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民衆闘争報道/いま考えよう、万人平等と天皇制―天皇制廃止に向けての第一歩 20191023日)


       《田中利幸(歴史家)の札幌講演録》
      いま考えよう、万人平等と天皇制 ―天皇制廃止に向けての第一歩


この講演は、2019 年 8 月 10 日、札幌エルプラザにて開催された<いま考えよう、万人平等と天皇制/田中利幸講演会>(主催:田中利幸さん講演会実行委員会)第一部の田中利幸さんによる講演の採録です。

【講演要旨】
象徴には権力がないように見えますがじつは権威という権力が備わっていて、これを、安倍晋三のようなペテン師政治家は、 トコトン天皇の象徴権威を自分の政治目的達成のために利用しようとしています。
重大な戦争犯罪行為とその責任を隠蔽したまま、国民を国家権力に従属させるために、国家と国民統合の象徴として今も、強力な 影響力=象徴権威を発揮し続けている天皇/天皇制をなんとしても打破しなければなりません。

はじめに
講演を始める前に、大和民族による長年にわたる抑圧に抗して自分たちの重厚で秀れた思想・文化の保存・伝承維持に努力されてきたアイヌ民族の歴世の人々と、今もなお その闘いを続けておられる方々に深い敬意を表しつつ、知里幸恵の編訳によるアイヌの 詩の一編を朗読させていただきます。


トワトワト

ある日に海辺へ食物を拾いに
出かけました。
石の中ちゃらちゃら
木片の中ちゃらちゃら
行きながら自分の行手を見たところが
海辺にクジラが寄り上って
人間たちがみんな盛装して
海幸をば喜び舞い海幸をば喜び躍り肉を切る者運ぶ者が
行き交って重立った人たちは海幸をば謝し拝む者
刀をとぐ者など浜一ぱいに黒く見えます。
私はそれを見ると大層喜びました。
「ああ早くあそこへ着いて
少しでもいいから貰いたいものだ」と思って
「ばんざーい!ばんざーい」と叫びながら
石の中ちゃらちゃら
木片の中ちゃらちゃら
行って行って近くへ行って見ましたら
ちっとも思いがけなかったのに
鯨が上がったのだとばかり思ったのは
浜辺に犬どもの便所があって
大きな糞の山があります、
それを鯨だと私は思ったのでありました。
人間たちが海幸をば喜んで躍り海幸をば喜び舞い
肉を切ったり運んだりしているのだと
私が思ったのはからすどもが
糞をつっつき糞を散らし散らし
その方へ飛びこの方へ飛びしているのでした。
私は腹が立ちました。
「眼の曇ったつまらない奴
眼の曇った悪い奴
尻尾の下の臭い奴
尻尾の下の腐った奴
お尻からやにの出る奴
お尻から汚い水の出る奴
なんという物の見方をしたのだろう。」
知里幸恵編訳『アイヌ神謡集』(岩波文庫) 狐が自ら歌った謡「トワトワト」より

一見きわめて秀美に見える私たちの周りのいろいろなことが、よく観察してみると 実は汚物のような腐敗したものであることを悟ることの重要性を、この作品は詩という 象徴表現で深く抉りだし、描いています。今の安倍政権の醜悪な実態、さらには天皇制 の虚妄の実態を見誤らないよう、私たちも「眼の曇ったつまらない奴」の一人にならな いように気をつけたいものです。
さて、今回の天皇代替わりでは、国民を巻き込みながら何の説明もされていないこと がいくつか明らかになりました。5月の代替わりの前の4月に天皇明仁が退位の報告のため伊勢神宮にお参りに行きます。三種の神器の鏡・剣・勾玉のうちの二つ、剣と勾玉 を持っていく、どういうわけか鏡は置いていく。この二つは天皇の神道的な儀式のとき には必ず持っていくことになっているようで、なぜ鏡は置いていくのかよくわかりませ ん。しかも東京から発つ新幹線では美智子も一緒ですが、天皇は一人で伊勢神宮に入る。 女性は入ってはいけない、美智子はあとから別の車で行くことになります。
この夜、伊勢神宮の地域の住民は、「伊勢に寄り添ってくれた」と天皇夫妻に感謝の提灯行列をします。最近、天皇が各地に慰問に行くようになってからこの「寄り添う」 という言葉が大はやりです。寄り添う天皇を賛美するような報道があふれる一方で、こ の三種の神器を新しく天皇になった徳仁が受け入れる「承継の儀」となります。皇室の神道儀式には女性の参列は認められない。
その後「朝見の儀」となりますが、裕仁から明仁への代替わりでは閣僚のなかに女性は一人もいなかった。しかし今回は閣僚に女性 が一人いるので、男女平等、基本的人権とされていますから、女性だから出席させないというのはまずい。結局、代替わりの儀式には閣僚全員が参列することになりました。
 ところが、女性皇族は参加させない。天皇は「国民統合の象徴」、国民の半分は女性ですよ。その象徴である天皇が平気で女性差別の儀式をやっている。 これを誰も何も言わない、こんな不思議なことがニュースでまったく一言も説明がないのです。
ここが日本人の精神が麻痺しているところだと思います。どうしてこんなこ とになって来たのか、私たちはこれからどうしたらいいのか、これを探ってみたいと思 います。 この原因はどこにあるのか。戦争が終わったときのその終わり方にあるというのが私 の見方です。戦争がどういうかたちで終わり、とりわけ天皇裕仁がなぜ象徴天皇になっ て天皇の立場を維持することになったのか、そこを考えてみたいと思っているのです。


