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(韓国・「社会主義綱領を討論しよう」編集委員会。討議資料、2009年10月)
http://programto.net/wordpress/?p=677

 

 

 

<訳者解題>

○イ・サンジン氏の論文は、韓国において、社会主義革命を志向する政治党派の一つ、「労働解放実践連帯」が主体となって進める「社会主義綱領を討論しよう編集委員会」による党派内論議の一端である。

非抑圧階級の自覚的運動の弱さと指導部の堕落が生み出したソ連の崩壊を、あたかも資本主義の勝利かのように言いふらして来た資本家階級の欺瞞は、繰り返される世界恐慌による体制危機を、働く民衆への飽くなき犠牲転嫁でしか延命出来ない現実の姿によって暴露された。

 

○「野蛮でない人間の顔をした資本主義が可能だ」とする、既存の民主労働党や進歩新党は、真の労働者党ではなく、資本主義の救済に手を貸すだけだと批判し、革命的社会主義を目指す真の労働者政党を建設しようと、暗中模索する諸党派が、共同行動、共同綱領論争を韓国全土で公開的に行っていることは、日本の革命的左翼諸党派が見習うべき姿でもある。「ルールある資本主義」を主張する某政治勢力しか、労働者大衆に認知されていない様では、日本資本主義の息の根をとめる事は出来ないであろう。

 

○「労働解放実践連帯」が、社会主義を目指すうえで、ロシア革命の歴史と、ソ連社会の階級的性格を正しく分析する事は、避けられないことである。スターリン官僚による「堕落した労働者国家」としてのソ連の歴史を分析することは、今日の社会主義革命の展望を見通すことでもあるからだ。しかし、この論文は、ロシア革命が労働者階級の勝利であることへの理解は別として、ソ連社会が何ゆえスターリン官僚によって歪められたのか、「進歩性と反動性」と言う2面性が生まれた、ソ連社会の歴史的階級的分析なしに、二つの切り離された「性格分析」が「人間の性格分析」の次元でおこなわれている。

 

○トロツキーのソ連社会の階級的分析としての国家論は、孤立した労働者国家が帝国主義の圧力の中でスターリン官僚によって変質されていく過程が、直面する世界の情勢の中で位置図付けられたものだ。(日本語版では、現代思潮社・トロツキー全集9巻<ソビエト国家論>参)、

トロツキーの「フィンランド侵攻」や「ポーランド分割占領」と「独ソ不可侵条約」と言う当時のソ連国家の政策への批判的容認が「誤謬であり」、ソ連国家に必要なのは「社会革命」でなく、「政治革命」であるとするトロツキーの考えの延長線から出てきたものだと言う筆者の結論は、ソ連社会の「進歩性」から「ソ連擁護」を主張した前半の記述を否定するものだ。ソ連社会の「社会革命」を主張することは、ロシア革命から生まれたソ連社会を、資本主義社会と同一視する事と同じである。産湯とともに赤子を捨ててはならない。

 

○イ。サンジン氏は、ロシア革命とトロツキーの諸文献にあまねく目を通しているのであろうか。とまれ、発展途上の韓国社会主義者の意見と論争は、生き生きと躍動感があって、ロシア革命時期のソヴィエトに於ける、或いはボルシェヴィキ内部に於ける論争を髣髴とさせて愉快である。

 

○今日の、韓国に於ける主たる、革命的左翼を紹介する

 

●社会主義労働者政党建設準備会(社労準)=前「労働者の力」

   公式サイトhttp://spt.jinbo.net/

 

 

●社会主義労働者連合

   公式サイトhttp://swl.jinbo.net/home2.html

 

●労働者解放実践連帯
公式サイトhttp://www.hbyd.org/site2/index.php

   

「社会主義綱領を討論しよう」編集部

http://programto.net/wordpress/?p=677

 

   「解放」(機関紙) http://hb.jinbo.net/home.php

 

●(仮)労働解放のための全北会 http://go.jinbo.net/commune/index.php?board=ndhbjb

     

 

  [ image ]

△写真 左・トロツキー、中・レーニン 右・ジノヴィエフ

(出処 トロツキーライブラリー)

