社である。朝鮮農民の土地を「買収」、朝鮮最大の地主として、朝鮮人農民を小作人や棄民に追いやり、米や金融を始め、朝鮮収奪の中心母体となった。)が、入り込んだ。昔、首都防衛司令部の場所であると同時に、現在、南山里の‘韓屋(かんおく)村’が建っている所に、(日本軍)憲兵隊司令部を設置した。1910年代、日帝のいわゆる武断統治(武力と威嚇の統治)の下、何よりも、ぞっとするほど恐ろしい弾圧機構が憲兵隊だった。彼等は、警察の役割を兼ねて朝鮮人を取り締まっただけではなく、3・1運動弾圧の最先鋒にたった。‘軍人のために憲兵がある’と言った時代の憲兵司令部前は、朝鮮人は敢えて通り過ぎることも難しかった。周辺一帯は、南山里に生きる人の代わりに、日本人達が本格的に場所を取った。亡国前韓末の志ある在野の士人、ファンヒョン(黄?)は、<メッチョンヤロク(梅泉野録)>に次のように記録した。
“倭国の使臣、宮本守一がノクチョンジョン(鹿川町)に入った。彼の東屋が南山のチュドン(注洞)のてっぺんにあるが、松が生い茂り泉と石が奥深かった。ノクチョンジョン(鹿川亭)は、かって、ハンファク(韓確)の別荘であったが、近来に入っては、前判書・キムサンヨン(金尚鉉)が住んでいた。宮本が挙句の果てに、この東屋を奪い日本公使館とした後で、日本人達は、少しずつチュドン(注洞)・ナドン(羅洞)ホウィドン・ナムサンドン(南山洞)・ナンドン(蘭洞)・チャンフンバン(長興坊)・と、南側ではチョンヒョン(鐘?)・チョドン(苧洞)を横切るジン峠一帯を占拠し、南村50の洞の中で、30の洞が、一面日本人の村となった。”
1906年に設置した京城理事庁は、イエジャンドン(藝場洞)周辺を京城公園とし、南山植物園の場所から南大門に至るフェイヒョンドン(会賢洞)一帯に30万坪を「永久貸与」の形式で「無償賃貸」し、1908年、漢陽公園に定め1910年5月29日開園した。退位した高宗は勅使を送り、祝賀した。見かけよく‘韓日共同公園’と言う名前で呼んだ。
日帝は、1916年から、東側の奨忠壇、南側の城郭の外、漢陽公園、倭城大公園などを大森林公園としてベルトラインを作り、その中に日本統治の象徴であり精神的求心である朝鮮神宮を押し立てようとした。1918年朝鮮神宮を、現在の南山植物園一帯に建立しようとして工事を始めると同時に、漢陽公園は閉鎖された。南山山城帯を、無知で暴悪に削り取ってしまったのもこの時だった。1925年、朝鮮神宮が完成されると同時に南山頂上にあったクッサタン(国祀堂・ソウルタワー周りの城壁内)は、仁王山の東側に。国祀堂は、太祖が漢陽に都を移すとともに、白岳をチングックペク(鎮国伯)とし、南山をモクミョクデワン(木覓大王)として、南山にモクミョクシンサ(木覓神祠)を置き、春・秋に祭祀を執り行った場所だ。
朝鮮神宮を建て、‘植民統治の聖地’に化ける
384の石の階段をはじめとして、立派な参拝路がある朝鮮神宮は、朝鮮人の霊魂さえ、日本の天皇の為に捧げなければならない場所だった。1939年、日帝は神宮入り口に‘皇国臣民誓詞の塔’を建てた。‘天皇陛下’に対する忠誠の誓約が、つまり、皇国臣民の誓詞だ。植民地・ケイジョウ(京城)に住む朝鮮人と学生達は、主要行事があれば、ここに義務的に動員され、‘皇国臣民誓詞塔’で皇国臣民誓詞を暗礁しなければならなかったし、神宮に義務的に参拝しなければ為らなかった。
