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(民衆闘争報道/あわや「沖縄が消滅」〜その危機は現在もなお〜NHK放映「沖縄と核」 2017年10月18日付


      
の島 沖縄の現実」−スクープ・ドキュメント 「沖縄と

                                           奈良−沖縄連帯委員会/崎浜盛喜

  2017年9月10日、NHKスクープ・ドキュメント「沖縄と核」が放映された。私自身驚愕と憤怒のあまり涙が止まらなかった。
 1960年代米軍の統治下にあった沖縄は世界最大級の核拠点基地となっていた。そして、那覇基地で核ミサイルが誤射され沖縄が消滅する危険が発生していたのだ。その真相についてNHKの記者達が当時の米兵の証言を中心に明らかにした。 「沖縄には大量の核兵器がありました」「全世界を破壊できる規模です」

 「沖縄の核」の真相について、ビデオを解析して皆様に訴えたい。

▲東京新聞(2017年9月13日付)

<核兵器を伊江島に配備>

  1953年、沖縄の伊江島に核兵器が配備された。米軍は、目的を明らかにすることなく、わずかな補償金で住民の立ち退きを強制した。拒否した住民の家をブルドーザーで破壊し、畑はガソリンで焼き払った。伊江島での爆撃場の記録によると、「伊江島に新たな爆撃場を造ることに決定した」「ここでLABS(低高度爆撃法)の訓練を行う」。(核爆弾投下の低空飛行訓練の映像・・・ソビエトのレーダーをかいくぐり低空で侵入、上昇して核爆弾を投下する訓練)

<沖縄の核基地を強化>

  アイゼンハワー大統領(1953〜1961年)が米国の核戦略の大転換を行う。
「極東の空軍能力を増強せよ」
「緊急時の使用に備えて核兵器を沖縄に配備する」
 1953年、ソビエトが初めて水爆実験に成功したと発表。朝鮮戦争後急速に米対中ソの対立が激化し冷戦時代となる。米国は、朝鮮半島と台湾に近い沖縄を核戦力の拠点とする核戦略に大転換を行う。

<核戦力強化のために在日海兵隊が沖縄に移駐>

* 我々は、今まで日本に於ける反基地闘争の鎮静化のために在日海兵隊を沖縄に移駐させたと考えていたが、そこには核兵器をめぐる陰謀があったのだ。

核がもたらした基地拡大(字幕)
 1950年代末沖縄に移転してきた海兵隊は、主として上陸作戦の部隊といわれている。現在の沖縄米軍の約7割を占めているが、今回の取材で沖縄に来た海兵隊の背景に核兵器の存在があることが明らかになった。
 (1955年の海兵隊の内部文書)〜「核兵器の急速な進歩に我々も対応しなければなら  ない。これからは核兵器で武装し敵の攻撃から身を守るのだ」
 当時海兵隊は山梨や岐阜など本土に駐留していた。(海兵隊、富士演習場の訓練の映像)海兵隊は本土に核ロケット砲ホネストジョンを配備することを計画した(1955年)。しかしその直前のビキニ環礁水爆実験(1954年)で、日本の漁船が被爆したために日本国民の間に強い反核感情が拡がる。そのために、海兵隊は本土での核兵器配備を諦めざるを得なくなった。(原爆反対の激しいデモの映像)

* その標的となったのが沖縄だ。
 海兵隊は米国の統治下にあった沖縄に着目し、1950年代末沖縄本島北部に新たな基地を確保した。そのため沖縄の米軍基地面積は一気に倍増し、本島の4分の1を占めるまでになった。 海兵隊は沖縄でホネストジョン核弾頭を搭載した核兵器の発射訓練を繰り返したのだ。(1958年の訓練の映像)

沖縄に駐留していた元海兵隊員 ハリー・ミカリアン氏(78)の証言
「通常の核弾頭では180kmを破壊できます。核弾頭なら1800kmを破壊できる計算でした。沖縄の住民は我々がどんな訓練をやっていたか知らなかったはずです。まして核兵器を持っているとは想像もしなかったでしょう」
(沖縄の人々は何も知らない内に核兵器と隣り合わせの生活を強いられることになる。)


<沖縄ミサイル防衛計画(1958年)>

「沖縄は極東で最も核兵器が集中する拠点。ソビエトの爆撃機が10メガトン(広島原爆の約700倍)の核攻撃を仕掛けてくる」
 その目標とされる嘉手納弾薬庫地区(東京ドーム600個分の広大な基地)を守るために新たにナイキ・ハーキュリーズ(迎撃用ミサイル)基地が8カ所建設された。核によって核を防衛することになった。ところが配備されたばかりのナイキが大惨事につながりかねない事故を起こしたのだ。
「隠蔽された核事故」(字幕)

