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(民衆闘争報道/琉球遺骨返還訴訟  「琉球新報」 2020122日付)



     国連で「大学は沖縄の遺骨返還を」松島教授が声明
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研究者持ち去りと対応批判

192829年に旧帝国大学の研究者によって沖縄から持ち出された遺骨が返還されていない問題で、松島泰勝・龍谷大教授が12月日、国連で遺骨の返還を求める声明を発表した。

松島教授は遺骨の返還運動に取り組む沖縄の市民団体「ニライカナイぬ会」の共同代表として、スイスのジュネーブで開かれた国連「先住民族の権利に関する専門家機構」にオンラインで登壇した。

▲百按司墓に手をあわせる人たち

声明はニライカナイぬ会が、国連NGO市民外交センターと共同で提出した。遺骨を保管する京都大学が現在も沖縄側に返還していないことを批判した。台湾大学は遺骨を返還したものの、移管された県教育庁が再風葬を拒否していることを「先住民族の権利に関する国連宣言」第12条(宗教的伝統と慣習の権利、遺骨の返還)に反していると指摘した。その上で研究機関が遺骨を持ち去り、保管し、研究に利用することを批判した。新型コロナウイルス感染症の影響についても、琉球遺骨返還請求訴訟(京都地裁で係争中)で口頭弁論が延期されるなど「国際法で保障された権利の行使を大きく阻害している」と訴えた。


<資料・1>

なぜ琉球遺骨返還を求めるのか
松島泰勝(龍谷大学教授)

 
1.琉球は日本の植民地

琉球(沖縄)は「日本固有の領土」ではなく、独自の国であった。1850年代、琉球国はアメリカ、フランス、オランダと修好条約を締結した。しかし、それらの条約原本を日本政府が奪い、現在、外務省が管理する外交史料館が保管している。琉球国は明国、清国の朝貢冊封国であった李氏朝鮮(現在の韓国、北朝鮮)や安南国(現在のベトナム)、シャム国(現在のタイ国)等と同様な政治的地位を有していた。1879年の琉球併合において、日本政府は軍隊、警察によって琉球国を滅亡させ、沖縄県を設置した。日清戦争後まで、清国に亡命した旧王府家臣は琉球救国運動を展開してきた。また戦後の米軍統治時代から今日まで独立運動が琉球において行われてきた。
「サンフランシスコ講和条約」第3条には将来における琉球の信託統治領化が明記されていたが、それは不履行となり、1972年に沖縄県として再び日本の統治下におかれた。他方、戦前、日本の委任統治領となり、戦後、米国の戦略的信託統治領になったミクロネシア諸島は国連信託統治理事会の監視下で住民投票を行い、自由連合国または米国領(コモンウェルス)を選択することができた。
「沖縄県」成立の国際法上の根拠となった沖縄返還協定は、琉球政府を排除した、日米両政府の密約に基づくものでしかない。琉球は、国連監視下における住民投票による新たな政治的地位の獲得という国際法で保障された脱植民地化の過程がいまだに認められていない。琉球国を滅亡させた琉球併合、「捨て石作戦」の沖縄戦、在日米軍基地のヤマトから琉球への移設・固定化、米軍統治、基地による犠牲等に対して、日本政府は謝罪、賠償を行わず、現在、辺野古での軍事基地建設という新たな植民地政策を実施している。
戦前、日本政府はアイヌモシリ(北海道、千島列島、樺太)、琉球、台湾、朝鮮半島、「満州国」、南洋群島、グアム等を自らの植民地にすることで帝国主義を拡大させた。日本の帝国主義は太平洋戦争で日本が敗北した後、消え去ったと言われている。しかし琉球に関して日本の帝国主義、植民地主義は未清算であり、現在も続いている。