1)「原爆正当化」と天皇免罪・免責の共同謀議
まず原爆正当化、原爆投下は正しかったという考え方がどこから来ているのか。この プロセスを見ていくためには二人の人物の日記が手掛かりになります。
アメリカの陸軍長官スチムソンは非常に几帳面な人で日記を毎日欠かさずきちんと書いています。とりわけトルーマンと会った話、原爆をどのように使うか、ポツダム宣言に際して天皇制の扱いをどうするかなどが、詳しく書いてあります。一方、日本側に は木戸幸一という内大臣がいました。木戸幸一は、裕仁ともっとも親しくしていたアド バイザーかつ几帳面な人で、「木戸幸一日記」というのを遺しています。毎日誰と会っ たか、裕仁とどういう話をしたか、非常に詳しく書いています。 ですからこの木戸幸一とスチムソンの日記を照らし合わせれば、どのように戦争を終結させたのかが明瞭に浮かび上がってくるのです。
日本側は、原爆攻撃を招いてしまった責任―招爆責任があります。とりわけ国体護持、 天皇裕仁が天皇制護持に拘わり降伏するのを先延ばしした。例えば、最初は硫黄島で敵 に相当のダメージを与えてから戦争終結の交渉に入ると考えるが、それでもだめ。こんどは台湾に上陸してくると考え台湾に兵を送る、ところが台湾には上陸して来なかった。 だから今度は沖縄だと、沖縄になるべく長く引き留めておいて、日本に上陸する前に打 撃を与え、そこで終戦の交渉に入るという考えでした。一番考えられたのは日本に上陸させないで沖縄で打撃を与えて終結させるというシナリオだったのです。
そのように降伏を先に延ばし伸ばししてきたために、広島・長崎の原爆攻撃を招いてしまったのが歴史の事実です。だから裕仁率いる日本側に爆撃を招いた責任があるとい う、これが招爆責任の意味です。(ちなみに、「招爆責任」という言葉は私のことばではなく、長崎大学名誉教授バートランド・ラッセル研究者の岩松繁俊さんが出版された『戦争責任と核廃絶』(三一書房、1998 年)で使われているものです。)
じつは米国側にも、日本側が招爆するような責任を起こさせ、原爆が完成しアメリカ が使えるようになるまで、なるべく降伏するのを遅らせ降伏させないことをアメリカ側 が画策した事実がある。ですから、アメリカ側には招爆画策責任があるというのが私の見方です。
これは、ソ連が日本に戦争を仕掛けないようにする画策と併行します。ソ連が対日戦を始めてしまったらこんどはソ連軍が日本に入ってくる、ドイツみたいに分断 されたら困る、共産主義の影響が日本にもろに入ってくる、これを避けたい。だから日 本側になるべく原爆が完成する直後まで降伏させない、それと同時にソビエトにも戦争 に参加させない、これをトルーマン政権は画策し実行した。そしてその通りになってし まった。
かくして、原爆無差別大量虐殺の責任は、米国の「招爆画策責任」と日本の「「招 爆責任」の複合責任に求められるのです。
問題は、戦後、日米両国双方が神話でその責任を隠蔽してしまったことにあります。 日本側は、裕仁は平和主義者であったという神話を作り上げ、それだけではなく原爆が あったために降伏したという神話、これも嘘です。じつは、ソ連が対日参戦に踏み切った、これが日本にとっては非常に怖いわけで、事実はこれでポツダム宣言受諾を決定したわけです。 一方、アメリカ側は原爆がなかったら戦争は終わらなかったという神話をつくりあげ た。じっさいには原爆を使わなくとも日本はすでに降伏したいという交渉に入っていた。
スターリンやスイスを通じていろんな方法でアメリカ側に打診していたのです。だから アメリカ側は原爆を使わなくともすでに日本は降伏するということが分かっていた。し かしそれをさせなかった。あとではそれを隠さなければならない、だから原爆を使わなければ降伏させられなかったという神話をつくりあげた。
こうして日本側もアメリカ側 も、双方が神話をつくりあげたわけです。 日本側は原爆投下で降伏したのではないという証拠があるのか、とよく言われます。 じつは、はっきりした証拠があります。ポツダム宣言受諾には、原爆という恐ろしい爆 弾が出来たのでこのまま戦争を続けていると人類が破滅する、だから私は(裕仁は)降伏することに決めたのだ、と述べている。ところがこれはまったくの嘘です。
8 14 日に最後の御前会議が開かれます。この御前会議ではひとつも原爆の話は出てきません。 8 6 日の午後には広島が壊滅的な被害を受けたという報告は来ています。その時も陸海軍のトップによる戦争指導者会議がなされていますが、原爆の話はまったく出ていま せん。9 日の朝も戦争指導者会議をやっていて、途中で長崎が原爆攻撃を受けたという 報告が入ってきます。そのときも戦争指導者会議ではほとんど議論していません。もっぱら議論していたことは何かというと、どうしたら国体を護持したまま降伏できるか、この議論ばかりです。どうしたら天皇制国体護持をアメリカに受け入れさせることがで きるか、この議論ばっかりやっているのです。原爆の話は出てこない。御前会議でもまったく出てきていません。
ソ連対日参戦の翌日10 日の御前会議で裕仁が「皇室存続の 絶対条件」である外相案を支持し、14 日最後の御前会議でも「国体については敵も認 めておる、不安なし」と語って、裕仁からは原爆の「げ」の字も出てきません。 当時の内閣書記官長であった迫水久常が、天皇のポツダム宣言受諾の草案を書けと言 われる。迫水は御前会議で記録した内容に沿って書くわけですから、ポツダム宣言受諾 の第一草案には、原爆のために受諾しますとは一言も書いていない。ヨーロッパではたいへんな戦争になった、だからアジアでも平和をもたらさなければならない、という戦 争終結の内容になっていた。
ところが迫水は第二草案を二人の学者に見せます。一人は川田瑞穂という早稲田大学 の漢学者、もう一人は安岡正篤という陽明学者、この二人が第二草案に「原爆のために われわれは戦争を終わらせる」というメッセージを入れてしまった。二人のどちらかは分かりませんが、どちらかの学者がそれを入れたわけです。まったく裕仁が考えていな かったことを入れてしまった、都合がいいからですよ。
全部原爆のせいにしちゃう、こんなひどいことになったからわれわれは戦争をやめると、とても都合のいい口実に使ったわけです。それを今までずっとみんなが信じてきた。アメリカの国民も原爆がなかったら戦争を終えることはできなかったといまも信じているわけです。
裕仁が一番怖がっていたことは、ソ連軍の対日参戦です。ソ連軍が入ってきて共産主 義の影響を受けたらツァーリズムのロマノフ王朝が崩壊したときのニコライ2世のように、家族もろとも天皇家は殺される。ロシアの皇帝が殺されてから 30 年ぐらいしか 経っていない時期です、スターリン政権が入ってきて裁判にかけられたら裕仁だけでなく家族全員が殺されてしまう、現実問題だったのです。
たいへんなことだったのですが、それを隠してしまった。ソ連軍の対日参戦について、ポツダム宣言受諾には一言も入っていません。 つまり日米双方が、それぞれの思惑に沿って、原爆が持つ強大な破壊力、殺傷力の魔力を政治的に利用し、その双方の政治的利用方法を互いに暗黙のうちに受け入れて、「ポ ツダム宣言受諾」となったわけです。
したがって、「戦後」という時代は、「原爆」を政治的に利用することで、互いの重大な戦争責任の放棄を相互に了解しあうことを出発点 にしていたことになります。  かくして、戦争犯罪とその責任の隠蔽の相互了解という「日米共同謀議」は、戦後の 日米両国の「民主主義」を深く歪める重大な要因となったのであり、そしてそれはいま もそれぞれの国の「民主主義」を強く歪め続けています。したがって、「戦争責任問題」 は決して過去のことではなく、いま現在の我々の生活にもろに影響している決定的な政治社会要因であることを忘れてはなりません。
私たちは、「忘却というものは、いともたやすく忘却された出来事の正当化と手を結ぶ」というテオドール・アドルノの言葉を肝に銘ずる必要があります。この「出来事」 には、自国・日本の出来事はもちろん、他国(米国)の出来事も含まれていることも忘れてはならないと思います。