ナイキ部隊の日報(1959年)〜「兵士一人死亡。原因はナイキの点火」

ナイキ部隊元兵士 ロバート・レプキー氏(81)
「事故が起きたのは訓練の最中」
「突然轟音が鳴り響きました。振り向くとナイキが海に突っ込んでいました。地面には仲間が倒れて死んでいました」
(1959年6月19日、事故は人口が密集する那覇空港の近くで起こります。発射訓練の時、操作を誤ったためにブースターが引火。ナイキは水平に発射され、そのまま海に突っ込んだのです。)
「核弾頭は搭載されていました。その核弾頭の威力は広島に投下された原爆と同じ規模で20キロトンでした」

米軍の内部文書〜「核兵器の事故はアメリカの国際的地位を脅かす。全ての情報は関係者以外極秘とする」
「軍は海に沈んだ核兵器を密かに回収した。核兵器に関する事故であったことは一切知らされることなく、事実は隠されたままとなったのです。」
「事故は全面的に秘密扱いで、一切話すなと命じられていました。核が絡んでいたからです。核爆発が起こっていたら那覇が吹き飛んでいたでしょう。沖縄の人々には事故のことを知る権利があると私は思います。」


<60年安保の核密約〜沖縄の核基地化>

 1960年の安全保障条約改定の時に核兵器に関する取り決めがなされた。「アメリカが日本に核兵器を持ち込む場合には事前に協議しなければならない」=「事前協議制」(日本国民感情に配慮する)
 一方、当時の岸信介首相はアメリカの核抑止力が不可欠だと考えていた。

(条約締結に向けた内部文書)
 将来的に沖縄返還を見据えていた日本政府は、核持ち込みの事前協議に「沖縄を含まない」とした。「沖縄の米軍施設には我々は干与せざる立場を堅持する」立場をとり、沖縄に核兵器を配置することを了解したのだ。
 日米安保成立の結果として日本には核を配置せず沖縄に核を置き、その抑止力に依存する体制が出来上がったのだ。
*何と、この時にも「各密約」が取り交わされたのだ。

<60年代に強力な核兵器を配備>

 この決定を受けて、米国は1960年代に更に強力な核兵器を沖縄に配備する。メースB(射程距離2400km、広島型の約70倍の威力を持つ核ミサイル)「メースBが核兵器ではないか 」との疑惑が沸き起こり、琉球政府の立法院議員団がメースB配備反対を日本政府に訴える。
*日本政府の陰謀によってメースB核配備が決定−沖縄を犠牲に
○小坂外務大臣・・・「沖縄にメースBなどの武器を持ち込まれる際、事前に一々発表されるため論議が起きているが、これを事前に発表しないことはできないか」
○ラスク国務長官が反論・・・「アメリカの手続きとして何らかの発表を行うことは必要と思われる」
○小坂外務大臣・・・「事後に判明する場合には今さら騒いでも仕方がないということで議論は割合に起きない。事前に発表されると何故止めないのかと日本政府が責められる結果となっている。」

メースB配備中止を闘っていた元琉球政府立法院議員 古堅宗吉氏(88) 
 「バカにしている」「何故止めないかと言って日本政府が責められる結果になる、怒りが沸いてくるね。県民を騙して穏やかにやりなさいと言うことでしょう。唯一の被爆国の外務大臣か。」
 1962年沖縄の人々の要求は無視され4つのメースBの発射基地が完成する。アメリカの核拠点として益々強化されていくなか、沖縄が核戦争の瀬戸際に立たされていたことが浮かび上がってきた。

<核戦争・破滅の危機〜「沖縄が終わる」>

 1962年のキューバ危機。ソビエトがアメリカののど元のキューバに核ミサイルを持ち込む計画を策し、核戦争の危機が拡がった。アメリカは核戦争の準備態勢を宣言。DEFCON2(デフコントゥー)を宣言。

メースB部隊元兵士 ロバート・オイネソン氏(74)

「深刻な事態になりました。私たちはメースBの発射準備を行いました。もしDEFCON1(核戦争)になったら、直ちにメースBを発射するのです。」
* メースBは「HOT」−何時でも発射できる体制となっていた。
嘉手納弾薬庫核兵器整備士部隊元兵士 ポール・カーペンター氏(78)
「(プルトニウムを韓国基地に移送した)沖縄から緊急時には日本や韓国に核兵器を移送する拠点になっていた。(中略)私は輸送機の窓の外を眺めながら考えていました。これは本当に核戦争が始まるんだろうと。」
「世界が終わるというより、沖縄が終わるだろうと考えていました。私たちと同じようにソ連も核兵器を持っていましたからアメリカ軍の最重要基地である沖縄を核攻撃しないはずはありません。」
*核戦争の危機は土壇場で回避されました。しかし、沖縄はこの時破滅の瀬戸際にあったのです。キューバ危機後沖縄の核兵器は増加し、1967年には約1300発が存在したのだ。

