(韓国・民衆言論 チャムセサン 2007年10月13日付)
チェジュ(済州)島4.3事件/最大の虐殺場所・チェジュ国際空港で遺骸発見
○密葬の穴の一部と、遺骸および遺留品等、160点発掘
○(米軍政と韓国軍警による)軍法会議の死刑囚、及び予備拘束者800名の集団虐殺
チェジュ4・3(事件)当時、住民達が集団虐殺され埋葬された場所として知られた、チェジュ国際空港(昔のチョントゥル飛行場)で、一部の虐殺の密葬穴と部分遺骸141点、(銃弾の)薬きょうと履物など遺留品19点など、すべてで160点が発掘された。
発掘された地点は、現在、チェジュ空港南北滑走路の西北側で、当時、近隣村に居住していた住民たちの証言を土台に、約11、000平方mの面積を2〜4mほど、掘り下げてきた場所だ。
今回に 発掘された遺骸は、1949年、第2次軍法会議で死刑宣告を受けた249名と、韓国戦争(訳注・1950〜1953年朝鮮戦争)の勃発直後である1950年8月、予備拘束で捕まってきた住民500余名等すべてで800余名が米軍政と(韓国)軍警によって集団虐殺され、密葬された事を明らかにしている。
空港拡張工事などで、遺骸の大部分が毀損(きそん)
発掘された遺骸は、ゴム製靴を履いている足、崩れて砕かれた頭蓋骨、破片化された骨と歯など、形さえ、ろくに確認できない部分遺骸で、完全な形態の遺骸は発掘されなかった。
これは、1973年と1982年など、つぎつぎに跨った空港拡張工事と軍需備蓄資材の抗の築造過程で、関係当局の黙認で遺骨が相当部分毀損されたことを推定している。
現在、遺骸の密葬穴の規模は、長さ19m以上、幅1〜1.2mと推定しているが、大部分工事過程で毀損され現在残っている部分は、3.9mと確認されている。
次週から、二段階の精密調査
今回の、遺骨発掘現場公開は、遺骸が(空港の)工事過程でやたら傷をつけそのうえに、また土を3mくらい、かぶせてのせた事態にともなって、あらかじめ発掘される遺骸・遺留品を収集して、二段階の定日調査のため準備された。
発見された遺骸と遺留品は、10月2日チェジュ大学の医学部室に運柩また移送処置され、鑑識など精密調査に這入って行き、来年8月6日まで犠牲者、遺家族政府調査また採血、死後処理などをする予定だ。
現場発掘作業は、現在42日目で、半分程度の進行率を見せていて、チェジュ国際空港の南北滑走路補修工事期間である、翌月11月までに制限されている。
最近、台風と引きつづく雨によって作業が遅延され、期間までそのままにされる遺骸発掘と収集は、難しいものと予想され、せつなさを極めている。いいアイデアがあれば、誰でも、チャムセサン編集局が生産した全てのコンテンツにダッグをつけることができます。
(写真説明1) 半世紀の間、はてしなく穴の中に埋められていた遺骨。二つの 骨に銃傷の痕跡がハッキリしている
(写真説明2) チェジュ国際空港南北滑走路西北側 の地点(昔のチョントウ ル飛行場)集団虐殺され埋められた穴と推定される
(写真説明3) 当時集団虐殺のあと、密葬された穴
(写真説明4) 砕けて粉々になった、部分遺骸などが見える
(写真説明5) 崩れて粉々のまま、土の中埋められている二つの骨
(写真説明6) あちこちに遺骸と遺留品などが発見された地点
(解説)
南北首脳会談と、六者協議の進展は、東北アジアの軍事的、政治的緊張を煽ることで、国内の民衆支配の手段に利用してきた日本の右翼国家主義者を、甚く失望させている。しかし、60年を超える朝鮮半島の民族の分断と南北の戦争状態の終結、さらには、東北アジアの平和に向けての全朝鮮民族とアジア民衆の願いは、今確実に一歩を踏み出している。
一方で、この60年の歴史の傷跡は、今も尚癒えていないばかりでなく、現在進行形の歴史総括の過程にある。1950年の韓国戦争(朝鮮戦争)に先立つ1948年、米国による、国連を利用した半島南部・米軍政下の単独選挙を、民族の分断を固定化し統一独立国家を妨害するものとして反対し、立ち上がった島民に対する米軍と李承晩・南韓軍警、および、本土から送り込まれた反共ごろつき集団・ソチョン(西北青年団=西青)によって、25、000名〜30、000名以上の住民が虐殺された。
この事件は、そもそも半島の分断が、誰によって、何の為に行われたかを示唆し、それに引き続く朝鮮戦争の悲劇を準備したのである。
1999年、金大中政権は、「4.3特別法」を制定、2003年10月、ノ・ムヒョン政権は「4,3法」による「済州4.3事件真相調査報告書」をまとめたが、朝鮮の近・現代史における真の歴史総括は、今始まったばかりである。それは、当然の事であるが、日本の近現代史の総括とも一体とならねばならないであろう。 (訳者)
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