2)天皇裕仁の免罪免責を目的とした憲法第一章と二章9条の設定
戦争が終わるや、天皇裕仁を「戦争犯罪/戦争責任」問題から引き離し、彼をなるべく無傷のままにしながら、「天皇制」を脱政治化しながらも温存、維持していくことが、 日本の占領政策を円滑にすすめていくために必要でした。とりわけ、急速に高揚しつつ あった共産主義活動とその思想浸透を押さえ込んでいくためには絶対に必要である、と いうのが占領軍司令官の考えであり、同時に米国政府の一貫した基本政策でもあったのです。
戦争が終わって憲法改正を前にしたマッカーサーは、天皇問題で2つの極めて憂慮すべき事態に直面していました。  一つは、1946年5月に開廷される予定となっていた極東国際軍事裁判(いわゆる 「東京裁判」)で、オーストラリアが裕仁の訴追を強く要望していたことです。オーストラリアは、太平洋戦争で、日本軍に捕虜となった豪州軍将兵に多くの犠牲者を出した。豪州兵の捕虜数は2万2千名近くで、そのうちの7千4百名以上が捕虜として死亡。その死亡率34.1パーセント(3人に1人という割合)。
そのうえ、日本と同じ太平洋地域に位置するオーストラリアは、日露戦争時代から日本を脅威と感じてきた し、この際、日本軍国主義を徹底的に打ち砕いておくべきであると考えていた。そのためには日本軍戦犯全員をもれなく裁判にかける必要があるし、侵略戦争の決定に裁可を 与えた裕仁の起訴は、その中でもとくに象徴的な意味をもつ重要なケースであるという 認識であったのです。 すなわち、天皇裕仁が安泰である限り日本人は本質的には変わらないのであり、日本の旧政治社会体制を徹底的に解体するには裕仁を有罪にしなければならない、というの がオーストラリア政府の信念でした。
こうした政策から、1946 1 22 日には、裕仁の名前を加えた戦犯候補者リストを連合国戦争犯罪委員会に提出していたのです。じつ は、オーストラリアは、前年 10 月にも同じリストを連合国戦争犯罪委員会に提出し、 採択するように迫っていました。
マッカーサーがもう一つ懸念していたのは、前年 1945 12 月に、米英ソ三国のモス クワ外相会議で、日本占領の最高政策決定機関として、新たに「極東委員会」なるものを設置し、46 2 26 日にワシントンで正式発足することが決定されていたことでありました。この極東委員会の構成国は、米国、英国、ソ連、中国、フランス、オランダ、 カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの連合諸国の上に、インドとフィリピン を加えた 11 カ国、すなわち、東京裁判の構成国と全く同じであったのです。これらの構成国の中では、オーストラリアだけではなく、ソ連、ニュージーランド、カナダ、オランダも、戦争犯罪で裕仁を起訴する考えを持っていた。しかも、同委員会の権限には、 戦犯裁判の政策決定や、「憲政機構の根本的変更」、つまり憲法改正案の作成なども含まれていたのです。 
したがって、この極東委員会が戦犯裁判政策や憲法改正案作成に関する議論を具体的 に開始する前に、裕仁の「不起訴=免罪・免責」と「新憲法による天皇制維持」の両方を、占領軍司令官としていまだ絶対的な権限を有している自分の手で確定してしまって おくことが、マッカーサーにとっては急務だったのです。この確定に失敗すれば、天皇制廃止が極東委員会によって要求される可能性はひじょうに高いと、彼が恐れたことは 間違いありません。
そのためには、天皇裕仁が本来は「平和主義者」であるということを強く表明し、同時に、将来その天皇の権限が政治家や軍指導層に政治利用されるよう な可能性を完全に除去しておく必要がある、と彼は考えていたのです。その決定的手段として、連合諸国が驚嘆するに違いない「戦争放棄条項」を新憲法に 盛り込むことがひじょうに有効であることを、彼は 1946 1 24 日の幣原首相との会 談で突然思いついたと考えられます。幣原は、「戦争を世界中がしなくなる様になるに は、戦争を放棄するということ以外にはない」という理想論をこの階段で述べたのです が、この「戦争放棄」というアイデアを新憲法に取り入れれば、後日、極東委員会も裕仁不起訴と天皇制維持を追認せざるをえないであろう、とマッカーサーは考えたのでし ょう。
しかしながら、幣原内閣(松本烝治・国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会)は明治憲法の修正をなるべく最低限にとどめ、天皇の統治権もできるだけそのまま維持するという方針で憲法改正作業を進めようとしていました。  ついでに言いますと、憲法9条は誰が提案したということで、よく言われるのは 1 24 日幣原喜重郎がマッカーサーと初めて会うのですが、そこで幣原が提案したと言われています。しかし、これは事実とは全く違っています。実際にこの会談で幣原が述べたのは、 裕仁が平和主義者であることを強調し、天皇制をぜひとも維持してほしいという要求であった のです。
これに対し、マッカーサーも「占領するにあたり一発の銃声もなく一滴の血も流さず進 駐出来たのは全く日本の天皇の力による事が大きいと探く感じているので天皇を尊敬し又日本にとつて天皇は必要な方だと思うから、天皇制を維持させる事に協力し又そのように努力したいと思っている」と応えています。これに続いて幣原は、上に述べたように、戦争放棄のアイ デアを理想論として述べたところ、マッカーサーがいたく感激したため、「世界の信用をなくして しまった日本にとって戦争はしないという様な事をハッキリと世界に声明する事、只それだけが 敗戦国日本を信用してもらえる唯一の堂々と言える事ではないだろうか」などと述べたとのこと。 このように、幣原はこの会談では、具体的な憲法条項としての戦争放棄案を一言も述べてはい ないのです。マッカーサーがこの幣原の発言から、突然、戦争放棄の憲法条項案を思いついたというのが真相です。
よって、憲法9条は「裕仁救済=天皇制維持」を目的に、日米両国による共同謀議的な意図から作られたというのが真相なのです。  しかもマッカーサーはずっと戦争をやってきた戦争の専門家で、おまけに米軍をずっと指導してきた人物です。その彼が、本気で「それはグッド・アイデアだ、それじゃ戦 争止めよう」と言うでしょうか。信じがたい話です。のちに、朝鮮戦争では核兵器の使用まで主張した人物です。だから何か理由があって憲法9条案を考えたわけです。
先ほども言ったように、天皇制を廃止せよというのは、オーストラリアだけでなく、 ニュージーランド、オランダ、カナダ、そしてソビエト、これらの国は天皇制反対、天皇制を廃止するという主張をしてくる。それにどう対処するか、これがマッカーサーに とっては非常に大きな問題だった。
なぜなら、アメリカ側は戦争が終わる前から天皇制を維持してそれを占領政策の柱に使う、とりわけ共産主義の思想が入ってくるのを防ぐ ためにはどうしても天皇の力が必要だ、これをどうしても使いたい、だから裕仁を生か しておいて使うという政策を前から決めていましたから、マッカーサーにとってはそのためにはどうするかというのが非常に大きな問題であったのです。
ですから、極東委員会が戦犯裁判の政策決定や憲法改正の作成案などの議論を始める 前に、どうしても裕仁の不起訴=免罪・免責、それから新憲法による天皇制維持の両方を、マッカーサーがまだ占領軍司令官として絶対的権力をもっている間に確定してしまうということが必要だったわけです。
これに対し、マッカーサーは、憲法改正作業をこのまま日本政府にまかせておくなら ば、憲法改正案自体もとうてい受け入れられるようなものにはならないし、極東委員会発足の 2 26 日までに間に合わなくなると焦った。しかも、3月に入ると東京裁判開 廷準備が本格的に動き出し、被告人の最終選定も始まる。
そこで、彼はGHQで憲法草 案を急遽起草することを2月3日になって決定し、憲法改正にとって最も重要な原則と しての三原則なるものを作成して、GHQの憲法草案起草責任者に指名した民政局長コートニー・ホイットニー准将に手渡した。これが、「マッカーサー憲法三原則」と呼ばれるもので、下記はその全文です。

. 天皇は国家の元首の地位にある。皇位は世襲される。天皇の職務および権能は、 憲法に基づき行使され、憲法に表明された国民の基本的意思に応えるものとする。
. 国家の主権的権利の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段 としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。 日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸 海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。
. 日本の封建制度は廃止される。貴族の権利は、皇族を除き、現在生存する者一代 以上には及ばない。華族の地位は、今後どのような国民的または市民的な政治権力を 伴うものでもない。予算の型は、イギリスの制度に倣うこと。
 