 

 

 

 

ソ連社会の進歩性と反動性

 

 

イ・サンジン(労働解放実践連帯<準>会員)

 

 

Ⅰ ソ連社会の、資本主義社会と比較した進歩性、社会主義の基準から見た反動性(労働者国家の変質課程)の解明は、社会主義者の実践方向の違いを、決定的にする。

 

 

 

“仮称・韓国社会主義労働者党綱領草案”(以下“綱領草案”)は、‘1920年代以後のソ連社会’を、社会主義でも資本主義でもない‘(労働者国家)官僚が支配する共同生産体制’として規定している。この様な規定は、まず初めに、ソ連社会を社会主義だと見なさない為に、ソ連社会には、如何なる進歩性もない社会なのかと言う疑問を提起したりする。

 

これは、綱領草案が、現実の社会主義が失敗した核心原因を分析して、ここから教訓を引き出す為に、主にソ連社会の変質課程と歴史的評価を、綱領草案と解説を通して強調している為だ。しかしこれが必ず、ソ連社会は、われわれが肯定的に発展させなければならない進歩的要素が全く無かったと言う事を意味しない。

 

実際、ソ連社会の現実も、そうではなかった。社会主義革命の観点で眺める時、反動的な性格があった反面、資本主義の社会と比較して進歩的側面が明らかに存在した。

 

ソ連社会の進歩性と反動性は、実際、歴史で大変深刻な論争の材料(種)の中の一つだった。それだけでなく、社会主義者達の間に、決定的な実践方向の差異をもたらしてくれる内容でもある。容易に話そうとすれば、ソ連社会が反動的な社会、資本主義と別段変わる所がない社会として規定した社会主義者たちの場合、ソ連社会を防御するどんな理由も探す事が出来ないし、第3者の位置に立つ機会主義的な態度を取った。

 

反対に、ソ連社会に進歩的な側面が存在すると判断した社会主義者達の場合は、ソ連を防御しようと言う立場を取った。さらに進んで、ソ連社会の反動性を認識できないで、進歩性だけを強調した場合は、ソ連に対する防御を越え、ソ連社会の反動的な側面までも容認する態度をとる事もした。第2次世界大戦の時期のソ連に対し、どんな態度を取るのか?韓国戦争(朝鮮戦争)、ベトナム戦争に、どんな態度をとるのか?等の問題に対し、社会主義者達の立場が、分かれた核心的理由が、即ちこんな認識の違いに起因したのだ。

 

この文章では、はじめに、ソ連社会が持った進歩性と反動性を具体的に探って見ようとする。ソ連社会が持った進歩性は、当然、当時資本主義社会と比べた進歩的な側面であって、反動性は、社会主義の基準で見た反動性となるのだ。次に、実際現実に、ソ連社会の進歩性と反動性を具体的且つ歴史的に見る事が出来ないで、実践的な誤謬を含んだ事例などを検討するものである。

 

この文章は、論議を集中するために、ソ連社会に局限して扱う事とする。北韓、中国、キューバ、ベネズエラなどの社会に対する具体的な判断は取り扱わないのだ。ただ、ソ連社会の進歩性と反動性を具体的に把握する事と同じ方法で、他の社会に対しても評価すれば、明確で実践的な立場を打ち立てる事が出来るのだと言う点だけ、付け加えよう。

 

 

Ⅱ 資本主義社会と比較した、ソ連社会の進歩性

 

 

1917年、ロシア10月社会主義革命は、全世界の人類に、資本主義の矛盾から抜け出す事が出来る対案を、現実に立証して見せた。今まさに、歴史の流れが、資本主義時代から社会主義時代に移行していることを見せてくれる、初めての事例となった。それだけでなく、過剰生産と利潤率の下落によって、恐慌と帝国主義戦争、そして窮乏した民衆の命、一言でいって、野蛮の世の中を脱出する事が出来る方法を、10月社会主義革命は見せてくれた。

 

