(韓国ネット新聞・PRESSIAN世界ニュース(2012年1月13日)
http://www.pressian.com/article/article.asp?article_num=50120113111230&Section=05
<坂の上の雲>にみる日本の主流たちの変わらぬ世界観
ハン・スンドン・ハンギョレ論説委員
日本は、朝鮮を植民地にした事がない
韓国人であれば、こんな語法が馴染まない事はないだろう。“ロシアは、日本を故意に死へと追い込んだ。日本を、窮地に追い込まれた鼠にした。日本としては、死力を尽くして猫を咬む他はなかった。・・・露日戦争と言う世界史的な帝国主義時代の一つの現象であることには間違いない。しかしその中で、日本側の立場は、窮地に追い込まれた者が、持っている力を尽して臨んだ防衛戦だった事も否定できない。”
明治維新100年となった1968年に、極右紙<サンケイ新聞>に連載された、日露戦争を舞台に設定した日本の国民小説<坂の上の雲>の作家、司馬遼太郎の話だ。上の引用文で、‘ロシア’を‘米国’に置き換えて、露日戦争を太平洋戦争(或いは、大東亜戦争)と、取り変えて読んでも日本人の主流の多数は、恐らく、ほとんど違和感を持たないであろう。ロシアの席に清国を入れて、日露戦争を日清戦争と置き換えても、日本の主流の大多数は、殆んど、あるいは全く、異質感を覚える事はないだろう。
その上(甚だしきに至っては)、彼等は420年前、イムジン(壬申)年に朝鮮の土地で、豊臣秀吉の侵略軍が恣行(勝手気儘な行為)した惨禍に対してさえ、そんなやり方の、日本防衛の為の不可避な戦争だったと言い張るかも知れないのであり、1400年前の白江(訳注―白村江)で、百済軍と一緒に戦った羅・唐(訳注―新羅・唐)連合軍との大会戦さえ、そんなやり方で認識している可能性が濃厚だ。
‘日本の自虐史観を克服し、自由主義の新しい歴史教科書を作ろう’として集まった藤岡信勝、西尾幹二など、いわゆる右翼‘新歴会’(新しい歴史教科書をつくる会)主導者達が固執する‘新しい歴史’の核心は、即ちそんなものだ。
近代日本が繰り広げた諸戦争に対する日本の主流の認識は、それが侵略戦争でなく、生きる為に仕方なく始めた防衛戦争だったと言うものだ。そして、日本の戦争責任を認める場合にも、それは1931年の満州侵略(満州事変)以後敗戦まで、15年間継続されたアジア大陸侵略とハワイ真珠湾奇襲以後の米国との戦争に限られている。所謂‘15年戦争’のことだ。
日本で語られる、<軍国日本の戦争責任>と言うものは、主としてこの<15年戦争>と関連してだけ論議される。この部分を注目しなければならない。
その為に、日本の主流の軍国日本の戦争責任の認識の中では、日清戦争と明成皇后[ミンビ(閔妃)]の殺害、東学党と義兵戦争討伐、日露戦争、朝鮮植民支配と抗日戦争討伐など、明治時代のカンファド(江華島)侵犯以来、70年近く韓半島を蹂躙した侵略の歴史が、ほとんど完璧に抜け落ちている。
自民等右派だけがこうなのではない。民主党の主流もほとんど変わる所がなく、知韓派や進歩的リベラル、左派達さえ、あまり違わない。彼らには、米国に対する日本の戦争責任は認める事が出来るかも知れないが、韓国或いは朝鮮に対する戦争責任は、はなから概念さえない様に見える。アジアに対する15年戦争の責任を語る時さえ、彼等の頭の中にあるのは中国であって朝鮮ではない。
右派主流は言うまでもなく、竹内好や丸山真男や南原繁の様な、戦後日本の民主主義と所謂平和主義の理念の伝播者達、実践家達でさえその点では大きく違わない。
20年間1000回も続いた日本軍慰安婦のハルモニの水曜集会に対する彼等の無関心や、韓日首脳会談後の記者会見で、総理が独島領有権の主張を平然と並べる事が出来るのも、朝鮮侵略に対する無概念と無関係ではないだろう。1990年代から自民党内穏健保守派達が、話した東アジアに対する戦争責任、過去史問題また、‘アジアへの回帰’さえ、主に中国をその対象とするだけで、朝鮮は眼中にないか、脇の問題だった。