このマッカーサー3原則のうちの第2原則が、言うまでもなく日本国憲法の9条の オリジナル版です。ここでは自衛目的のための戦争発動の権利すら否定されているのです。 ホイットニーは、民政局のスタッフを動員して憲法草案をつくらせます。その当時の 民政局のスタッフはみな理想に燃えた若い人たちです。その多くは弁護士、法律家で、そのなかには女性の人権を導入したベアテ・シロタ・ゴードンさんも入っていますね。 ですからすばらしい草案が出来たのです。
2 13 日にホイットニーは、松本烝治委員長、吉田茂外相、英語がうまく日米の橋渡しをした白洲次郎と会談。ホイットニーは開 口一番、「日本側の草案はとても受け入れられるような内容ではないので、こちらで草案を作成した」と述べて「マッカーサー草案」を提示、同時に、「裕仁を戦犯容疑で取り調べるべきだという要求が他国からあり、この圧力がますます強くなっているがマッ カーサー元帥は天皇を守ろうという固い決意である」と、彼は伝えている。
「マッカーサー草案が受け入れられるならば、裕仁の安泰は確保される」とも言ったわけです。 つまりここでは交換です。憲法 9 条と憲法第一章を受け入れれば、われわれは裕仁訴追を避けるために全力を尽くす、と言っているわけです。交換ですよ、このように、憲法草案は最初から政治的に組み合わされたワン セットとして考案されたものであることがアメリカ側から明らかにされたわけです。
 もちろん 9 条はすばらしい、前文もすばらしいものです。これは民政局の若いスタッ フたちが世界中の憲章とか声明文などをいろいろ研究して作り上げたものです。すばら しい文章であることは間違いない。ところがセットアップしたやり方自体、天皇裕仁を 免責・免罪するためにつくったというそのプロセスが問題だと、私は言っているわけです。 なぜかというと、憲法第一章 1 条から 8 条と第二章 9 条が裕仁の戦争犯罪と戦争責任 を帳消しにするために設定された、この事実ですね。一国の憲法がその国家の元首の個 人的な戦争犯罪の責任の免罪・免責を意図して制定された、第一章で規定された国家元 首の本来は問われるべき戦争犯罪責任を第二章 9 条で隠蔽してしまった、このようなかたちで制定されてしまった憲法は人類史上、また各国現行憲法のなかでも、世界のどこ にもない。こんなめちゃくちゃな憲法の作り方ってありませんよ。なぜこのことをこれまで指摘する人が誰もいなかったのか私は不思議でしょうがないです。
だから、絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪、戦争責任の免責の上に制定された民主憲法 というのは、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか。このことが、ほんとうは問 われなければならない、そこをずっと問うてこなかった。そこが問題だと私は思うので す。


3)憲法前文および9条と第一章の根本的矛盾
みなさんだいたい憲法9条ばかりを持ち上げていますが、じつは憲法の前文を問題にしなければならない。9条の絶対的な非戦・非武装主義は、じつは憲法前文で展開されているわけで、私は憲法前文と9条はセットで議論しなければならいと考えています。 憲法前文の第1パラグラフは、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し」、この新しい憲法を制定するのだと主張している。
したが って、戦争放棄を唱える憲法9条も、15年という長期にわたる日本人の戦争体験からの 反省と戦争責任の深い認識を基本的な理念としていることは明らかです。つまり、9条の絶対的な非戦・非武装主義は、憲法前文で展開されている憲法の普遍思想と密接に絡 み合っているのであって、したがって、9条は前文と常にセットで議論されなくてはならない。その点で、とりわけ、前文の以下の第2、第3パラグラフ部分が重要だと思います。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深 く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧 迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免 かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。 われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはなら ないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うこと は、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信 ずる。
日本は、平和を維持するどころか破壊し、専制と隷従、圧迫と偏狭を自国民だけでなくアジアにまで拡大したのが天皇制です。ですからそれに反省してこういう憲法を つくるんだと強調しているわけです。とくに、この第二パラグラフは日本のことだけで なく世界的な普遍的原理について語っている。
一国の憲法でまず前文で世界的原則を述べている憲法はあまりありません。非常に日本独特のものです。小田実はこれを捉えて 「この憲法前文は世界平和宣言である」とまで言っている。確かにそうです。本当は、 世界中がこれを重要視しなければならない。 ところが当時の日本の政府は、この草案を見たときに前文をすべて削りました。こんなものわれわれに関係ないと全部削ってしまった。それでGHQ側は「お前たち何をするか」と怒って差し戻させるのです。文章表現をもっと易しく書き直しても良いが、内容は絶対に変えてはならないと、日本側に差し戻させたのです。
ぜそこまでGHQ側 は固執したのでしょうか。これは私の考えですが、この前文で連合軍側の諸国を驚かしたい、これで感激させてしまいたい、裕仁がこの憲法を出すことによって世界に平和を アピールしたいと言っている、それで彼を平和主義者として打ち出す、だからこの前文 を削るなんてまったくけしからんと言って戻させたわけです。 その意味では、一国の憲法前文でありながら、普遍的、世界的な平和社会構築への展望まで展開しているという点で極めて特異な前文と言えます。
法9条が前文と常にセットで議論されなくてはならないと先に述べたのは、このように9条と前文が密接に絡み合って一体化しているからに他ならないからです。つまり、9条と前文は、一体となって、「あらゆる戦争の非合法化」に向けての展望をすら内包しているとも言えるものです。逆に言えば、憲法9条と憲法前文を分離させるならば、平和構築に向けてのこう した複合的アプローチの見取り図と展望が失われてしまうことになるでしょう。
問題は、天皇の第一章とこの前文との、ものすごい矛盾です。天皇の条項はすべて国家原理で出来ているのに対して、9条と前文は普遍原理で出来ている。まったく合わない、合うはずがないものを無理して入れたわけです。しかも天皇の戦争犯罪をすべて帳消しにしてそこに入れたわけです。ですから前文の第 1 パラグラフでは国民主権、第 2 パラグラフでは恒久平和、平和的生存権の原理を言っているわけですが、第一章については前文で何の説明もない。ふつうなら憲法原則がどのようなものであるのかを説明しなければならない、ところが憲法第一章については前文で何の説明もない、こんなおかしな話はない。
なぜか。第一章の原則の説明のしようがないわけです。まったく平和主義者ではない天皇を持ってきたわけですから、憲法前文で説明のしようがない。だから 説明しないでおいた。説明しないでいかに矛盾があるかということが逆に明らかになる。 度し難い矛盾を抱えた「天皇制」の規定である憲法第1条の原理を、前文で「人類普遍 原理」と並べて書くなどということは、あまりにも不条理で不可能だった、と私は思い ます。
したがって、憲法第一章とその実際の運用が「民主憲法」の精神に根本的にそぐわず、 憲法の他の部分とそぐわないのも当然であって、本当はまったく不思議なことではない。 だから、天皇の地位とか世襲制、とりわけ天皇の人権については解説されていませんし、 ただ天皇家だけが尊重されるということになっているわけです。
ですから、ここに矛盾があるのですが、憲法は発布される。天皇は平和主義者であって 実際には権力がないのに、東条などが軍を支配してしまった、などと流布され本人もそう言っているわけです。「私にも軍の暴走を止めようがなかった」と裕仁も言っている わけです。それこそ、国民に「寄り添う」やさしい平和主義者の天皇のイメージを出し てくる。それで全国を歩き回りますが、そのときの各地の新聞を読むともうどれもワン パターン、「おやさしい」これです。これがどこの新聞にも出てきます。広島にも行き ますが、広島では5万人が彼を大歓迎したのです。一番被害に遭った人たちが 一番歓迎してしまった。なぜこうなるのでしょうか。
こんなめちゃくちゃな話がありますか。 戦争でひどい目に遭った人たち、もちろん食糧危機が目の前にあるのですが、食糧危 機だけではなくて、だれかにやさしいことばをかけてほしい、原爆被害に遭った人たちはそれを待っていたのですね。同情してくれていると思える人、やさしいことばをかけ てくれると思える人、そういうシンボル的な人物が欲しかったわけですね。それが突然、目の前に現れて来たので、大歓迎してしまったのだと私は思うのです、そうでなければ 説明のしようがありません。
自分が神であることを否定はするが、「神の子孫」であることは否定しな いと述べた裕仁は、「人間宣言」をした覚えはない。
その前年461月に天皇は人間宣言というのをやります。「新日本建設に関する詔書」 なるものが発表されるのですが、メディアがまた人間宣言、人間宣言と言って持ち上げ る。しかし、この詔書を読んでみると、「自分は神ではなく、人間である」とは一言も 述べてはいません。一言も「自分は人間だ」とは言っていないのに、政府とメディアが勝手に人間宣言だと言っているだけです。現人神であることを裕仁自身が否定したこと になっているのですが、この詔書を読んでみると「自分は神ではなく、人間である」と は一言も述べてはいない。ただ、「自分と国民の間の関係は、常に相互の信頼と敬愛に よって結ばれており、それは単に神話と伝説によるものではない」と述べているだけです。 しかも、この詔書発表2日前の 12 29 日に木下侍従長が日記に書き残した文章によ ると、裕仁は自分が神であることを否定はするが、「神の子孫」であることは否定しな いと述べたそうです。
だいたい天皇になる人は、国民はお前のために存在するのだ、と 教えられてきたわけです。国民の赤子はお前のために存在すると教えられてきた。お前が国民のために存在するのではないと小さい時から教えられてきた人が、突然、国民の ために、などと考えると思いますか。考えないでしょうね。そんな思想転換が出来るはずがない。だからこうした発言も全然不思議ではない。 おもしろいことに、『敗北を抱きしめて』を書いたジョン・ダワーは、裕仁は「天か ら途中まで降りてきただけ」と絶妙な表現で描写しました。それがいまも続いている、 明仁も雲上と地上の間で宙ブラリンとなった状態は同じです。
憲法第一章は、根本的には天皇を普通の人間とは認めていないのです。第一章が変わらない限り今後も天皇制が続くことは間違いないわけで、どこに行ってもありがたがら れ、「おやさしい天皇」が人間的な間違いを犯すはずがないわけです。