2.学知の植民地主義
金関丈夫・京都帝国大学助教授は192829年に行った発掘調査において、百按司墓(ももじゃなばか)から持ち出した琉球人遺骨を京都帝大に26体、台北帝大に33体寄贈した。金関氏による遺骨持ち出しは警察、行政関係者の許可を得ただけであり、門中関係者、地域住民等が了解したのではなかった。琉球併合後、警察を含む行政、教育関係の上層部の大半を日本人が占めるという植民地体制下において盗掘が行われた。金関氏の指導教授であった足立文太郎氏が琉球人の体質人類学的研究の必要性を金関氏に説いたことが盗掘の端緒となった。1928年、帝国学士院より研究費の一部が補助され、足立氏が琉球人骨を蒐集せよと命じて金関氏を琉球に派遣した。つまり、盗掘は金関氏個人の問題ではなく、京都帝大自らが関与した「大学の問題」である。なお、金関氏は百按司墓以外からも琉球各地で遺骨を盗掘した。
清野謙次・京都帝大教授の門下生である三宅宗悦氏は1933年?34年に奄美大島から80体、沖縄島から約80体、そして35年には三宅氏と中山英司氏は喜界島から70体、徳之島から約80体の遺骨を収集し、「清野コレクション」として同大に所蔵された。同コレクションの全体数は約1400体であったが、そのうち沖縄島から72体、奄美諸島から263体の遺骨が人骨標本としてリスト化された。
20175月、私は京都大学総合博物館に対して「百按司墓遺骨」の実見と幾つか質問をしたが、同博物館はその要求を全て拒否した。京都大学は『琉球新報』、『沖縄タイムス』、『東京新聞』、『京都新聞』等からの本件に関する取材も拒絶している。琉球民族遺骨返還研究会は京大総長に対して琉球人遺骨返還に関する要望・質問書を提出し、遺骨関連の情報開示請求を行ったが、回答を拒否し、関連情報も開示していない。
照屋寛徳・衆議院議員は国政調査権を発動し、文科省を通じて京大に対して百按司墓琉球人遺骨に関する照会を行ない、また政府に対して「琉球人遺骨の返還等に関する質問主旨書」を提出した。さらに照屋議員は京大総長に公開質問状を2回提出して、同遺骨の返還を求めた。その結果、京大総合博物館は初めて百按司墓遺骨がプラスチック箱で保管していることを認めたが、総長は公開質問状にはほとんど答えなかった。我々が選んだ国会議員に対して京大は大変失礼な対応をしたと考える。
琉球民族独立総合研究学会は国連の人権高等弁務官事務所に「百按司墓琉球人遺骨」返還の正当性を主張するとともに、国連の先住民族に関する常設フォーラムにおいて本問題について訴えた。さらにAIPR(琉球弧の先住民族会)AIPP(アジア先住民族連合)の評議会に琉球人遺骨問題に関する私の報告書を提出した。20181月、琉球大学において東アジア共同体・沖縄(琉球)研究会のシンポジウムにおいて、私が起草した「琉球人・アイヌ遺骨返還問題に見る植民地主義に抗議する声明文」が承認され、京都大学関係機関、琉球・京都・北海道の新聞社、照屋寛徳・糸数慶子・伊波洋一の沖縄県選出国会議員に送付された。奄美大島から本シンポに参加されていた大津幸夫氏は原井一郎氏とともに、「京都大の奄美人遺骨返還を求める会」を設立し、奄美諸島から持ち出され、現在、京大に保管されている遺骨返還を求める運動を始めた。

