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(日本を見る−時事特集/「いつかはあなた自身のことに」2019925日)


 

            いつかはあなた自身のことに

                                古井正代(わたしたちの内なる優生思想を考える会)

内なる優生思想
 半世紀以上前から、私たち障がい者は『おかわいそうに』『役立たずで、お気の毒』という目眼差しで見られ、社会では常に「括弧つき」で扱われる部外者でした。未だに、障がいなんて自分とは関係ないし関わりたくもないと考える人がほとんどで、私達の冊子の表題でもある「いつかはあなたのことに」という意識は、なかなか共有されにくいことのようです。
 先の参議院選挙比例代表で 「れいわ新選組」 から当選した木村さん・舩後さんに向けられた 「利用されている」 という言葉は、その昔は私たちに向けられていたものでした。
 1970年代、私が日本脳性マヒ者協会・青い芝の会の関西連合の代表を(関西青い芝を作って、解散させるまでの間)していたことがありました。その頃は、「養護学校は誰も行きたくない」「地域から切り離された施設は人間が住む所ではない」「そんなに良い所だと言うのなら、あなた方が入ればいい」と言って、さまざまな場面で抗議の直接行動をやったものです。(上の写真/沖縄・辺野古でアピールする古井正代さん)
 その度々に警察・機動隊が飽きもせず何回も出動したような時代でした。彼らは「こんなことを脳性マヒが考えるわけがない、健常者が裏で動かして障害者を利用している」と言いました。だから、私の家や私たちの事務所に家宅捜索をして、裏で私達を操っている健常者を逮捕したかったのが本音でしょう。勿論、事実無根のそんな証拠も出るわけもなく、立件もされず、相手にもされませんでした。半世紀近く経っても、障がい者の人格も人権も無視するような世間の意識は今も変わりません。私が「戦争に向かう社会になれば私たち障がい者の生きる空間は益々なくなる」との思いで、辺野古基地建設反対のビラ撒きをすると、私には直接言わないで周りの健常者に「あんなもんまで利用して汚い」と言う人があとをたちません。障がい者は、上から目線で見下げる存在として「お可愛いそう」で、「大変」で、「お気の毒」のままであって欲しいと願う人びとにとって、私は目障りなのでしょう。


わかったつもり
 すべての人が潜在的に障がい者です。これは、生きとし生けるものとしての真実で、また、長い人生ではまぎれもない現実です。これから目を背けたいと思う心を、昔から、私たちは「内なる優生思想」と呼んできました。
 人間とは弱いものです。たとえ長年、障がい者運動に身を置いて、障がい者問題は解っているはずの人でも、他人事ではなくなるのです。いざとなったら、自分が潜在的に障がい者だという現実を忘れたふるまいをしてしまいます。立派な功績を残したと称えられ、尊敬されている人でも例外ではありません。健全者が中途障がいになると、何もかもが変わるのです。何の準備も、心づもりもなしには乗り切れません。
 70年代からの知り合いは、年を重ねて自身が障害を持ったら、今まで主張していた「どんな障がい者でも地域でいっしょに暮す」を実行することもなく、施設や病院に入れられたまま死をむかえました。障がいを持った自分を人前に晒すことに躊躇があったのでしょう。「健常者だった時が全て」の人生なら健常者に戻れなければ、周囲の判断で勝手に施設や病院をたらい回しにさせられるのも仕方がありません。障がいと共に生きた事実を覆い隠すかのように、亡くなってからも「健常者だった時」の功績ばかりが称賛されるのです。総理大臣だった田中角栄のように。
 しかし、「障がい者になったらおしまい」これは「障がい者としての人生は無意味だ」と言うことです。極論すると「障がい者はいらない」と言ったのと同じ事だと思うのです。障がい者に関わる活動をしてきた人も、そうでない人も、障がい者になってからの生き様でそれまで言っていたことが貫けたのか、目を背けずきちんと直視したいものです。それは、亡くなった人の額に唾するような、卑劣な行為とは全く別次元の問題です。なぜなら、先人が踏んだ轍から学べなければ、早晩自分も同じ道を辿ることになるのですから。