<沖縄返還の核密約>

* 沖縄の反戦・反基地・復帰闘争に驚愕した日米両政府は1969年11月の佐藤・ニクソン会談において「沖縄返還」に合意した。その時、国民向けには「核兵器の撤去を宣言し約束したが、「核密約」が交わされたことは周知の事実となっている。
「緊急時には再び沖縄に核兵器を持ち込む。嘉手納・那覇・辺野古の核弾薬庫を使用可能な状態に維持しておく」

メルビン・レアード元国防長官 *核密約に深く関わった人物
「日本とアメリカは密約の重要性をお互いに認識していた。(中略)核を沖縄に持ち込まないのなら他の場所を探さなければならない。結局、日本は沖縄を選んだ。それが日本政府の立場だったよ。公にはできないだろうがね。」

<核兵器は、今も沖縄にある>

本土復帰から45年。沖縄には今もアメリカ軍の専用施設の7割が集中したままだ。
○ アメリカ国防総省・・・「沖縄の核の有無については回答しない。」

○ 日本外務省・・・「核密約は現在無効。核兵器の持ち込みに関しては非核三原則を堅持し、いかなる場合にも持ち込みを拒否する。」
*如何にも日本の外務省らしい、厚顔無恥で白々しい回答だ。
(ナレーション)
 本土復帰前沖縄の核兵器の大半が貯蔵されていた嘉手納弾薬庫地区。今でも当時と変わらない規模を維持している。(嘉手納弾薬庫の映像)
 かつて日米の思惑の下核の島とされていた沖縄。抑止力の名の下に、基地は残され、今なお重い負担を背負い続ける現実は変わらぬままです。

(放送内容はここまで)

<あわや「沖縄が消滅」〜その危機は現在もなお>

 以上の放映内容を要約すると、沖縄米軍基地について次のような極めて深刻、危険で驚愕する実態が明らかになったのではないかと考える。
(1)1953年から米国が対共産国対策として沖縄に核兵器を配備した。
(2)日本での核配備計画が困難となったので、日米合意の下に在日海兵隊が核兵器と共に1950年代に沖縄に移駐してきた。
(3)海兵隊が移駐してきたために沖縄本島の米軍基地面積が倍増し、本島の4分の1を占めることとなった。(現在のキャンプ・ハンセン、キャンプ・シュワブ等々)
(4)1959年6月、那覇市において配備されたナイキ・ハーキュリーズの誤射のために、あわや那覇市が消滅するほどの大事故が発生した。米軍は、この深刻且つ重大な事故を隠蔽して沖縄県民に知らせなかった。
(5)1960年の「安保改訂」の時、日米両政府はこの時も「核密約」を交わして沖縄の核基地を決定した。日米両政府の陰謀のために沖縄の絶望的未来が決定した。
(6)キューバ危機を頂点として米ソの核戦争の危機が強まり、「沖縄が終わる」破滅の瀬戸際に立たされた。その時沖縄には1,300発の核兵器が存在していた。沖縄県民には一切知らされなかった。
(7)1972年の「沖縄返還」をめぐる「核密約」。核兵器の配備をめぐって「結局、日本は沖縄を選んだ。それが日本政府の立場だった。」
(8)今なお沖縄には「核兵器が存在する。」

 以上の沖縄の歴史と現状を皆様はどう考えますか。我々琉球(沖縄)人は、あの沖縄戦において沖縄諸島全体が焦土と化し、約15万人もの同胞が日米両軍によって虐殺された。戦後72年にわたる米軍と日本政府による軍事植民地支配によって尊い生命を奪われ、生活を破壊され、人権を蹂躙されてきた。
 もしも次の戦争が起こったならば、沖縄・日本のみならず世界の人々が犠牲になることをくれぐれもお忘れ無く、よくよくお考え下さい。我々琉球(沖縄)人は、世界の人々の幸せを心から祈っています。
(2017年10月18日)

<付記>
大変申し訳ないと思いますが、次の点についてご理解とご了承をお願いします。
(1)( )内はNHKの解説(説明)です。
(2)「です」「ます」調を「である」調に変更しました。
(3)<>は私が見出しを付けました。
(4)*は、私の追加意見です。