10月社会主義革命は、生産手段の私的所有の廃止を通して、資本主義以上の生産力の発展の可能性を見せてくれたし、周期的に反復される資本主義の恐慌をこれ以上経験しなかった。帝国主義戦争に反対し、植民地民族解放闘争を支援しながら、帝国主義諸国家との確然たる立場の違いを見せた。それだけでなく、第2次世界大戦でファシズムを撃退するのに大きな役割を果たすことで、人類社会が野蛮へ後退する事を食い止めるのに貢献した。民衆たちの命に在っても、失業問題の解決、無償教育と無償医療、女性の社会的参加の拡大等を通して、革命以前のロシア社会、帝国主義国家と、質的に違いをあらわにした。

 

ソ連社会のこの様な進歩的側面は、帝国主義諸国家をして警戒するようにしたし、労働者を包摂して、体制競争の為に帝国主義の国家でさえ、ソ連社会が実施している進歩的措置を一部分取らざるを得なくした。

修正資本主義とか、‘緩和された’資本主義は、この様に登場する事となったのだ。それだけではなく、この様なソ連社会の進歩性は、民族解放闘争に立ち上がった民族たちに多くの影響を与えたので、反帝反封建の課題が大部分あった多くの被抑圧民族国家らは、ソ連社会を肯定的な社会形態として思うようにした。

 

米軍政が1946年7月、ソウル地域の1万余名に実施した‘どんな政府形態を望むか?’に対する世論調査の結果、77%の人々が共産主義を圧倒的に支持したと言う事実も、一つの例となるのだ。

 

例え、ソ連社会の進歩的側面が時期を経て、後退したり、変質される事もしたが、資本主義とは本質的に異なる試みだったと言う点で、歴史的に大きな意味があったのだ。

 

 

(1)   生産手段の私的所有の廃止、生産の増大

 

 

1918年1月23日開催された、第3次全ロシア・ソヴィエト大会は、‘労働被搾取人民の権利宣言’を採択した。この内容は、10月社会主義革命の目的と内容を盛っているものとして、以後、‘ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国’憲法に、そのまま収録された。権利宣言と言う名前で採択されたこの文書の2章は、土地また国家の重要資源の私的所有の廃止、生産手段また運送手段の私的所有の廃止、銀行の私的所有廃止を明らかにしている。生産手段の私的所有は、人間による人間の搾取を保障している資本主義社会の核心運営原理だ。生産手段の私的所有は、労働者を労働から疎外させ、労働者から剰余価値を搾取する根源だ。この様な点で、生産手段の私的所有を撤廃したソ連社会は、その体制として資本主義より進歩的な側面が存在するのだ。

この様な私的所有の廃止は、計画の結合で度はずれた生産力の発展を可能にする事とした。

ソ連は、1917年の社会主義革命が起きる以前まで、後進農業国家だった。しかし革命以後、工業化が本格化されながら、ソ連は急速な経済成長を遂げる事となる。

 

 

「資本主義世界の、ほとんどあらゆる所に現れている沈滞と衰退の

 

姿とは正反対に、ソ連の工業は大胆な規模で発展している。次に提示

 

する例示的指標は、これに対する反駁する事が出来ない明白な証拠だ。

 

現在、ドイツの工業生産量は、熱病にかかった様に急激に進行された

 

戦争準備のために、1927年の水準に下落している。英国は保護貿易に

 

すがり付いているおかげで、過去6年間に、たかだか3%乃至4%程度、

 

生産力を伸ばしただけだ。米国の工業生産量も、約25%程度下落し、

 

フランスの場合は30%以上低下した。資本主義諸国家の中、最も高い

 

生産量増加を記録した国は日本で、現在、気が狂ったように戦争準備

 

をしながら、隣の諸国を略奪している。この国の生産量は、ほとんど

 

40%も増加した! しかし、この例外的な指数さえもソ連の劇的な工

 

業成長に比べたら貧弱に見える。この国の生産量は、同じ期間に3・5

 

倍、即ち250%も増加した。重工業は、1925年から1935年まで、10

 

倍以上増加した。第一次経済開発5ヵ年計画の第一年度(1928~1929)

 

に、資本投資量は54億ルーブルに達し、1936年には320億ルーブル

 

になると予定されている。」(レオン・トロツキー[裏切られた革命] 1936年)    

 

