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(朝鮮民主主義人民共和国・労働新聞2008624日付)
http://www.kcna.co.jp/today-rodong/rodong.htm



           計画的におこなわれた米帝の朝鮮戦争準備策動


朝鮮戦争(1950625日〜)とは如何なる戦争なのか58周年を顧みる

先の、朝鮮戦争を引き起こした米帝の正体は、それを何としても隠すことは出来ない。それは、米帝が南朝鮮を強占した最初の日から、朝鮮戦争挑発準備をせき立ててきた歴史的な事実を通してもよく知ることが出来る。米帝の朝鮮戦争挑発準備策動は、計画的で陰謀的であり、強盗的なものとして特徴付けられる。米帝は、何よりも朝鮮戦争挑発のための侵略計画を予め隠密な方法で作成、完成した。
当時、米国大統領・トルーマンは1946年、戦争狂信者マッカーサーを米極東軍総司令官として任命し、以前の米太平洋軍武力の大部分で、極東軍を編成したあと、朝鮮戦争を包含した極東侵略計画を完成するよう指示した。これによってマッカーサー司令部には、《G−3》、《G−2》(米国日本占領軍・参謀部第二部作戦部=諜報部最高機関−訳注)と言う、朝鮮戦争挑発のための作定計画と諜報工作を研究する集団が集められた。マッカーサーは、ここにかっての日本軍の将軍らと、高級将校たちで組織された《役事組》と《KATO》機関(連合軍最高総司令部―GHQの諜報組織・キャノン機関や、ガールゲット機関の下に組織された<児玉機関>や<服部機関>と同じ日本軍国主義の残党、右翼、軍人からなる日本人によって組織され、松川・下山事件等の数々のでっち上げ事件や殺人を通して、労働運動、反戦運動の妨害工作や破壊工作に従事、朝鮮戦争前後は在日朝鮮人組織や共産主義者狩りの手引きをした。―訳注)を引き入れた。この集団に依って研究完成された極東侵略計画(A,B,C計画)は、19501月、米合同参謀本部で最終的に討議、批准された。
米帝は、極東侵略計画《A》に準じて、1949年初め《北伐》軍事戦略計画を作定した。この計画には38度線からの正面突破と、時を同じにして東西領海岸に上陸し、共和国北半部の腰を切って一挙にピョンヤン(平壌)とウォンサン(元山)を占領した後、アムノッカン(鴨緑江)トゥマンガン(豆満江)境界線に攻撃成果を拡大する企図が反映されていた。米帝は《北伐》のためのあらゆる地上作戦と海上作戦を、米海空軍の支援の下、遂行することを予見した。
米帝は、1949年末から1950年初にかけて朝鮮戦争挑発計画を検討、修正して38度線突破作戦として侵略戦争を開始することと確定したし、世界制覇戦略を反映した極秘文献である《NSC68》計画も作定した。(米国家安全保障会議文書第68号・National Security Council Resolutions 68−のことか?訳注) 195042日、米国家安全保障会議で批准された《NSC68》計画には、朝鮮戦争を挑発した後、米軍と追従国家軍隊を投入するときに対する問題が反映されていた。
米帝は朝鮮戦争で主力となる米軍武力を確定する為に、19486月に米国の歴史で初めてとなる平和時期《徴兵法》をでっち上げ、軍事予算を大幅に増やす一方、南朝鮮傀儡(かいらい)軍を組織、拡大するための策動を本格的に広げた。
朝鮮戦争挑発直前まで、南朝鮮かいらい軍の現役は、陸軍93千名、空軍3千名、海軍1万5千名として確保されていた。リ・スンマン(李承晩)逆徒は、厖大な予備兵力を確保することに対する米帝の指示に従って、20万名の青年達をかき集め、国防長官が直接率いる半軍事組織《青年防衛隊》を編成して、中学校以上の学生達に軍事訓練を与え戦争に動員利用する目的で《学徒護国団》まで組織した。ここに対して、当時西側出版物は、米帝の戦争挑発計画に従って、右翼青年団として軍事訓練を受ける南朝鮮青年達の数は、125万名に達しておりその目的は、北朝鮮の人民軍武力に対する《10対1の優位》を保障するものにあると暴露した。
南朝鮮かいらい軍に対する統帥権を掌握する事を、戦争準備の重要な‘取って’として主張した米帝は、南朝鮮かいらい軍の部隊長ポストに、米軍将校らを任命して、軍隊の募集と編成、教育、訓練を直接硬く握り執行した。米帝は1948年8月25日、リ・スンマン(李承晩)売国逆徒と共謀して《過渡期間暫定的軍事ならびに安全に関する行政協定》を締結して、軍隊に対する指揮権と南朝鮮の軍事基地ならびに軍事施設管轄権を掌握した。
