(韓国・社会主義政治組織・タハムケ機関紙 「レフト21」49号2011・1・28付)
http://www.left21.com/article/9183
アレックス・ケルリニコス(ロンドン大学・キングスカレッジ、ヨーロッパ学教授/英国・社会主義労働者党中央委員)
チュニジア―革命のパターン
○チュニジア革命は、アラブを支配する西欧に一撃を加えた。
○事態の必然的な展開を理解する大衆的政治組織の登場が必須だ。
○トロツキーの連続革命の理論が指摘するように
現在の、アラブ諸国における反独裁・反王制に反対する政治闘争は、労働者階級の(指導の下での)社会主義革命の展望の中でのみ勝利する。
チュニジア革命のおかげで、この間アラブ世界で常識として通していた事が、急激に壊れてしまった。途方もない経済的不平等、米帝国主義の支配に対する嫌悪と、時たま起こる暗殺にも拘らず、その間この地域は信じられない程度に政治的噴出が低調だった。
アラブ国家の中で、もっとも重要な二つの国(サウデイアラビア、エジプト)は、80代支配者が統治する。サウデイの王は、サウデイアラビア王国を建国したイブン・サウデイの子息の中で、最も年が上の息子であるアブドラだ。
エジプト大統領ホスニ・ムバラクは、自分の息子・カマルが、大統領職を承継するように探りながら、30年も超える執権を自ら祝った。
中東では、政治的討論の時ごとに、‘アラブの世論’と言う言葉が登場する。しかし、大概は野蛮的な抑圧が、その世論を眠らせた。そうであるが、チュニジアでは今、その世論が断固として鳴り広がった。
大統領だったジンエルアビディン・ベンアリは、典型的に、革命的な過程を経て追い出された。ベンアリの極めて腐敗した政府は、懐柔と恐怖を適切に利用し支配した。
△写真 チュニジアの通りで、ゴミの山を探る市民。チュニジア大統領・ジンエルアビディン・ベンアリは、経済危機の苦痛を平凡な人々に転嫁した。(写真出処 Lollus)
その没落は、輸出市場を委縮させ、食料品価格を高騰させた世界経済危機の為だった。世界銀行は、チュニジアが“貧困を阻止し社会指数を見事に達成し、公平な成長と言う注目に値する進歩を果たした。”と評価して来た様だが、この国の公式失業率は、過ぎる10年間14%にもなった。
青年層失業率の推計は、それより遥かにもっと高く、全国的に約40%に達するので、人口の42%が25歳以下であるチュニジアでは、潜在的爆発力がある案件だ。IMFは、エジプト、ヨルダン、チュニジアで高等教育を受けた人の内、7名あたり1名が失職状態と言う。
こんな経済的不満は、どうして政治的危機へと発展したのか?
過去にもそうであったが、取るに足りなく見える事件が危機を触発した。大学を卒業した失職者であるモハメド・ブアジジは、青果物を売る屋台が押収されるや、抗議の焼身自殺をした。
経済的不満と並んで、政府の野蛮性と腐敗に対する憤怒が急騰した。大衆示威はボアジジの故郷であるシディプジドゥで始められ、いろんな地方を経て首都であるチュニスまで拡散された。
初期に政府は、抑圧することだけで対処した。効果がないと妥協を試みた。これさえ失敗するやベンアリは、2014年に退くと約束した。(しかし)1日も経ずに、彼は辞任して海外に逃走した。
政府は、下からの反乱の為に分裂した。その分岐点は、今に至るまで支配機構の一部だったチュニジア労働総連盟(UCCT)が突然示威に合流し、内務部を封鎖し,総罷業を訴える事となってからだった。
既成権力構造を保護し様とすれば、ベンアリが犠牲になる以外なかった。軍隊の司令官は、示威隊に発砲せよと言う命令を拒否した。司令官が、解任に対して、ベンアリを追いだしたと言う噂さえ広がった。
総罷業(ゼネスト)
いま、もう一度典型的なパターンに従って、闘争の中心は、権力を生かしておかないと言うものに移って行った。示威は継続され、さらに今人々は、ベンアリの立憲民主連合(RCD)所属の長官達は皆、ベンアリの後任であるモハメド・カンヌシが導く‘和合政府’から追い出す事を要求する
もう一度チュニジア労働総連盟は、去る土曜日、先頭に立って相次ぐ総罷業を訴える。<ニューヨークタイムス>には次の様に載せられた。“いま連盟は、過渡政府の解散を依然として要求する最も大きい政治勢力だ。内閣には小規模の合法的な野党があるだけで、非合法化されたイスラム主義運動は、いままさに手足を伸ばす。”
チュニジア革命をどのように理解しなければならないか?一つは明確である。この革命は、米国のネオコンがそそのかした、親西欧の‘有彩色’革命ではないと言うことだ。ジョージ・ブッシュが派遣したアフガニスタンとイラク特使であるジャルマイ・カリジャドは、チュニジア革命に対し“西欧民主主義の波が、また起こること”が必要だと応酬した。
事実、ベンアリの政府は新自由主義の「アイコン」だった。
フェイスブックの‘数値の壁’には、フランス大統領ニコラ・サルコジ、米国の前国防長官ドナルドゥ・ラムズフェルドや、国連
事務総長バン・キブンのような旦那達が、ベンアリを称賛する文句でぎっしりだ。
△写真 1月20日継続するチュニジア革命。