3.脱植民地化を目指す遺骨返還運動
琉球人遺骨の盗掘とその保管は、研究における倫理上の問題、国内法や国際法違反であるとともに、琉球人の信仰、生活、習慣に対する破壊行為、人権侵害問題である。京大は琉球人遺骨を「コレクション、標本」等の研究対象物として取り扱っているが、琉球人にとって遺骨は、伝統的な信仰、生活、習慣にとって不可欠のものである。先祖の骨が本来あるべき場所から離れ、供養が受けられないことは祖先と子孫との紐帯を断ち切り、琉球人の精神的生活を危機的事態に陥れることになる。
琉球人は遺骨を門中等の親族墓である亀甲墓,破風墓、洞窟墓等で埋葬する。清明祭や十六日祭等の先祖供養の儀礼において祖霊と交流し、門中や親族間、先祖と子孫との絆を強めてきた。琉球人にとって遺骨は先祖のマブイを象徴するものとして不可欠な存在である。研究者が自由に琉球人の遺骨を持ち出し、博物館や大学に保管することが許されるなら、琉球人の信仰、慣習、生活は存立できない。
琉球人は生きている間、米軍基地問題のように植民地支配の犠牲者である。同時に、死してニライカナイに行ってからも日本による植民地支配を受けている。遺骨返還、先祖供養を京大つまり日本政府が拒否できる体制下に琉球人は生きることを強いられている。琉球人を生死にかかわらず支配し、利用しようとする日本の帝国主義、植民地主義から脱却しない限り、琉球人は徹底的に、永遠に生死を超えて搾取されるだろう。
琉球人の自己決定権、遺骨返還と再埋葬という国際法で保障された先住民族の権利、憲法で保障された信教の自由や知る権利、アイデンティティーの確立、そして琉球独立にとって百按司墓琉球人遺骨は政治的象徴性を有するようになった。遺骨問題は琉球人の過去を現在に浮上させ、脱植民地化という琉球人の未来とも直結している。琉球国の礎を築いた先祖の遺骨が琉球人のやり方で埋葬、供養されないという不正義がいまだに解決されていないのである。
遺骨は人体の一部である。遺骨の再埋葬によって遺骨は「モノ」から「人」になり、生者との関係性が回復され、遺骨は「死者から祖先」になる。遺骨返還によって琉球人は自らの過去を自らの言葉で語ることで主体性が回復される。琉球人は研究の客体から日本人と対等な主体になろうとしている。
京大は現在にいたるまで私からの質問、返還要求に対する回答を一切拒否している。京大が日本の植民地になった琉球の人々から同遺骨に関する問い合わせや返還要求を無視することは、日本の帝国主義、植民地主義か?現在も続いていることを意味している。私は京大総長を被告とする「琉球遺骨返還請求訴訟」を行うことを決意した。裁判では遺骨の返還を求めるとともに、日本の琉球に対する植民地支配について明らかにしたい。第一尚氏門中関係者、利害関係者等によって構成される原告団を組織し、丹羽雅雄氏・ 普門大輔氏・定岡由紀子氏等の弁護団や照屋寛徳議員、「命どぅ宝 琉球の自己決定権の会」 等の協力を得ながら裁判の準備を進めている。

<資料・2>
琉球民族遺骨返還訴訟・意見書への 【解題】

板垣竜太(同志社大学教授)


2018 12 4 日,琉球民族の5 名が,京都大学の総合博物館で保管されている26 体の遺骨の返還を同大学に求めて,京都地裁に提訴した。この遺骨はいずれも沖縄県国頭郡今帰仁村に位置する百按司墓に由来するものである。原告5 名のうち2 名は,第一尚氏の子孫として,この墓の祭祀承継者にあたる。3 名はそうした意味での祭祀承継者ではないが,「琉球民族であり先住民族」として原告に名を連ねた。
この原告団の構成に,既に「琉球民族遺骨返還請求事件」裁判の性格がよく表れている。この民事裁判の法律上の争点は,被告(京都大学)が遺骨の占有権限を有しているかどうか,返還を拒否していることが不法行為を構成するかどうかにある。ただ,訴状によれば,原告は所有権をめぐる訴えを通じて,より「本質的」なことを問おうとしている。すなわち,京都大学の返還拒否の背景と原因が,明治維新以降の日本国家による琉球王国の解体と植民地化の歴史,戦後も継続する日本国家と大学による琉球・沖縄差別にあるということ,訴状の端的な表現でいえば,「学知の植民地主義」を法廷で問うことこそが本訴訟の「本質的事項」である。したがってこれは,「植民地支配と植民地主義に対する歴史の清算を問う訴訟であり,琉球民族であり先住民族としての自己決定権と琉球民族・先住民族としての民族的・文化的・宗教的アイデンティティの権利の行使としての訴訟」である。だからこそ,民法上の祭祀承継者や遺骨の所有権の主張に加えて,先住民族の諸権利を定めた国際人権法を根拠とした訴えを起こしたのである。
それに対して被告京都大学は,確かに当時助教授だった金関丈夫が沖縄で人骨を収集したが,それは「沖縄県庁の学務課担当者」や「沖縄県警察部長」を通して手続きをおこなったのだから盗掘ではない,百按司墓の祭祀承継者は久しく絶えていた,返還する法的根拠はない,(そもそも京大は原告に遺骨を見せることすら拒否しているというのに)原告が所有権を有しているというならそれを原告自らが主張・立証すべきだなどと,それこそ「学知の植民地主義」を体現するような答弁書を出してきた(2019 3 1 日)。国外の多くの研究機関や博物館が,先住民族や植民地化された地域の諸民族から奪った人骨を返還している流れに逆行するような,真摯さを欠いた組織防衛的な対応だった。