米帝の直接的な指揮の下に、南朝鮮かいらい軍部は1768歩兵師団の武力を、ソブ(西部)のオンジン(壅津)から東部のカンルン(江陵)に至る38度線に展開したのであり、とうから作戦予定通り、掌握していた235歩兵師団らをテジョン(大田)、テグ(大邱)、クァンジュ(光州)地域からソウル地域に進出させ、ケソン(開城)、ウイジョンプ(議政府―京畿道北部の市、訳注)方向に機動する準備を備えるようにした。
米国図書《朝鮮戦争の歴史》は、1950618日米国大統領特使トルレスが、38度線を視察したとき《リ・スンマン軍のほとんど大部分は、すでに実際的に38度線に沿って配置されていた。》と暴露した。(シカゴ大、ブルース・カミングスの二つの著書のことか-訳注)
米帝は南朝鮮かいらい軍を、米国製武器で武装させるために、リ・スンマン(李承晩)逆徒に巨額の《軍事援助》を提供したし、各種武器と戦闘技術機材、艦船、飛行機などを大々的に供給した。
米帝は、共和国北半部に対する武力侵攻を開始して、ここに米軍と追従軍が武力を投入する為の前提条件を予め打算した。それは、南朝鮮米軍事顧問団団長ロバートが、19501月に《北伐計画は決定された問題だ。これを実現するまでは、時間があまり残っていなかった。・・・我々が侵攻を開始するにしても、<正当な理由>を持つ為の前提条件を作らなければならない》と、しゃべったことから明白に露見した。
米帝は朝鮮戦争時、国連の看板の下、米軍と追従軍が軍隊を投入する為の計画を推進させた。国連担当、米国務次官補チョンデイ・ヒカスンの証言によれば、米国務省では《北朝鮮の侵略》を捏造する為の国連決議草案まで戦争前作成して置いた。米帝は、戦争挑発に備えた、軍事基地と施設物などを整える為の策動も、本格的に急がせた。
1946
621日、米陸軍省は、朝鮮を彼等の永遠の海外軍事基地として作ることに対する計画を発表して、南朝鮮を強占、米帝侵略軍武力の大部分を、38度線地域に接近配置したのであり、至るところに攻撃陣地などを無数に設置した。38度線沿いの西部地帯を、主攻撃方向に定めた米帝はイムジンガン(臨津江)南岸とウイジョンプ(議政府)北側の、ケソン(開城)に配置した攻撃陣地などに特別な関心を置いた。
港湾と飛行場、鉄道、主要道路なども整備したし、新しい空軍基地などを建設したり拡張した、その様にして、34年の間に南朝鮮には70余箇所の米軍事基地が設けられた。米帝はこの基地を、どんな時でも自分の思うままに利用することが出来るように、リ・スンマン逆徒と《協約》まで結んだ。
米帝は朝鮮戦争に、日本の軍事基地と軍事力を動員するための準備を、積極推進した。19502月に、追加した海外駐屯米陸軍の維持費402000USj中で、多くの取り分を日本での軍事基地建設に廻した事実は、米帝が朝鮮戦争を前にして、軍事基地建設をどれだけ重視していたかを知る事と為る。朝鮮戦争直前まで、日本には612箇所の軍事基地と施設物が準備されていた。
米帝は以前、日本軍隊の潜在力量を《漁民協会》、《土地開発隊》、《合作農場》などの看板の下で、秘密裏に保存して、19483月《新警察機構に関する法令》をつくり《警察予備隊》、《海上保安隊》、《鉄道警備隊》を組織編制して米国式に武装させ訓練を与えた。
米帝の、朝鮮戦争挑発準備策動で最も特徴的なのは、38度線分界沿線で武装挑発を、絶つ事無く繰り広げたことだ。敵たちは38度線武装挑発を《内戦の為のよい試験台》と、《敵と直接接触することで、実践能力を高める練習》で、《北伐》軍事戦力計画を実現するのに有利な攻撃出発位置を用意する契機になった。その主要目的は、朝鮮戦争挑発の責任を、我が共和国に押し付けることが出来る口実を予め作って置こうとするところにあった。米帝と南朝鮮かいらい軍部が、1947年から戦争挑発直前まで、延べ83800余名の武装人員を動員し5150余次にわたる武装挑発行為を強行したことは、これと関連されていた。
米帝とリ・スンマン逆徒は、戦争挑発日が近つくことに伴って、共和国北半部に対する偵探、破壊暗害作戦のために、いろんな経路を通して数多いスパイ、破壊暗害分子などを我が国に浸透させ、北侵に有利な条件を整えようと策動した。我が共和国に対する偵探資料は、ソウルにあった《朝鮮連絡事務所》に集結されて、それらを通してマッカーサー司令部情報局(米在日占領軍)を経由してワシントンに報告された。
米帝は、1950年初めに朝鮮戦争挑発計画が完成されるや、すぐ、日本軍国主義者達とリ・スンマン売国一党と結託させるための犯罪的策動を拡げた。マッカーサーは、19502月中旬にリ・スンマン逆徒を東京に呼び寄せて、朝鮮戦争挑発と関連した11ヶ条項の特別指示を与えた。
米帝はこの様に、戦争挑発準備を油断無く備えることによって、1950625日、不意の北侵攻撃で、朝鮮侵略戦争を挑発した。米帝の、先の朝鮮戦争挑発犯罪は、絶対に隠すことは出来ない。

