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(韓国ヨンハップニュース国際記事 2010年11月10日付)

 

 

 

○以下のヨンハップ通信の記事は、北韓の核開発問題を口実に、外交問題を、他国への侵略戦争で暴力的に解決すると言う、米帝国主義の理念を実行して来た世界資本主義体制の政治的代理人・ブッシュの破廉恥な回顧録である。イラクやアフガンとともに北韓を常に侵略の目標に置いてきたことが理解できる内容だ。

                                            

○当サイトで既報の彼の回顧録の一節(‘テロ’容疑者の拷問を命じた)とともに、いつの日か、許しがたい戦争犯罪人の法廷陳述として記憶に留めて置こう。

 

○ブッシュは北韓の指導者であるキム・ジョンイル氏を「高級ベンツ、外国映画、良いコニャックの愛好家」と揶揄しているが、他国の政治的・文化的客人を迎えなければならない一国の最高指導者が、日本の企業の部長クラスと同等のスタイルである事を批判するのは見当違いだ。国民の80パーセントが貧困層で、保険制度さえほとんど存在しない米国の指導者の言葉として失笑ものだ。(訳者注)

 

 

 

 

ブッシュ“北韓攻撃の可能性を中国に警告した”

 

 

 

 

(ワシントン/ヨンハップニュース)ファン・ジェフン特派員

 

 

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ジョージ・ブッシュ前米国大統領は在任時期、北核問題を外交的に決出来ない場合、北韓に対する軍事的攻撃を敢行する事が出来ると言う事実を中国に警告したことが、11月9日(現地時間)明らかにされた。

ブッシュ前大統領は、9日、市販された自叙伝‘決定の瞬間(Decision Points)’で、“2003年2月、私は一段階さらに進み、チャン・ツォミン(江沢民)・中国主席に‘我々が、この(北核)問題を外交的に解決出来ない場合、北韓に対する軍事的攻撃を検討する以外にない’と言った。”と伝えた。

(△上写真は、ブッシュ自叙伝の関連部分)

 

 

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△上写真 ブッシュの自叙伝「決定の瞬間」表紙

 

 

 

彼は、北韓が秘密裏に高濃縮ウラニュームを通じた核開発に乗り出していると言う情報が入手された後の、2002年10月当時、チャン(江)主席を自分のテキサス・クロポード牧場に招請して持った首脳会談で、北韓問題を提起し“これは、米国だけではなく中国に対する脅威”だとしながら共同対応を要請したが、江沢民主席が“北韓に対する(中国の)影響力の行使は極めて複雑な問題”として事実上拒否したと伝えながら、この様な事実を公開した。

 

彼は、以後数か月あとから、自身が他の論拠を主張し始めたとしながら、2003年1月には江沢民主席に“北韓の核武器プログラムが継続されれば、日本の核武器開発を止める様にする事は出来ない”と言ったと伝えた。

 

彼はこの自叙伝で、北韓問題が2001年3月、キム・デジュン(当時)大統領の訪米を控えて、自身の就任後初めての国家安保会議の議題に挙がった事も紹介した。

 

ブッシュ前大統領は、当時自身の国家安保チームに“金正日を扱うのは、私に子供達を育てることを想起させてくれる。”と言ったとして、自分の二人の娘が、関心を引くために食べ物を床に投げ,夫人であるローラ女史と自分が走って行き、これをまた拾い上げて(食器に)盛った事実を取り上げたと伝えた。

 

かれは、“娘たちは次にも、関心を引く事を願う時、食べ物をまた投げた”としながら、“米国は絶えず彼(金正日)の食べ物を拾って盛っている”と、国家安保チームに語ったと明かした。

 

彼は2006年7月、北韓の長距離ミサイル試験発射の事実を取り上げながら“金正日が、床に又食べ物を投げた”と表現した後、“金正日は世界がイランに集中されたのを見て、関心を集める為にその事をしたのだと言うのが、私の理論”だと語った。

 

彼は自分の就任後、対北政策の方向と関連して、“前政権は、北韓の独裁者金正日に、核武器宣言の対価として譲歩を提案したが、こんな政策は効果がなかった。”としながら“私はこれを変更させるのだと国家安保チームに言った。それ以後から、米国が譲歩をする前に北韓は行動を変化させなければならなかった。”と伝えた。

 

彼は在任時期、読んだ本の中で、最も影響力を受けた本の中の一つが脱北者出身であるカン・チョルファン氏が書いた‘ピョンヤンの水族館’と言う書籍だったとしながら、“カン氏の話は、数多い人命を殺した独裁者金正日に対する私の深い嫌悪感を呼び起した。”と内情を打ち明けた。

 

それとともに、彼は、当時栄養不足で北韓住民たちが南韓より平均3インチ背丈が小さいと言う情報報告も読んで、自分の就任前6年間に百万名が飢饉で息絶えたと言う推定もあったと伝えた。

 

彼は又、金正日に対し、良いコニャックと高級ベンツ車、外国映画を好む人物と描きながら、北韓住民たちに、まるで神の様な指導者として彼を崇拝する様にしたと非難した。北韓の宣伝媒体は、金正日が天気を思うままに調整し、6個の有名なオペラを作った等の事実を広報する事もすると、皮肉った。

 

彼は対北政策と関連して、“短期的には、六者会談が金正日に対するレバレッジ(梃子)を維持し、韓半島から核武器を除去する事が出来る最善の機会を与えてくれるが、長期的には意味ある平和のための唯一つの道は、北韓住民たちが自由になる事だと確信する”と語った。

 

これ以外に、彼はこの自叙伝で、ドナルド・ラムズウェルド国防長官対、コリン・パウエル国務長官で代弁される自身の外交・安保チーム内に不和が深刻になった事実を認めながら、“2004年春には、国家安保チーム内の不和に対する私の忍耐が限界に達した。”と回顧した。

 

彼は、“当初の創意的緊張で始まったものが、破壊的に変化した”とし、“(外交安保チーム内の)反感は極めて高かったし、唯一つの解決策は2004年選挙以後、国家安保チーム全体を交代しなければならない事だと言う結論を下した。”と語った。

 

彼はハト(鳩)派として知られていたパウエル前長官に対し、“パウエルを尊敬するが、彼が率いる国務部は、私の哲学、また政策と完全に一致する事はなかった。”と伝えながら、当時パウエルが、早めに辞意を表明したし、後任としてコンドリージャ・ライスを念頭に置いた事を伝えた。

 

これと関連して、彼は金大中(当時)大統領との韓米首脳会談を控えて、対北政策を準備した2001年3月のある日、明け方5時15分頃、‘クリントン行政府が北韓とミサイルプログラム協議を終えた状態で、ブッシュ行政府が協議を始める意向があると言う要旨で、パウエル長官が語った’と言うワシントンポスト紙記事を見て、“驚愕した”としながら“これは、その前日、我々が会議で言った事と、まともに反対する話だった。”と、パウエルに対する不満もさらけ出した。

 

一方当時彼は、コンドリージャ・ライス国家安保補佐官に、これを収拾する役割を任せたとしながら、ライスに対する強い信頼感を自叙伝のあちこちで露わにした。

 

(訳 柴野貞夫 2010・11・15)

 

参考サイト

 

☆ 206 朝鮮外務省備忘録 (朝鮮民主主義人民共和国・労働新聞 2010年4月21日付け)

 

 

☆ 朝鮮半島の平和の第一歩は、米帝国主義の核基地である韓国と日本の非核化である (2008年8月9日更新)