<訳者注→日本語訳では・山西英一訳、L・トロツキー著「裏切られた革命」・論争社・1962年版、14頁~15頁・参。その他、現代思潮社版・トロツキー全集に収録>

 

 

この様なソ連の経済的成功に対し、資本主義世界は慌てふためいた。当時、資本主義社会は、1929年の大恐慌の泥沼から抜け出せない状況だったし、社会主義体制が、人間の頭の中だけ存在するものではなく、現実となることが出来ると言う証拠が、実験的にでも準備することが出来た為だ。ソ連の急速な発展を、“農民に対する極度の搾取”の為だとしながら、資本家たちはその意味を、評価切り下げようとしたが、当時、中国、日本、インドが、日常的に農民を無慈悲に搾取するのに、ソ連の工業発展の足元にも及ばない状況に比較して見る時、それ自体が理由となり得なかった。

 

ソ連社会の生産性が、資本主義社会と比較して急速に増大した根本的理由は、他でもなく、生産手段の私的所有が廃止され、全体的な計画経済の実現が可能となった為だった。

 

無論、1960年代に入るとともに、ソ連社会は生産力の拡大は停滞に入るので、1970年代以後になると、むしろ資本主義社会よりも生産力の発展が遅くなる。こんな理由で、資本家達だけではなく一部社会主義者達も、ソ連社会に市場経済が投入されなかった為に、こんな現状が発生するのだと主張する事もした。

 

しかし、こんな現状は、生産手段の私的所有の撤廃が生産力発展に(とって)障害物になったりとか、市場が投入されないからではない。

これは、生産手段の国有化に相応しい労働者民主主義の失敗、民主的計画でない官僚の指示による計画、帝国主義勢力との無妄な軍備競争等の要因によるものだと見なさなければならない。

 

 

(2)   民族解放闘争の支援、ナチズムの撃退

 

 

1917年のロシア社会主義革命が、第一次世界大戦に及ぼした影響は、極めて大きいものだった。

1917年の革命以後、ロシア・ソビエト政権は、‘平和に関する布告’を発表し、民族国家の領土を強奪したり、併合する事に反対し、賠償の責任を隠さず、即時平和を要求した。更に、‘ロシア諸民族の自決に対する権利’を発表し民族自決権を擁護した。これは、帝国主義諸国家の植民地拡張戦争の本質を暴露し、帝国主義諸国家が、民族自決権を仕方なく宣言するようにした。

10月社会主義革命と民族自決権擁護は、韓国の3・1運動(1919)、中国の5・4運動(1919)、インドのサティハクラハ運動(1919)など、大規模民族運動の展開と、被抑圧諸民族の覚醒を呼び起こした。

 

のみならず、ソ連は、植民地諸国の民族解放運動に実質的な支援をして行った。

1920年、コミンテルン第2次大会で採択された‘民族、植民地問題に関するテーゼ’は、ソ連社会が主張した民族解放運動に対する支持の立場を全世界的に拡張させた。これは、帝国主義諸国に対抗した民族解放運動に全世界の社会主義者達の積極的な共同参加を訴えた。民族解放運動と社会主義革命が結合されなければならない事を強調した。

1937年、中日戦争の始まりに発生した、中国の抗日民族解放運動に対する支援、日帝の侵略戦争で立ち上がった、アジアの民族解放運動も支援した。のみならず、インド、エジプト、モロッコ、などで起きた民族解放闘争も支援したので、西欧の資本主義国家はこれに反対した。

 

ファシズムに対決したソ連の役割もまた、無視出来ないものだった。特に、ソ連は、ドイツを主軸にしてイタリア、日本などのファシズムに対決した闘争で、決定的な役割をした。第2次世界大戦が起きた直前のソ連は、ドイツと不可侵条約を結ぶなどファシズムを食い止める闘争より、ソ連社会を守る事に主要な関心を見せたが、結局、社会主義を倒す為のファシズムの攻撃が始まるや、ファシズムとの闘争を全面的に繰り広げる事となった。ファシズムの終末を惹起したドイツの敗亡は、他でもなく、ドイツのソ連侵攻の敗北に起因したし、この戦争でソ連は、第2次世界大戦全体の70%以上の人命被害を見た。米国、英国、フランスなど帝国主義諸国のノルマンディ上陸作戦が、第2次世界大戦の決定的な分水嶺となりファシズムドイツを退けたと言うより、ソ連がドイツ侵攻を退けた事が一層決定的なものだった。