現憲法でも、「象徴権力」を持たされている天皇を自分の政治目的達成のために利用する安倍晋三
この「象徴権威」象徴には権力がないように見えますがじつは権威という権力が備わっていて、武藤一 羊さんは「象徴権力」と言っていますがこれを、安倍晋三のようなペテン師政治家は、 トコトン天皇の象徴権威を自分の政治目的達成のために利用しようとするわけです。
ご存知のように明仁はあちこちに被災者の見舞いに歩きました。そこでやさしい天皇、 寄り添う天皇を振り撒きました。日本文化がどんどん崩れて行くなかで、非常に日本人にありがたがられる、一種のノスタルジーです。現代社会では、ポピュリズムとノスタ ルジアがひとつの問題ですが、資料に添えた「液状化社会、ポピュリズム現象と天皇絶賛現象」の論考をあとでご覧になってください。 私は 5 月には京都に滞在していました。そのとき仙洞御所というところに行って来ました。仙洞御所というところは上皇のために建てられた建物です。いまは吹上の仙洞御所で明仁はそこにそのまま住んでいます。吹上御所が吹上仙洞御所になっています。天 皇が退位するのはけしからんなどという右翼系の人たちがいますが、歴史上には退位し た天皇はたくさんいるのです。天皇がリタイアして退位すると仙洞御所に入ります。 じつはみなさんもここを訪れることができます。建物の中には入れませんが庭は見れます。広大な庭園を一時間くらい見て回ります。説明によると建物の中はかなり近代的 になっているそうです。外国から来た王室のメンバーもここに泊まります。私も行って 見てきました。すばらしい日本庭園があり、一家族のために何億円も維持費をかけてい るわけです。
本当の責任問題と元凶を隠蔽して来た「天皇行幸」
私が言いたいことは、彼らは被災地など見舞いに行きますが、行ったあと はこういうところに泊まるわけです。ひどく荒廃した被災地を訪れ、いたく困 窮している人たちに会ったあとに、こういう素晴らしい環境と御殿でゆっくり休む、こういう矛盾です。こういう矛盾に私なら耐えられません。 
オランダの王室ですと、王女が自転車に乗って買い物に行くわけです。なぜ日本ではそうならないのか。これは福島県の川内村での除染作業の視察に行ったところです。 被災者は天皇・皇后に会って泣いて喜ぶ。ところが、天皇明仁と美智子が現れることによって、被災するような事故を起こした責任はいったい誰にあるのか、という ことが隠蔽されてしまう。来てもらってありがたい、うれしいとなって元凶の責任問題 を追及しなくなってしまう。病気見舞いもそうです。例えば、ハンセン病では、天皇家 は明治以来、大金を出して表向きは救援しているように見せながら、実際には患者差別 をやってきました。
天皇家が長年やってきたハンセン病患者差別が、天皇・皇后がハン セン病患者を見舞うことで全部隠蔽されてしまう。 だから天皇が現れることによって、本当の責任問題と元凶が隠されてしまう。その典型的な問題が戦争責任です。
天皇が慰霊に行って拝みます。でもそこでは誰がこんな戦 争を始めたのか、だれに責任があるのか、一言も述べません。そのことによって全部責 任が隠蔽されてしまう、そのことが政治家にとってはものすごく都合のいいことになる わけです。
安倍は、自衛隊閲兵式を、天皇にやらせる事を狙っている
この度、徳仁が新しい天皇になってトランプ大統領が来た折に、「今や太平洋を隔てて接する極めて親しい隣国として、強い友情の絆で結ばれております」、「今日の日米関 係が、多くの人々の犠牲と献身的な努力の上に築かれていることを常に胸に刻みつつ、 両国民が世界の平和と繁栄に貢献していくことを切に願っております」と、挨拶しまし た。沖縄の問題はまったく一言も出てきませんでした。 とくに私が怖いと思ったのは、この写真です(自衛隊閲兵式)。天皇とアメリカ大統 領の前の方に自衛隊が並んでいる。このあとトランプが歩いて閲兵をやりましたが、二 人の後ろにアメリカの国旗と日本の国旗と並んで自衛官が立っているわけです。いまはすでにこういう状況に来ている。このままでは、安倍は必ず閲兵式を天皇にやらせることになるでしょう。ここが怖いところです。