朝鮮が日帝に併呑されてから、100年が経った2010年〜11年、日本公営<NHK>は、<坂の上の雲>を映像として送り出した。衰落気味を見せている今の日本とは違った日本、明治時代の始まりとともに生まれた主人公達が、青雲の志を抱き、一つ一つその夢を果たして行った近代日本の幸福だった時代、その楽観主義を蘇らせようとしたのか、それとも、その幸福だった時代が、持続出来ないようにした要因に対する点検だったのか。
その、明治と大正と昭和時代の楽観、近現代日本の良かった時代、即ち、その坂の上の雲が、朝鮮・中国の悲惨とコインの両面だと言う事実、その隣の悲惨を量産してきた張本人が日本だと言う事実に対し、自覚が、そこには根こそぎ抜けているのであろう。
ソウル大学日本研究所が発行した‘リーディングジャパン’シリーズ第3巻『露日戦争と大韓帝国』(和田春樹著、イ・ギョンヒ翻訳、ジェイエンシー発行/右下写真)は、今更に、そんな問題意識を刺激する。和田東京大名誉教授は、司馬(遼太郎)の<坂の上の雲>を媒介として、日本の主流のそんな認識上の盲点を指摘しながら、日露戦争の、また異なる裏面を裏返す。
<露日戦争と大韓帝国>は、2010年11月19日、ソウル大・日本研究所が開催した、和田教授招請講演会の内容を整理したものだ。 2009年と2010年に連続出版された膨大な資料を駆使した力作『露日戦争―起源と開戦』(岩波) に集約した研究成果を土台としている。
和田教授によれば、日清戦争と日露戦争はすべて朝鮮占領を目的に、朝鮮で始まった戦争だ。そうであるが、戦争を引き起こした日本の主流の意識の中には、その時も今も朝鮮は抜け落ちている。
その本に、こんな場面がある。1895年10月8日、日本公使が指揮して、公使館ナンバー2の一等書記官スギムラ・フカシも加担した中で、日本人の政治活動家と日本軍が加勢して、宮殿(景福宮)に入って行き皇后を殺してしまいます。(訳注―乙未事変。)殺害された隣の部屋で、高宗は震えていました。これは度外れた暴挙です。その暴挙を中庭で見ていたのがロシア人の雇用建築家セレディン・サバティンです。この人は、高宗が居住するコンチョングン(乾清宮)内に、西洋館・関門閣を1888年に建てました。そして1897年から1899年まで、1905年当時高宗が住んでいたチュンミョンジョン(重明殿)を建てました。
この残酷な光景、異邦人達の残虐無道。明成皇后殺害は、日清戦争(朝鮮支配戦争)で勝った日本の野心を、ロシアなど列強三国が干渉して挫くや、高宗と明成皇后がロシア側を頼みとするので、日本最大の戦利品とならなければならない朝鮮が、彼等の手の内から抜け出そうとすると直ぐに、引き起こした日本侵略者達の蛮行だった。
その蛮行の後、高宗は俄館播遷(この諤擶淦棣(聖耕紫痕)m,後 1896甸,高宗はロシア公使館に身を置いた)を断行し、尚一層ロシアに傾いたし、日本は‘鶏を追っかけた犬、屋根を見上げる’様な姿となった。和田教授は、それが日清戦争に勝利し、気高満丈(得意絶頂)だった日本に対する最大の反撃だったと書いた。
ここで、‘無能な亡国の王、高宗’に対する我々の既成観念に対し、もう一度考えて見る必要がある。結局滅びてしまった国の実質的な最後の君主を好意的に評価する事は難しいだろうが、その固着されたイメージの為に、高宗が不当に取り扱われる面はないのか。高宗に対する貶毀は、必然的に日帝植民史観の正当性の主張と突き当り、実際に、日帝官学者はそんな高宗のイメージを助長することで、自分たちの植民支配を正当化することに利用した。12〜13世紀ユーラシアを支配したジンギスカーンの無敵軍隊を防ぎ止められなかった中原の王達と高麗王達を、無能な王達だと簡単に罵倒してしまうことが出来るのか。