 

 

(3)   社会福祉の拡大

 

 

1917年の10月社会主義革命は、ソ連民衆達の人生を根本的に置き換えた。 教育の底辺が拡大されて、1927年、790万名と言う学生数が1933年には、970万名に増えた。無論、教育は無償で成り立っていたし、これを通して文盲率が急激に下がった。女性も男性と平等な教育を受ける事が出来たし、雇用での平等も法的に保障された。

現実的に、この様な措置などが全的に成功的だったと見る事は難しいが、女性の社会的地位が他の諸国と比べて高かったと言う事実自体は、肯定的な要素としてみる事が出来るのだ。さらに、医療は国家で運営する国営医療体制だった。予防医学の発達、広範囲な免疫プログラムの実施で、疾病に対する不安が全般的に減少したし、これは民衆の寿命を向上させた。

 

無償教育と無償医療、女性の社会的地位向上は、限界にも拘らずそれ自体で全世界に民衆の人生に対する新しい基準を提示したものとしてみる事が出来る。西欧ヨーロッパなど資本主義国家に、この様な社会福祉体制を部分的に実施しているのは、ソ連社会の影響から由来する点を否定する事は難しいと言える。

 

 

 

ソ連社会の反動的側面

 

 

10月社会主義革命直後、ソ連社会の状況は極めて劣悪だった。戦争による被害は言うまでもなく、これによって甚だしく減少した労働者達は、ソ連の発展に支障をもたらした。こんな危機状況は、党と国家にも、そのまま影響を与えた。ネップ(NEP-新経済政策)を実施しなければ駄目な程度に、ソ連社会は虚弱だった。

こんな状況で、共産党の代理主義的実践は強化されたし、党は分裂を避けなければならないと言う名分で、党内分派形成権を一時的に停止させた。共産党が唯一の合法政党である状況で、党内民主主義の重要性は、尚一層高めなければならなかった事にも(かかわらず)、ソ連社会は、この深刻性を認識する事が出来なかった。結局はスターリンの登場を通して、党内民主主義が完全に抹殺されたし、党内競争者達は粛清された。

危機状況で、‘臨時的’に取られた処置が、ソ連社会を支配する(恒常的)措置に変質された。

 

スターリンを始めとする官僚たちの利害が貫徹される過程で党は独裁化されたし、労働者達の権利は解体されて行った。

 

国際関係にあっても、労働者国際主義の原則から外れた一国社会主義論を貫徹させたスターリンと官僚たちは、ソ連の防衛を名分に、第3インターナショナル(コミンテルン)をソ連外交の下部機関転落させ、異なる民族諸国家を官僚集団の利害によって統制し抑圧した。

社会全般的にも、こんな官僚支配と抑圧が貫徹され、各種抑圧機構などが強化されながら、ソ連社会には反動的な文化が新たに場所を取ることとなった。

 

ソ連社会の反動的側面を、三つの側面から探って見る様にする

 

 

(1)   労働者民主主義の消滅

 

 

労働者民主主義は、社会主義社会の核心である。

 

 

しかし、1920年代後半以後、ソ連社会でそれさえも形式的に維持された労働者民主主義は、ほとんど消滅することとなる。

労働者たちの場合、ソ連社会の主人でなく、官僚支配の道具に転落する事となる。工場の経営に対する権利を持っていた労働組合は、次第に党と専門官僚によって権限を剥奪されたし、1934年以後からは、団体協約と言うものが、これ以上締結されなかった。

 

ソ連社会の官僚は、ソ連社会が社会主義の社会である為に、これ以上団体協議が必要でないと、その理由を挙げるが、労働者達は、官僚の抑圧から自身を保護する事が出来る手段を、基本的に奪われる事となった。これによって、労働者たちは、官僚たちの収奪、強制労働、生活必需品の不足などから、自分達を保護する手段を失い、個別化された。