チュニジア革命はイエメン、エジプト等周辺国家に拡散されている。(出処・Nasser Nour)
チュニジア革命は、アラブを支配する西欧に一撃を加えた。多くの政府は、革命が拡散するかも知れないと言う恐怖に捕まった。米国の核心同盟勢力であるイエメンでは、先週学生たちが、大統領アリアブドラサレに反対する示威で、次の様なスローガンを叫んだ。“どうぞ、アリは友人ベンアリの後を追って消えてくれ。”
エクスト大学のラビサディキは次のように書いた。“西欧の安保専門家は、…<資本論>を読んで、カール・マルクスの立場で現実を直視しなければならない。”
“マクレブ地域のチュニジアとアルジェリアから、東部アラブのヨルダンとエジプトまで、自衿心(誇り)に傷を負わせ、共同体を崩し、結婚の様な既存の慣例さえ揺り動かす実際の脅威は、社会経済的周辺化に対する不安だ。”
チュニジアで、今のところは政治革命が岐路に立っている。
依然として街を埋める示威隊は、ベンアリを追い出す事にとどまらず、彼が代表した政治団体の全体を拒否する変化を要求する。
1830年と1848年のフランスから、東ヨーロッパと中部ヨーロッパのスターリン主義体制が転覆された1989年の革命に至るまで、近代資本主義では、政治革命がいつも起こった
この様な政治革命で、経済・社会的体制、即ちマルクスが言う、生産様式は殆んど損傷されなかった。政治革命と言うのは、社会革命とは異なり、既存の経済・社会体制を政治的に再編するだけである。グリス・ハモンは1989年の革命(ソ連圏の崩壊)を、他の形態の資本主義に移して行った“蟹の横ばい”と描写した。
連続革命(永久革命)
しかし、チュニジア人達は、政府を変化させる事だけで、終わってしまうのか?
チュニジアは、人口が約一千五百名に過ぎない小国であるが、かなり都市化されているし、労働力の大部分が工業とサービス業に従事する。
知られるように、世界経済危機で悪化された物質的困窮は、革命の動力の一部であった。新政府と民主主義体制では、これが全く解消することが出来ないのだ。
次に述べれば、今日、チュニジアの政治と経済は、互いをささえ合っている。
レオン・トロツキーは、1905年のロシア革命を経験して、絶対王制のチャル・ニコライ二世に反対する政治反乱が、おおむね雇用主達に反対する経済闘争に“成長転化”する方式を指摘した。
この様な分析から現われる事実は、ロシアの産業労働階級が、ロシアを民主化する闘争の先頭に立ったと言う事だ。政治的な民主主義闘争は、資本に反対する経済闘争と結合され、社会主義革命に向かった。
トロツキーはこの(革命の)力学を‘連続(永続)革命’と呼んだ。1917年10月、ロシアでその革命の終着は、ソビエト、即ち労働者評議会が権力を掌握することだった。
チュニジアが、連続革命の過程に踏み込むのか?は、今のところ判断すれば速断になる。
無論、ベンアリと協力して来た労働組合指導者達は、そのどんな革命も願わない。しかし、旧政府を徹底して追い出す過程で、自分達(組合指導部)の統制を抜け出す、下からの勢力が登場することが出来る。ベンアリの民兵たちが、混乱を引き起こそうとした時、人々は自ら防御する為に、地域防御委員会を設け組織し、互いに連携を結んだ。
国家から旧悪を取り除こうとする試みが、革命的方向に移していくことが出来る。各地の経験が今日のチュニジアに手掛かりとなる事が出来る。去る50年間、西ヨーロッパで生まれた最も大きい革命的局面は、1974年4月ポルトガルで、左翼軍事クーデターとして始められた。
抑圧から解放された大衆が、最初に攻撃したものは、旧政府の嫌悪すべきポルトガル保安警察(PIDE)だった。労働者らは新しく得られた総罷業の権利を活用したし、兵士達が街頭示威に合流した。
チュニジアでは、警察が反乱を潰す一線に立ったが、軍隊は出なかった。そうであるが、さる土曜日、2千名を越える警察幹部達が、消防士と保安軍の一部と一緒に、赤い腕章をつけ、示威に合流した。<アルジャジーラ>は、次の様に報道し
た。“彼等は、今、人々と一緒に立ちたいと言う。革命の一部になろうとする
”
△写真 互いに抱擁する示威隊と兵士 警察・兵士まで革命を支持している。(出処 cjb22)
国家の抑圧機構の内部分裂が大きくなるほど、真情な革命的変化の可能性はさらに大きくなる。
しかしこの可能性の実現も、事態の必然的な展開を理解する大衆的政治組織の登場に左右されている。
どの局外者も、こんな登場の可能性を占う事は出来ない。西欧の論評家達は、非合法化されたイスラム主義政党が主導権を執る事とならないか?にだけ、関心を傾注する。冷やかに言って、必ずそうだろうと言う道理はない。チュニジアには、長い独裁に苦しみながらも生き残った世俗左派の伝統がある。
チュニジアで、革命的過程が始まったと言うことは明白だ。これが、チュニジア人達や、アラブの残りの諸国、そして世界に及ぼす意味は、確実となるだろう。
(訳 柴野貞夫 2011・1・31)
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