この部分は、例えば明治維新を敢行した日本侵略者達の有能を称賛しながら、正しく対応出来なかったまま崩壊してしまった朝鮮の無能のせいにし、挙句の果てに植民地近代化論まで詠ずる新右翼的世界に進むのか、それとも、その世界に立ち向かい戦うのかに、別れる岐路となるだろう。
『歴史に聞く』キム・ヒョスン著 西海文集発行)にこんな一節がある。“お前達が勉強をきちんと(正しく)せずに、その様に語るが、植民地と言うものは英国のインド支配の様なものを言うのだ。日本は朝鮮を植民地にした事がない。朝鮮を日本の一部にして、朝鮮人を日本人にしただけだ。”
1950年代後半、当時20代初半の梶村秀樹、羹徳相、宮田節子など、若い朝鮮近代史研究者達の前に、証言者として進み出た田中武雄ら日帝時代の朝鮮総督府政務総監など、昔の植民地経営者達が咎めるように吐き出した言葉の中の一つだ。
今日、日本の主流の考えは、あの日帝時代の朝鮮植民経営者達の、そんなねじれた世界観と思考方式を、ほとんどそのまま、複製したように見える。リーデイングジャパンシリーズ第二巻<善良な日本人の誕生>(ヘリー・ハルトゥニオン著 チョン・ギオン、イ・ギョンヒ訳ジェイエンシー発行)が、即ちその問題を正面から扱う。
デユーク大とニューヨーク大、シカゴ大の教壇に立った米国の著名な日本研究者ハルトゥニオンは、また実際の講演抄録として見られるこの本で、司馬遼太郎が<サンケイ新聞>に<坂の上の雲>を連載する2年前、日本政府の諮問機関である第19回中央教育審議会が答申として、政府に提出した報告書、‘期待される人間像’を分析する。それは一言で、日本の教育が天皇の家父長的な教育勅語が支配した戦争前の人間像、話をよく聞き、仕事をよくする‘善良な日本人’を再創出する世界に、回帰しなければならないと言う話だった。その答申の世界観が、今日本の主流の世界観となっている。
講演の討論者として参加した、キム・ハン高麗大民族文化研究院HK(人文韓国)教授は指摘する。“一例として、現代日本の保守化を、‘軍国主義の復活’として解釈するのは無理がある。むしろ近代日本は、明治維新以後に形成された主流派が、驚くほど永い間、支配力を行使して来たと言う点に注目しなければならない。即ち、変化と言うよりは持続こそ、近代日本の思想史、文化史を把握する基本観点である事をハルトウニオン教授の講演は見せてくれたと考える。”
結局日本の問題は、‘天皇’問題として帰結される。家父長的家族の延長線上にある天皇制の、その致命的な毒素を、占領統治の便宜のために、敗戦後の日本に温存させたのは米国だった。‘逆コース’以前に、日本を再び米国に立ち向かう事が出来ない下流国家として改造しようとした米国占領者の初期の意図が、結果的に最も完璧に的中したケースだといえる。日本のアキレスケン、天皇。過去にもそうであったし、今もそうであり、これからもそうだろう。
この1966年と1968年に起きた事(訳注−1966年の中央教育審議会の答申‘期待される人間像’、及び1968年から、司馬遼太郎の<坂の上の雲>がサンケイ新聞紙上に連載が始まった事を指す)は、和田教授が指摘した次の様な現象の延長線上にある。
“戦後、10年が過ぎると、‘戦前日本の戦争の歴史は、すべて否定されなければならないのか。満州事変以後ならともかく、日露戦争までは構わなかったのではないのか’と言う認識が現れる事となる。<坂の上の雲>こそ、そんな世界観を正確に反映したものだ。
1931年中国大陸の侵略が本格化する前までに、朝鮮で恣行(勝手気儘な行為)された帝国主義日本のあらゆる野蛮的犯罪行脚は、明治時代に対する郷愁と楽観主義の陰に隠され隠ぺいされたのであり、朝鮮は第二の日本と言う、実質とかけ離れた虚偽意識が、それに依った気まずさを除去したのである。
(訳 柴野貞夫 2012年1月19日)
<参考サイト>
☆キム・ヨンボム著「日本主義者の夢」 日本語訳特集
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