労働者階級の前衛と言うソ連共産党もまた、一人が中心の党として変質された。代議員大会、中央委員会の比重は極度に縮小されたし、スターリンが掌握していた書記局への権限集中が成し遂げられた。党の構成、また労働者達の比重が縮小され、専門官僚達の進出の比率が高くなった。革命直後である1917年10月、人民委員会の構成員15人の中で、ただ一人だけがスターリンの大粛清のあと、生き残ったと言う事実は、党が民主的に運営されないでいる事を赤裸々に見せてくれる代表的な事例だ。

 

パリコミューンの後、社会主義社会の基本運営原理として地位を獲得し、(同様にソビエト政権でも実施された)召還権、常備軍の廃止、労働者の平均賃金の適用など、選出職の公職に対する牽制装置などは、大部分廃棄された。召還権は公式的に廃止されたし、常備軍は復活し、将校たちがますます多くの特権を享受し始めたし、官僚と労働者の賃金格差は益々大きくなった。

チェーカー、ゲーペーウー(GPU/国家政治保安部)、オーゲーペー(OGPU/連邦国家政治保安部)、エンカベーテー(NKVD/内務人民委員会)、KGB など、労働者に対する監視機構が強化されたし、農民たちに対しても、収奪は継続された。

 

 

(2)   一国社会主義論の勝利と労働者国際主義の歪曲、民族国家に対する抑圧

 

 

スターリンは、マルクスーレーニン主義の原則だった労働者国際主義

の伝統と断絶し、一国社会主義論を主張しながら労働者国際主義を歪

曲する事となる。

 

 

 

“一国社会主義論は、資本主義の不均等発展で、社会主義革命が、一

 

つの国、或いは幾つかの国で先に発生しこれが拡散して行く事が出来

 

るとし、一国で革命が一時的に勝利する事は出来るが、一国単位での

 

革命が完全な勝利を収める事は出来ないと言う明白な事実を否定した。

 

一国社会主義論は不可避に、ソ連一国での社会主義建設と‘社会主義

 

祖国’の防衛を、国際的連帯に優先することとし、ここに国際的連帯

 

を従属させた。その結果、一国社会主義論は、資本主義世界体制との

 

闘争は、世界的次元の革命が勝利すればこそ、窮極的に勝利する事が

 

できると言う展望から離脱し、国際的連帯を歪曲し、無望な先進帝国

 

主義国との国家的競争に埋没される事となる。これがソ連で、無理な

 

速度の蓄積と、暴力と血まみれの強制集団化が強行され、世界革命の

 

為に建設された組織、第3インターナショナルが、ソ連外交の下部機

 

関に転落した根本理由だ。”

 

((仮称) 韓国社会主義労働者党綱領草案/内)


 

第2次世界大戦当時のフィンランド侵攻、1968年チェコ侵攻、1979年のアフガニスタン侵攻等は、スターリンの一国社会主義論登場以後の、労働者国際主義を、代表的に歪曲した諸事例だ。第2次世界大戦当時、独ソ不可侵条約とこれを基に侵攻された東部ポーランド占領、引き続いたフィンランド侵攻は、ファシズムに対決すると言う名分の下で、ソ連の生存だけを講じる観点で実施された。

 

 

(3)   文化的反動性

 

 

社会の全般的な抑圧は、活気に満ちて生動感が溢れなければならない社会主義社会を硬直させたし、ソ連社会の全般で新しい社会主義的人間像を作り出す事にも失敗した。

 

選出された公職に対する召還権は、無力化された。選出された公職の賃金は、労働者の平均賃金を越えない様にする制度も無力化された。官僚など特権化された階層と労働者の賃金格差は、益々大きくなった。成果給制度が拡大されながら、労働者たちは互いに無望な競争に駆り立てられたし、極端な生産性向上の運動に動員された。

生産に対する労働者の統制も、官僚集団に移ってしまった。軍隊では、将校階級が再び復元したし、階級章の着用、特権が認定され始めた。

自由な討論より、指示と服従が重視されたし、監視機構の強化で労働者達の間の信頼も崩壊した。

 