4)天皇制廃止に必要なこと
天皇制廃止に必要なことは、天上と地上の間で宙ぶらりんになっている雲上人、これをどのように人間化するか、これだと思います。とりわけ象徴権威がもっている民衆意識支配のカラクリを暴き出しそのような象徴権威をもっている天皇個人、天皇という神 がかり的な地位にある雲上人を、いかにしたらわれわれ市民と同じレベルにまで引き降ろすことが出来るか、このことを私たちは考えなくてはならないと思います。
「ヒロヒト 詔書曰ク 国体は ゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民飢えて死ね ギョメイギョジ」(日本共産党田中精機細胞)
じつはこれをやった人たちがすでに何人かいるのです。最初にこの天皇の人間化をやったのは、食糧メーデー・プラカード事件の松島松太郎でした。この時期はものすごい食糧難で、当時全国で餓死者が続出、毎日死体処理をしなければならないほど、とりわけ戦災孤児が多かった上野駅周辺ではバタバタと人が死んでいきました。一方で、皇居 の中では食糧難というのはなかったのです。
こうした状況下で、1946 年5月 19 日のメーデーは食糧配給を要求する「飯米獲得人民大会」に25万人もの大規模な参加者が集まった。ここに田中精機工業社員(同時に 同社労働組合委員長)で共産党員の松島松太郎が、表面に「ヒロヒト 詔書曰ク 国体は ゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民飢えて死ね ギョメイギョジ」、裏面 に「働いても働いても何故私達は飢えねばならぬか 天皇ヒロヒト答えて呉れ 日本共産党田中精機細胞と書いたプラカードを掲げて参加したわけです。
これに天皇側もびっくりした。当時の「日本ニュース」によれば、「飢えた人民に天皇御放送」とあって「5 24 日正午、天皇陛下は飢えに迫られた国民に対してラジオ 放送を行われました。」《アナウンサー》「ただいまより、食糧事情に関する天皇陛下の お言葉でございます」《天皇》「祖国再建の第一歩は、国民生活、とりわけ食生活の安定 にある。都市における食糧事情はいまだ例を見ないほど窮迫し、その状況は深く心を痛 ましめるものがある。同胞互いに助け合ってこの窮況を切り抜けなければならない。こ の際に当たって、国民が家族国家のうるわしい伝統に生き、祖国再建の道をふみ進むことを切望し、かつこれを期待する」と、放送されたわけです。 しかし、ここで天皇は食糧事情をどう改善するかなど一言も言ってない。「お前ら天皇に忠誠を尽くして家族国家としてがんばれ」と言ってるだけです。
とにかく松島は不敬罪で検挙されました。まだこのときは不敬罪の効力があったのです。さきほど幣原の名前が出ましたが、幣原は不敬罪をそのまま維持するというのが彼 の考えだったのです。幣原は平和主義者だったなどとみんな誤解して言っていますが、 とんでもない話です。ともかく松島は不敬罪で起訴された。ところが不敬罪はとんでもない悪法だと考えたGHQが圧力をかけたため、46 11 2 日の第一審東京地裁での 判決では、不敬罪は認めずに名誉棄損罪だったのです。これで松島は天皇に対する名誉 棄損罪で懲役 8か月の判決を受けます。ところが翌日に日本国憲法の公布が行われたの で、大赦令によって免訴にされたわけです。犯罪歴はそのまま残ります、天皇に対する名誉棄損罪というのは残りますが、刑務所には行かなくていい、というそれだけのこと です。だから松島は怒ります。「なぜ俺が犯罪者なのだ」と。
松島を「名誉棄損」で訴えるのであれば、天皇裕仁を法廷に引き出せと主張した、弁護士・正木ひろし
そのときの弁護士・正木ひろしは次のように主張します。「検察側が主張するように 松島のプラカードが名誉毀損罪に確当するのであれば、それは刑法 232 条の『告訴ヲ待 テ之ヲ論ズ』という親告罪を前提としている」と。確かにそうですよね、名誉毀損罪 であれば当の名誉を傷つけられた裕仁が出てきてその被害を訴えなければならない。ところが被害者であるべき人が何も言っていない。何も証言していないし裁判所に訴えてもいないのに名誉棄損罪とはどういうことか、だから裕仁を法廷に出せ、と主張するわけです。
法廷に天皇を引きずり出し、じかに発言させる。天皇が普通の人間であり、名誉毀損の被害者であるなら、出廷してはっきりと自分の意見を述べるべきだという、当然のことです。おそらく、天皇を証人尋問するために出廷を要求したのは、日本の裁判史上こ れが初めてのケースであったと思われます。これは天皇の神聖不可侵を継承する新憲法の象徴権威に対する真っ向からの挑戦です。
ところが当時の五十嵐太仲裁判長は、「告訴は単に親告罪の訴追を被害者の意思に係らしめる形式的要件であって、犯罪の成立に必要な構成要件ではない」と言っています。形式上は必要かもしれないがそれは要らないんだという、こんなめちゃくちゃな判決がありますか。これが裁判官の発言です。アタマの中は「不敬罪」でいっぱいなのです。「こいつは有罪にしなきゃならない」というのがアタマの中にしっかり入っているわけです。
●京都大学学生自治会(同学会)による、天皇裕仁への公開質問状

二つ目は、京都大学訪問の天皇裕仁への公開質問状です。 1951 7 14 日から 10 日間にわたって、同学会という京都大学学生自治会が、京都 駅前の丸物百貨店で、「綜合原爆展」を開催して大成功します。当時は、占領軍支配下であっても(もうすぐ占領は終わるので)かなり情報コントロールが弱くなってきてい ます。占領軍はとくに原爆情報に対してものすごくきびしいコントロールをしていまし たから、なかなか原爆展なんか出来なかったのですが、ここで初めてやったのです。
この開催を展示資料の面で助けたのは、だいたい京都大学の物理学の先生たちでした。 京都大学理学部の先生たちは、原爆投下の後広島に行っています。その先生たちから学 生がもらった調査資料や、原爆製造過程、放射能被害の状況、核兵器国際管理の実態、 原爆文学作品、被爆者の無惨なケロイド写真、さらには丸木位里・俊夫妻制作の『原爆 の図』まで展示したのです。10 日間にわたって約 3 万人の一般市民が訪れ、大成功し ます。 11 10 日からは、吉田キャンパスで開催予定だった大学文化祭の中心企画として、 こんどは学生たちに見せたいと新たな原爆展を計画する。ところが、文化祭をやる 4 日 前になって突然大学側が文化祭を1112日にすることを一方的に学生側に通告して きた。学生側はびっくりして、数日で準備ができるわけがないと交渉が決裂し、文化祭は頓挫し中心企画の原爆展も棚上げ状態となってしまった。 そのあとですぐに、大学側の突然の提案の理由がわかりました。その理由は、裕仁が 11 12 日の午後に京都大学を訪問するという予定を大学側が隠していたことであった ことが判明するわけです。これを知った学生たちは、「歓迎もしなければ拒否もしない、 天皇にはありのままの京大を見てもらいたい」と記者会見で述べました。 じつは、京都大学は戦時中になんの修理もされていないため校舎はがたがたです。だ から「ありのままの京大を見てほしい」と学生たちは言ったのです。天皇の通る廊下と、 天皇が講義を受ける教室だけをきれいにペンキを塗り直していた。
いまとまったく変わらないことをやっていたのです。 当日、11 12 日午後 1 時ころには物珍しさで大学キャンパスの時計台広場の前には 2000 人ほどの学生が集まってきました。門前には縦3メートル、横2メートルほどの 「願」と題された看板が立てられた。ここには「神様だったあなたの手で我々の先輩は戦 場に殺されました。もう絶対に神様になるのはやめてください。『わだつみの声』を叫ばせないでください。京都大学学生一同」と書かれていました。
天皇がやってきました。門のそばに停車していた毎日新聞社の車から「君が代」が流され、これに反発した学生たちが一斉に自発的に反戦歌「平和を守れ」を歌い始めたの です。これがまたたく間に大合唱になって、その中を天皇を乗せた車が到着し、教授たちの進講を受けるために本部会議室に入りました。午後 3 時過ぎ裕仁が帰るのですが、 この間ずっと天皇が帰るまで学生たちはこの反戦歌を歌い続けるのです。学生たちは道 を開けていて、天皇訪問を阻止することは一切していません。ですから、講義を受けて いる間、裕仁はこの歌をずっと聞いていたはずなのです。

学生の行動を、「不敬罪」として立証しようとした吉田内閣と自由党
学生たちはなにも邪魔をしていないのに、大学側は裕仁のために警察隊を入れてしまいました。 ところが、翌日 13 日の新聞各紙は、この京都大学での状況を「共産党のしわざ」、学 生たちが「インターナショナル」を歌った、常軌を逸した「左翼小児病」の行動などと 報道し、地元の京都新聞も「天皇への無礼と京大の責任」という論説で、学生たちがあたかも「不敬事件」を起こしたごとく批難したのです。
学生たちは遠巻きに反戦歌を合唱していただけなのですが、あくる日衆議院の文部委員会で、審議中の大学管理法案との関連で天野貞祐文相がこれを学生たちが計画的に起 こした「混乱」として事件扱いして大騒ぎした挙句、学生側に同学会の解散を命じ、幹 部 8 名を無期限停学処分、事実上の退学処分にしてしまう。同学会には共産党系の学生 も多くいたのですが、しかしこの 8 名は実際にはその場にいなかった。いなかったにも 関わらず共産党系の幹部だということで処分してしまうという事件です。26 日には、 服部峻治郎学長と同学会委員長の青木宏が衆議院法務委員会に呼び出されて喚問されます。
これを吉田内閣と自由党はあたかも「不敬罪」を犯したかのように利用して、大 学への警官の自由な立ち入りを認めさせるきっかけにしようと画策します。京都地検も 公安条例違反で学生たちを起訴しようとしましたが、立証できずに断念したという事件です。 当時は、レッド・パージ、朝鮮戦争、単独講和問題、とりわけ朝鮮戦争とそれに伴う GHQによる「警察予備隊(のち「自衛隊」に改組)」創設指令などがあって、学生運動、反戦運動、反政府運動が非常に先鋭化していた時期でもあったのです。
じつはこのとき裕仁が来る前に、学生たち同学会はこの手紙を天皇に渡してくれと学 長に頼んでいたのですが学長は拒否しています。この手紙を書いた人が当時理学部の学 生で同学会委員であった中岡哲郎さんでした。いまは大阪市立大学名誉教授ですが、技術史の先生です。この書簡も検察は、一時、「集団暴力事件」として取り扱いできないかと案を練ったようですが、当然、立証不可能だった。検察としては、「不敬罪」とし たかったのでしょうが、そのような「犯罪」はもはや存在しなかった。警察のアタマの 中は、ここでも「不敬罪」でいっぱいだったのです。
京都大学同学会による天皇裕仁への質問状
この中岡さんが書いた質問状がすばらしい質問状です。じつは私はこれに刺激されて 資料にある「明仁への公開書簡」を書きました。天皇裕仁をあくまで一個の人間として 扱い、人間として見る、われわれと同じレベルで、あなたは戦争責任についてどういう ふうに考えていますか、人間としてどのように考えていますか、と質問して私たちに「天皇の象徴性」について熟考することを迫っています。とにかく感動的ですばらしい文章 です。以下、全文です。