老いては障がい者に学べ
 
私は障がい児だと解った時、母親の「内なる優生思想」によって殺されかけました。その母親が70歳になった時に交通事故とがんで寝たきりの障がい者になったのです。こういう時こそ私たちの生き様を教育する時です。
 私は母を引き取り「役立たず」で「お気の毒」のマイナスのイメージから解放しました。電動車椅子の乗り方やヘルパーへのやり取りをコーチしました。買い物に行って好きなものを選びお金を払うことで、障がい者として生きる自信を持たせました。病院へもひとりで通院するように長時間かけて教育しました。母は電動車椅子で地下鉄やバスに乗って花見、花火大会、天神祭を楽しみました。可愛がっていた孫娘の卒業式に、飛行機に乗ってアメリカまで行きました。私といっしょに色んな所に出かけ、障害者としての第2の人生を亡くなるまでエンジョイしました。
 健常者が年を重ねて障がい者になったら、「別の人生がこれから始まる」「障がい者としての生き方が初心者から出来る」と、ウキウキワクワクできる社会は実現不能な絵空事ではありません。今のままでは、あなたが障がいを持つことになったら、私たち障がい者と同じように人格や人権が無くなるのです。いつまでも、健常者の時のイメージを引きずっている様では、「内なる優生思想」から脱却出来ません。母のように、健常者もいつか障がい者になる可能性、いや必然性があるのです。
 だからこそ、私たち障がい者の堂々とした生き様を身近に見てもらって、自他ともに健常者だと思いこんでいる人びとの将来の不安を照らす一筋の光に・・・と願いつつ、私は今日も街中を出歩きながら、人々の視線のシャワーを浴び、目立って暮らし続けています。


理不尽への挑戦を楽しむ姿勢
どんな人も生きられる社会を目指すには、いらない命、捨てられる命はないということを、今回国会議員になった(舩後さん41歳で障がい者としての人生を初めることになる)から学べます。舩後さんは、41歳まで自身が障がいを持って生きることになるとは1秒たりとも思ってもいなかったでしょう。
 その彼が障がい者の代表として国会に行くまでの20年間を想像してみてください。彼は業績の良い企業戦士として、人に敬えられることはあったでしょうけど、意味もなく人権を無視されたり、上から目線で気の毒がられ、同情の渦の中にいたことなどなかったと思います。健常者としては順風満帆の人生を歩んでいたことでしょう。
 しかし、今は彼の動く所は目と口の中の噛みしめる所の筋肉しか動かないそうです。その彼が今や障がい者の代表として国会議員になっているということは、障がい者としての人生の今を目いっぱい生きようとしています。何しろ、健常者だった時の彼より、障がい者で国会議員になった彼の方が世界初の人工呼吸器を装着した議員として注目を浴びているのは間違いないのですから。
 彼を紹介する時に「難病」と言う人が多いようです。しかし、確かにALS は国が難病指定した「難病」です。それも進行性ですから、当然のことながら「病気が治って」、彼が健常者になることはありません。その意味で立派な障がい者です。優生思想が浸透している、この社会で優秀な存在だった彼だからこそ、私達と同じように人格も人権もない扱いをされた時、人格・人権を奪われた怒りは、想像以上だったでしょう。そこで、人々は諦め障がい者になった自分を憐れむのです。
 
そこを通過した彼は、今もその怒りが持続しているのです。しかも、障がいを持った自身を悲観して後ろ向きになるのではなく、彼はギターを演奏してバンドも持って障がい者の自分をエンジョイしてきたのです。舩後さんのこのような姿勢には、この国を明るく照らす光源となる素晴らしいポテンシャルを感じます。