 

「学生たちの学校、また社会生活は、形式と偽善で溢れている。死ぬ

 

ほど退屈な集会、避けることが出来ない名誉会長さまの訓話、敬愛す

 

る指導者たちを讃えるスローガンの斉唱、大人たちとそっくり同じよ

 

うに、胸中とまるで異なる発言を濫発する、予め作られた声高の討論

 

会などを、児童達は耐えねばならない。

 

極少数の純粋な児童たちは、厳しく治められる。秘密警察は、いわゆ

 

る“社会主義の学校”に手先達を送り込み、学びの場に背信と密告の

 

反吐が出る腐敗相を投入している。当局が強要する楽観主義にも拘ら

 

ず、学校生活はやたら押さえ付ける抑圧、虚偽、退屈さの中で、思慮

 

深い教師達と児童達は、文字を通して密かに日常的に感じる恐怖感を、

 

表現せざるを得ない。

 

第一次5ヵ年計画が実行された,わずか前だけを取って見ても、学校

と共産主義青年同盟は、子供たちを利用し、父親と、宗教と関係を持

 

った母親を暴き侮辱して、“再教育させた”」(トロツキー著、<裏切られた革命>

 

 

 

歴史から明らかになる、社会主義勢力の態度に対する判断

 

 

ソ連社会の進歩性と反動性に対する判断は、現実から、先鋭な立場の差異として発展した。特に、1930年代後半、第2次世界大戦が始まるが、戦争の時期、ソ連に対する判断で先鋭な立場の違いが現れた。

 

トロツキーは、ソ連社会を‘堕落した労働者国家’と規定し、生産手段の国有化を維持しているソ連社会を、防衛しなければならないと主張した反面、ソ連を、果たして労働者国家と呼ぶ事が出来るのかと言う問題提起とともに、‘ソ連防衛’を否定する主張までも登場する事となる。

トロツキー死後、韓国戦争(朝鮮戦争)、ベトナム戦争に対しても、この様な立場の延長線上で、社会主義者達の態度は分かれた。

当時、社会主義者達の態度を観察し、ソ連社会の反動性と進歩性を基に、社会主義者達はどんな立場を取らなければならなかったのか探ってみる。

 

 

(1)   第2次世界大戦時期の、ソ連に対する立場

 

 

すでに、第2次世界大戦当時、ソ連社会は社会主義の観点から見たとき反動的な社会だった。党と国家は官僚化、独裁化されていたし、労働者階級の状態は劣悪だった。この様な状況でソ連は、社会主義を保護すると言う名分の下、ドイツと不可侵条約を結び、まもなく1939年ドイツとロシアは、ポーランドを分割占領した。この時から第2次世界大戦時期のソ連に対して、社会主義者達の立場はいろいろに分かれる。果たして、ナチ・ドイツと不可侵条約を結び、ポーランドを分割占領する社会が社会主義と見ることが出来るのか、深刻な疑問が提起された。特に、ソ連がフィンランドを武力で侵攻した状況に至るが、問題提起は更に深刻となった。

 

この様な状況で、ソ連社会を‘官僚的集産主義’と見た、ブルノーアルなどは、すでにソ連社会、ナチズムなど、官僚集産主義社会が全世界で勝利した為、誰も国家所有を脅威としないのだと主張した。

彼らは、ドイツがソ連を侵攻しても、社会的所有関係は変わらないと言う理由で、第二次世界大戦時期、ソ連に対しどんな立場も取らない機会主義で逃れてしまった。また一方では、スターリン道具となる事を願わないと言う理由をもってソ連防衛路線を放棄しながら、事実上、機会主義にのめり込む。彼らは、スターリン下のソ連社会が、資本主義社会と差別点がない社会と判断した。

 

第二次世界大戦時期、戦争に突入したソ連に対し、社会主義者はどんな態度を取らなければならなかったか?結論から言えば‘ソ連防衛’路線を取らなければならない。

 