京都大学同学会(学生自治会)による【天皇裕仁への質問状】

私たちは一個の人間として貴方を見る時、同情に耐えません。例えば、貴方は 本部の美しい廊下を歩きながら、その白い壁の裏側は、法経教室のひびわれた壁 であることを知ろうとはされない。貴方の行路は数週間も前から何時何分にどこ、 それから何分後にはどこときっちりと定められていて、貴方は何等の自主性もな く、定まった時間に定まった場所を通らねばなりません。
貴方は一種の機械的人 間であり、民衆支配のために自己の人間性を犠牲にした犠牲者であります。私たちはそのことを人間としての貴方のために気の毒に思います。
しかし貴方がかつて平和な宮殿の中にいて、その宮殿の外で多くの若者達がわだつみの叫びをあげ、 うらみをのんで死んでいる事を知ろうともされなかったこと、又今と同じように 筋書に従って歩きながら太平洋戦争のために、軍国主義の支柱となられたことを考える時、私たちはもはや貴方に同情していることはできないのです。
しか し貴方は今も変わってはいません。名前だけは人間天皇であるけれどそれはかつての神様天皇のデモクラシー版にすぎないことを私たちは考えざるを得ず、貴方が今又、単独講和と再軍備の日本でかつてと同じやうな戦争イデオロギーの一つ の支柱として役割を果たそうとしていることを認めざるを得ないのです。
我々は 勿論かつての貴方の責任を許しはしないけれど、それよりもなお一層貴方が同じ あやまちをくり返さないことを望みます。その為に私たちは貴方が退位され天皇制が廃止されることを望むのですが、貴方自身それを望まれぬとしても、少なくとも一人の人間として憲法によって貴方に象徴されている人間達の叫びに耳を かたむけ、私達の質問に人間として答えていただくことを希望するのです。 
質問 一
もし、日本が戦争に巻き込まれそうな事態が起るならば、かつて終戦の詔書において万世に平和の道を開くことを宣言された貴方は世界に訴えられ 用意があるでしょうか。
質問二
貴方は日本に再軍備が強要される様な事態が起った時、憲法に於て武装放棄を宣言した日本国の天皇としてこれを拒否する様呼びかけられる用意が あるでしょうか。 
質問三
貴方の行幸を理由として京都では多くの自由の制限が行われ、又準備のた めに貧しい市民に廻るべき数百万円が空費されています。貴方は民衆のため にこれらの不自由と、空費を希望されるのでしょうか。
質問四
貴方が京大に来られて最も必要なことは、教授の進講ではなくて、大学の 研究の現状を知り、学生の勉学、生活の実態を知られることであると思いま すが、その点について学生に会って話し合っていただきたいと思うのですが 不可能でしょうか。 
質問五
広島、長崎の原爆の悲惨は貴方も終戦の詔書で強調されていました。その 事は、私たちはまったく同意見で、それを世界に徹底させるために原爆展を 製作しましたが、その開催が貴方の来学を理由として妨害されています。貴 方はそれを希望されるでしょうか。又、私たちはとくに貴方にそれを見ていただきたいと思いますが、見ていただけるでしょうか。 
たちはいまだ日本において貴方のもっている影響力が大であることを認 めます。それ故にこそ、貴方が民衆支配の道具として使われないで、平和な 世界のために、意見をもった個人として、努力されることに希望をつなぐも のです。一国の象徴が民衆の幸福について、世界の平和について何らの意見 ももたない方であるとすれば、それは日本の悲劇であるといわねばなりませ ん。私たちは貴方がこれらの質問に寄せられる回答を心から期待します。  
昭和二十六年十一月十二日 京都大学同学会 天皇裕仁殿

憲法第一章で規定された天皇には「人間性」が完全に欠如している。
憲法第一章で規定された天皇には「人間性」が完全に欠如している。われわれ生きている国民一人一人、喜怒哀楽をもったその一人一人の人間性を、本来は「日本国民統合の象徴」である天皇が象徴していなければならない。ところが、そのまさに象徴である 天皇には人間性を持つことが許されていない、この解決しがたい根本的な矛盾が憲法に深く根をおろしていることを指摘しているのです。
裕仁を狙ったパチンコ玉発射事件の奥崎は、刑事被告人に保障された「すべての証人を審問する権利」に基 づき、被害者である天皇の証人請求を行なった。
もうひとりは奥崎謙三。裕仁を狙ったパチンコ玉発射事件。ニューギニア戦線に送り こまれた 16 万人近くの 9 割以上が餓死と熱帯病で死んでいった中の、数少ない生き残り兵士の一人です。 奥崎は 1969 1 2 日、朝の新年一般参賀で皇居のベランダに立った裕仁に向かって 25 26 メートルの距離でパチンコ玉 3 発を発射しましたが、みんなベランダの手前に 当たっていました。いまは防弾ガラスになっていますが、当時は防弾ガラスがありませ ん。奥崎がパチンコ玉を撃ったあくる年から防弾ガラスになりました。 奥崎は、三発撃っても当たらなかったため、もう一発「おいヤマザキ、ピストルで天 皇を撃て」と大声で叫んで撃った。ヤマザキというのはニューギニアで死んだ同僚で す。「ピストルで天皇を撃て」と叫んだのは、パチンコ玉を撃っても警察が飛んでこ ないので、「ピストル」と言えば警察が飛んでくると思った。それでも警察が来ない、 だから自分から警察を探しに行って逮捕させた。「さぁ、俺だ、俺がやった」と言って 警察に警察署まで連れて行くように頼んだ。つまり逮捕されたかった、逮捕されて裁判 所で天皇の戦争責任を追及したかったのが彼の真意だったのです。 裁判の一審で、奥崎は刑事被告人に保障された「すべての証人を審問する権利」に基 づき、被害者である天皇の証人請求を行なった。
一人の人間として、天皇は、自分の戦争責任をどう考えているかを問うた奥崎
「裕仁を裁判に出せ」という要求で す。暴行事件であるなら、暴行の被害者である人物が訴えない限り事件として取り扱え ない。被害者本人が何も言ってないのに犯罪になるわけがない。だから奥崎は、裕仁を 裁判所に出してくれと要求する。そして彼は 10 項目の質問状をすでに用意していたの です。 その中には次のようなものがありました。
 「被告人(奥崎)が、聖戦の名の下に行われた太平洋戦争に徴収され、ニューギニア島 で戦い、傷つき、辛うじて生き残った帝国陸軍の一兵卒であったことを知っていますか」 「あなたは被告人が徴収された帝国軍隊(いわゆる皇軍)の統帥権者の地位にあり、そ の権威の下に右戦争が遂行されたこと、そして被告人が右戦争の犠牲者・被害者の一人 であることを同じ人間としてどう考えますか」 「被告人が、ニューギニア島で飢え、傷つき、そして死んでいった同じ部隊の何千の戦 友たちへの慰霊・供養として本件行為に出たことをあなたはどう考えますか。」 ここでも、天皇をあくまでも一個の人間とみなし、その人間に対して、多くの人間を 死なせたことの責任に対する個人的感情を問いただしている。天皇からは「神聖不可侵性」や「象徴権威」が見事に剥ぎ取られ、追及された責任問題に一個の人間としてどう思っているのか答えざるをえない状況に、裕仁はおかれるはずだったのです。
戦後 25 年も 経っているのにいまだにアタマの中は「不敬罪」でいっぱいだった裁判長
しかし、裁判長・西村法は、奥崎の請求に対してただ「必要なし」とだけ答えて、「暴力事件」の「被害者」に対する尋問請求を拒否しました。この裁判官も、戦後 25 年も 経っているのにいまだにアタマの中は「不敬罪」でいっぱいだったのです。
これに対して奥崎はどうしたか。ここに小指が切れていますがニュー にギアで敵軍に撃たれてこの指が吹っ飛んでいます。奥崎は、憲法第一章「天皇」は違 憲という見事な主張を展開しました。一審・二審とも有罪で、最高裁に上告したときの 趣意書は、奥崎の行動が「極めて悪質であり、社会的影響も甚大な」、天皇に対する「犯 罪」という二審判決に真っ向から挑戦した、見事な論理性をもった格調高い主張となっています。
憲法第一章「天皇の規定」は、憲法前文の「人類普遍の原理」からして違憲無効の存在であると主張した奥崎
その主張の趣旨は、憲法第一章「天皇の規定」は、憲法前文の「人類普遍の 原理」からして違憲無効の存在であるというものなのです。 さきほど導入で私が述べたような、憲法第一章と前文はひじょうに矛盾している、と いう論理を、奥崎が誰よりも先に見事に述べているのです。これまで、どんな憲法学者 も言っていないことを彼が言っています。これはすごいですね、彼はたいへんな戦争被 害者ですよ、戦争被害者だからこそその矛盾がすっとわかる、憲法を見たときにすっと わかる。そこがわれわれと違うところです。 
憲法前文はこう言っています。「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであ つて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は 国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基く ものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」
憲法前文のこの「人類普遍の原理」に照らして、憲法第一章「天皇」は違憲であるという主張 を、奥崎は次のように展開しました。