                                                         (訳 柴野貞夫)

 
<解説>

朝鮮戦争とは如何なる戦争か。朝鮮民衆と米・李軍との「朝鮮戦争」は、1950625以前に、すでに朝鮮半島全域で始まっていた。「朝鮮戦争」に、38度線は存在しない。
毎年665日は、1950年の朝鮮戦争が開始された日(625−ユギロー)として韓国国民の記憶の中に刻まれている。同じこの日に、軍事的恫喝で諸国の民衆の生活を自国資本家の利益のために犠牲に供しようとして来た、米帝国主義の政策の破綻がアジアの一角で明らかになった。米国の北朝鮮に対する「テロ支援国指定解除」に関する、今後45日以内の議会手続きの開始措置がそれである。この記念すべき日に、アメリカ帝国主義の朝鮮半島における罪行を、『朝鮮戦争』を通して見てみることが必要である。労働新聞のこの記事は時宣のかなった記事である。
世界の帝国主義者どもの、資本主義世界市場の資源と利益をめぐる衝突の、暴力的決着が第2次世界大戦であった。自国の国土が戦場となった欧州や日本と違い、自国の兵士の屍以外何の損害を受けることもなく産業基盤を温存し、戦争経済の中でむしろ肥え太ってきたアメリカ帝国主義は、巨大な軍事力を背景に、自らの手で荒廃させた世界資本主義市場の覇権をめざした。
しかし、戦後世界情勢が、東欧労働者国家の登場による「ソ連社会主義国家圏」の強化と、欧米帝国主義による植民地支配のくびきから、「民族独立闘争」に立ち上がった中国、朝鮮、アジア、アフリカ諸国の民衆の戦いの拡大を生み、更には、反ファシズム抵抗闘争(パルチザン)を戦った欧州労働者の矛先が、自国の資本家政府に向けられたことは、戦後帝国主義世界市場の再編の主導権を目論む米帝国主義にとって許しがたい障害物であった。
彼等は、この「許しがたい障害物」を排除するため、欧州全域と帝国主義敗北諸国(日、独、伊)に軍事基地を構築し、世界を軍事プレゼンスで睨む一方で、新たに「国連」を、帝国主義戦勝国、とりわけアメリカ帝国主義主導の、戦後処理と新たな世界市場の「談合の場」として利用しようとしたのである。
日帝の植民地支配から解放された朝鮮民衆は、19459月のアメリカ軍仁川上陸以前に、全国各地に自主的統治組織や人民委員会を構成し、全国各地から集結した民衆の代表者によって、「朝鮮人民共和国樹立宣布」が行われていた。しかし上陸した米軍は直ちに軍政を引き、それを認めなかった。日本帝国主義の支配から解放されたはずの朝鮮人民を、1945年から48年まで軍制下におき、その後も李承晩軍事独裁統治の後ろ盾として居座り、朝鮮半島全域で、民衆の民族独立の抗争を血真な臭く弾圧した。1950年の中国革命の勝利は、朝鮮を反共の砦とするため、米帝の朝鮮半島に対するファシスト的軍事占領への意思を加速させた。「朝鮮戦争」は、こんな歴史背景の下で、米帝国主義者によって引き起こされたのだ。
朝鮮戦争が『始まった』とされる、1950625日以前に、米帝国主義者とその米軍,李承晩の軍隊と警察組織は、五台山から済州島までの朝鮮民衆との間で、すでに「戦争状態」にあったと言うべきである。チェジュド(済州島)、スンチョン(順天)、ヨス(麗水)、テグ(大邱)等,軍人、農民、労働者、学生の蜂起に対する米軍と李承晩軍の戦争は、38度線を挟んだ『朝鮮戦争』と、何処が異なると言うのだろうか。これに類する無数の事実は、朝鮮戦争の歴史的性格が、38度線を、どちらが先きに越えたかが本質的な問題ではなく、日本帝国主義に変わって極東アジアの覇権を狙った米帝国主義者に対する、朝鮮半島全域での民族の独立と統一を求める朝鮮民衆のたたかいに、その本質があると規定できる。米国は朝鮮戦争において、国連を最大限に利用した。朝鮮半島における米国とその同盟軍の虐殺者達は、『国連軍』を名乗った。その後おなじことが、ベトナム、イラク、アフガニスタンで行われてきた。