ソ連は、社会主義の観点から、労働者民主主義が抹殺され、労働者国際主義が守られないなど、反動的な社会だった。しかし、ソ連社会には、こんな反動性だけが存在したのではない。資本主義社会の搾取の根源である、生産手段の私的所有が撤廃された社会であったし、国家計画を通して、ソ連社会は生産力を飛躍的に発展させた。医療、教育等、社会福祉部分でも、国家が責任を負う社会だった。

反帝反封建民族解放闘争に対し、積極的な支援をし、ファシズムを粉砕するのに先頭に立った社会だった。

反面、ドイツファシズムは、ドイツ資本主義の存続を追及し労働者階級と社会主義に対し露骨な敵対を剥き出し、大々的な攻撃をほしいままにした体制だった。

こんな状況で、第2次世界大戦時期、ソ連に対する社会主義者達の立場は、ソ連の反動性を理由にあげて機会主義に逃げるのではなく、積極的な‘ソ連防衛’の立場を取るべきであった。ソ連社会が持つ進歩的側面を防衛し、反動的側面を覆す為にソ連を防衛するのが社会主義者の態度で無ければならなかった。

 

 

(2)   韓国戦争(朝鮮戦争)また、ベトナム戦争に対する態度

 

 

この部分は、この文で取り扱おうとした部分は無いので、参考に言及する事とした。ソ連を、国家資本主義と規定した社会主義者達は、北韓とベトナムも同様に社会主義国家でなく、国家資本主義国家として規定するが、韓国戦争またベトナム戦争を、資本主義国家間の戦争と把握して機会主義的態度を取った。機会主義的態度の決定版は、米国でベトナム反戦運動が始まり全世界的に拡散されるや、彼らは立場を変え、ベトナムの米帝国主義に対する戦争を支持することに、わずかの間に変えたと言うものだ。これは、労働階級の立場に立たず、資本主義社会と比較してソ連社会が持った進歩的側面を見過ごした為に現われた深刻な誤謬だった。

 

 

 

結論

 

 

上で、調べたところと同じく、ソ連社会は、進歩性と反動性を同時に持っていた社会だった。社会主義革命を遂げたが、社会主義の観点で見ても深刻な反動的側面が存在したし、同時に、資本主義と比較した(時に)進歩的側面が存在したと言うことだ。

前者の側面から社会主義者達は、官僚が支配しているソ連社会を批判したり‘ソ連社会の革命’を主張し、後者の側面からソ連社会を防衛しなければならないと言う主張をした。

この様な状況事態が、ソ連社会に進歩性と反動性が同時に存在すると言う事実を反映してくれるのだ。

 

人間個人を判断する時も、肯定的部分、否定的部分を同時に判断することで、全体を判断する事が出来る様に、ソ連社会を判断する時もこんな諸視点を正しく把握しなければならない。この様な認識は、極めて当然なものと見えるかも知れないが、意外にそうではない場合が多い。反動的な側面の、否定的な側面を拡大しそれが全部であると判断する場合も発生し、反対に、進歩的側面、肯定的側面だけを拡大し反動的部分は状況論理で不問に付そうとする傾向もしばしば発生する。

人類最初に社会主義革命を成功させたソ連社会を見るのにあっても、進歩性と反動性を具体的に見渡す観点を正しく持たなければならない。

 

しかし、現実には、この様に当然に見える常識的な観点も、正しく守られなかったのだ。反動性をソ連社会の全体的な性格として把握した勢力は、実際の現実では、機会主義的な態度を取る形態で現われた。

反対にスターリン主義者達は、進歩性を強調した残りの現実から深刻に現われた反動性を、隠蔽したり状況論理で逃げて行きながら、ソ連社会を擁護する誤謬を犯した。

 

トロツキーの場合、ソ連社会の進歩性と反動性を具体的に把握しようとしたし、第2次世界大戦時期、‘ソ連防衛’路線をとった。しかし、国有化と言う所有関係を強調した後で、独ソ不可侵条約、ポーランド分割占領、フィンランド侵攻など、スターリンの政策を容認してやる誤謬を犯した。これは、ソ連社会を、進歩性と反動性が持っている連関性を理解できず、社会革命でなく政治革命が必要だと言うトロツキーの主張の延長線上にあるものだ。

〔訳 柴野貞夫 2009年11月8日〕