学徒兵・徴兵・の徴用で、日帝に引張って行かれる朝鮮人達も、ここに来て参拝を強要され連れて行かれた。南山で、最も朝鮮人の恨みが深く立ち込めた場所だ。
その他にも南山には、露・日戦争の日本の英雄として刻まれた、ノギマレスケ将軍を称讃するノギシンサ(乃木神社)などいろんな神社と、東本願寺の類(たぐい)の、日本式寺刹が至る所に場所を取っていた。
(朝鮮の)国の神も追われて行く状況に、奨忠壇だって無事なはずはなかった。1900年9月19日、イムオ(壬午)軍乱と、ウルミ(乙末)年の明成皇后の弑殺事件時、殺された官吏と軍人を祭祀した場所の奨忠壇も、1910年廃寺されて、1919年6月、奨忠壇公園が新たに造成された。続いて、憎らしくも日帝は、1932年、公園東側に伊藤博文を追慕する為に、パクムンサ(博文寺)と言う寺刹を建てて、その丘陵をチュンムサン(春畝山)と付けた。「パクムンサ」と言う名前は、伊藤の名前、イドゥン・パクムン(伊藤博文)からきたし、「チュンム(春畝)」は伊藤の「号」だ。
日帝は、1940年3月12日‘京城市街地計画公園決定告示’を通して、第1号公園から第140号公園まで告示した。南山公園は第9号公園として、35万坪の南山道路公園は第132号で、奨忠壇公園は第8号公園として指定された。
“南山に登り、ソウルを見ると胸が重苦しい・・”
しばし、日帝末期の南山を想像して見よう。南大門から、朝鮮神宮の進入路として登って行き、頂上から南山の山麓と周辺を見下ろして見よう。朝鮮神宮の前に南山公園が、その下、視界方向にトンボンウォンサ(東本願社)、その横に朝鮮総督府と総督官邸、日本軍憲兵隊、政務総監官邸、チャンチュンドン(奨忠洞)側、パクムンサ(博文寺)と奨忠壇公園、再び南に折れてハンガン(漢江)に帰ると、西氷庫側に工兵隊と騎兵隊、練兵場、ヨンサン(龍山)側へ来れば射撃場、日本軍20師団歩兵第78連隊と歩兵第79連隊、野砲兵隊が陣を敷いている。朝鮮の南山は、帝國日本の統治機構と侵略機構に囲まれて、神宮に踏み付けられている。
うず高く、目出度い事を引き入れると呼ばれた南山の、もう一つの名前である‘引慶山’が、唖然とするだけだ。
‘ハンソンパリョン(漢城八詠)’の一つである‘南山で花見する’(木覓賞花)は、何時の間にか、‘南山でサクラ見物する’事(木覓賞桜)に取り替えられた。昔から称される‘ナムサンパリョン(南山八泳)’の‘北闕<訳注、北の宮―景福宮>を横切る雲’(雲横北闕)は、何時の間にか朝鮮総督府の建物に縛られてしまい、岩の下の奥ゆかしい花(岩低幽花)は、桜の花がしきりに邪魔をしており、流れていく。
精神が清らかに育てば、誰が南山を登って楽しめようか。日本語だけ書くように強要された植民地末期、南山に登った感想をキム・ビョンロ(金炳魯―1887〜1964.民政党代表など歴任 訳注)は、当時ポソン専門学校(現高麗大―訳注)の講義室で、自国語と日本語を混ぜて次のように表現した。
“南山ニアガッテ(日本語―訳注)、じっとスワッテ(日本語)、長安(ソウルのこと訳注)を、ナガメルト(日本語)、息苦しかったね・・”南山に登って、じっと座ってソウルを見渡すとしたら、胸が息苦しかったと言うのだ。つまり、ナムサンよ、 お前は平和なのか、この言葉ではなかったのか!
(訳 柴野貞夫 2009年10月24日)
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