一、二審の判決と求刑をした裁判官、検察官は、本件の被害者と称する人物を『天 皇』であると認めているが、現行の日本国憲法の前文によると、「人類普遍の原 理に反する憲法は無効である」と規定しており、『天皇』なる存在は「人類普遍 の原理」に反する存在であることは自明の常識であり、『天皇』の権威、価値、 正当性、生命は、一時的、部分的、相対的、主観的にすぎないものであり、した がってその本質は絶対的、客観的、全体的、永久的に『悪』であるゆえに、『天 皇』の存在を是認する現行の日本国憲法第一条及至第八条の規定は完全に無効で あり、正常なる判断力と精神を持った人間にとっては、ナンセンス、陳腐愚劣きわまるものである。 

この指摘に対して、最高裁は単に「事実誤認」と退けて論点を避け上告を棄却して済 ましている。大事なことは、この文章で、最高裁判事だけではなく私たちもまた、奥崎 に、「あなたは正常なる判断力と精神を持った人間ですか」と問われていることです。 私たちはこれに応えなければいけないのです。ただ、奥崎はこのあと殺人未遂まで起こすことになって残念なことですが、もし、あなたがひじょうに正しいことを言っている のにもかかわらず、多くの人たちから「あなたは頭がおかしい」と言われたら、あなた はどうしますか。本当に気が狂ってしまうのではないでしょうか。彼の気持ちがよくわ かるような気がします。
結論:「象徴権威」打破のための方法について具体的な思案を

重大な戦争犯罪行為とその責任を隠蔽したまま、国民を国家権力に従属させるために、国家と国民統合の象徴として強力な影響力=象徴権威を発揮し続けている天皇/天皇制、とりわけ「我らのうちなる天皇制」 をなんとしても打破しなければなりません。
結論ですが、われわれの内なる天皇制、先ほども言ったように天皇に対する「不敬罪」 がアタマから離れない、天皇が来ると何か神聖な気持がするという、これをどうするか。 憲法第一章で規定された天皇には「人間性」が完全に欠如している。その点で、失敗したとはいえ、上記のような前例 からも、裁判という手段例えば皇室典範第1条は性差別であり憲法違反であるとの訴 え(天皇・皇后の証人尋問を要求)などを通して天皇の神聖を剥がす運動=「天皇人間化」をはかることは、「象徴権威」の打破という点では極めて有効であることが分か ります。
しかし、裁判という方法をとらなくとも、「象徴権威」の打破のための方法はいろいろあるはずです。日本の民主化のために天皇制廃止を目指す運動は、そのための具体的な方法についてもっといろいろ真剣に考えるべきではないでしょうか。  再度述べますが、真の民主主義確立のためには、重大な戦争犯罪行為とその責任を隠蔽したまま、国民を国家権力に従属させるために、国家と国民統合の象徴として強力な影響力=象徴権威を発揮し続けている天皇/天皇制、とりわけ「我らのうちなる天皇制」 をなんとしても打破しなければなりません。
現在の「一億こぞって天皇万々歳」の状況下、天皇制打破は容易なことではありませ ん。この状況は、新元号の発表や天皇退位・新天皇即位などの儀式を安倍政権が大いに利用することで、「天皇のもとでの平和な国民統合」という虚妄の「平和と統合」=「軍国化と国民支配」を実は推し進めていくことで作られているのが実態です。
さに「我らのうちなる天皇制」の強化と浸透そのものです。 こうした状況を打破しない限り、日本にとって明るい民主主義的な未来は決してやってこないと思います。その目的に向かっての有効な一歩は、天皇を雲上からわれわれと 同じレベルにまで引き下ろし、われわれと同じ一人の人間としてみなし、取り扱うこと ができる社会を作り上げることである、と私は信じています。
(以上、「講演録」終了)
<付記>この講演内容は、田中利幸著『検証「戦後民主主義」:わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか』(三一書房、2019 年)で展開されている議論の重要点の幾つかを、要約的に紹介したものです。

◆田中利幸さんの著書と活動
『検証「戦後民主主義」- わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか』( 三一書房、 2019) Hidden Horrors: Japanese War Crimes in World War II (with Foreword by John Dower, Second edition, New York, Rowman & Little eld, 2017)Japan’ s Comfort Women: Sexual Slavery and Prostitution during World War II and the US Occupation (with Forward by Susan Brownmiller, London, Routledge, 2002)、『空の戦争史』(講談社現代新書 2008 年) 『知られざる戦争犯罪:日本軍 はオーストラリア人に何をしたか』(大月書店 1993年)、共著: 『思想の廃墟から 歴史への責任』(彩流社 2018 年)、『原発とヒロシマ「原子力平和利用の真 相」』(岩波ブックレット 2011 年)、編著:『戦争犯罪の構造 : 日本軍はなぜ民間人を殺したの か』(大月書店 2007 年)、共編著:『再論東京裁判 何を裁き何を裁かなかったのか -』(大月 書店 2013 年)、『日本の侵略』(大月書店 1992 年)、訳書:ジョン・ダワー著『アメリカ 暴力 の世紀 第二次大戦以降の戦争とテロ』 (岩波書店 2017 年)、ハワード・ジン著『テロリズ ムと戦争』(大月書店 2002 年)、Hiroshima: A Tragedy Never To Be Repeated ( 英語版『絵で 読む広島の原爆』( 那須正幹<著>, 西村繁男<絵>、ジョアンナ・キングとの共訳、福音館書 店、 1998 )など。BBCNHK など TV ドキュメンタリー映画のアドバイザーとしても多数 の作品づくりに参加