私がこの裁判に関与することになったのは,本意見書にも書いたような人類学と植民地主義という私の研究上の原点となるテーマに関わるから,というだけではない。ここで,意見書にはあえて記さなかった経緯を明かしておこう。
私は,「ポチの会」という名の小さな研究集団の一員として,10 年以上にわたって1-2
1 回は奄美大島に行き,奄美郷土研究会の方々と語ったり,地元の資料を整理したりといったことをおこなってきた。その関係で,2018 1 月,名瀬の古本屋の店主である森本眞一郎氏に案内していただき,笠利地域の隆起珊瑚礁の横穴を利用してつくられた古い墓をお参りした。その頃には既に琉球民族の遺骨返還運動が起きつつあったので,「なるほど,沖縄では金関丈夫がこういう墓から遺骨を持ち去ったのだな」などといった会話も交わしていた。ところが,その直後の2018 2 月,大津幸夫氏と原井一郎氏を中心とした奄美大島・徳之島・喜界島の3 島の遺骨返還運動が立ち上がった(「京都大学収蔵の奄美人遺骨問題への対応について」2018 2 11 日)。遺骨が持ち去られた墓のなかには,私たちが参った墓も含まれていた。私は,自分の目では「見ていた」のに問題としては「見えていなかったこと」に気づくとともに,琉球民族遺骨返還運動をどこかまだ他人事として考えていたことを痛く反省した。
そこで,京都に住み,奄美にも関わってきた者として,また人類学という学問分野に片脚を置くとともに,植民地主義批判を研究の基軸としてきた者として,まずは1930 年代の京都帝大の人類学者による奄美の調査がいかなるものだったかを調べることからはじめ,2019 3 月に奄美郷土研究会で発表をおこなった。
ところが,その調査過程で,思わぬことが判明した。奄美3 島から遺骨を持ち去ったのは,京都帝大医学部の病理学者にして人類学者の清野謙次研究室の三宅宗悦だった(三宅の奄美3島およびトカラ列島での人類学的調査については,別稿でまとめる予定である)。三宅は1933 12 月に奄美大島の笠利で集中的に人骨を集めたのちに,名瀬にいったん戻り,そこから沖縄本島に渡航してさらに人骨を集めた。清野謙次人骨コレクションでは収集順に通し番号を振っていたが,奄美大島の人骨と沖縄本島の人骨は一連の番号が振られていた。そして本訴訟で返還請求対象となっている26 体のうち25 体は,まさにこの清野コレクション中の三宅収集分だった。もちろん,金関丈夫がそれ以前の1929 1 月に沖縄本島各地で人骨を収集したことは間違いないが,金関はその後赴任した台北帝大にそれらを全て持っていった。
一方,裁判の方は,京大の総合博物館にある琉球民族遺骨が金関収集によるものだということを前提に進んでいたし,被告側もその事実自体を争ってはいなかった。すなわち,基礎的な事実関係の誤解のうえに裁判が進行していた。私は奄美の方面からこの問題にアプローチしたために三宅宗悦という人類学者について調べることになり,その関係でたまたまこの誤解に気づくことになった。事実認定に関わるので,これは是正されなければならないが,私としては,裁判に悪影響を及ぼすことは避けたかった。
そこで私は原告団や弁護団とも適宜情報を交換しながら,京大や国立台湾大の琉球遺骨の来歴について,さらに慎重に調査を進めた。2019 9 月に開かれた琉球遺骨返還請求訴訟・琉球合宿にも参加し,その場で,それまで調べた事実関係と私の認識を披露した。京大に現在ある遺骨が,これまで言われてきたように金関収集によるものではなく,ほとんどが三宅収集によるもので,それが明らかになったことによって問題が複雑化はしたものの,琉球民族の遺骨をめぐる京都帝大−京都大学の責任はむしろ深まった。私はそうした旨の報告をおこなったが,原告団・弁護団・支援者の理解を得られたと思う。
こうした経緯もあって,弁護団からの鑑定意見書の提出依頼に対し,私は二つ返事で引き受けた。そうして書き上げたのが,本意見書である。
私が意見書のなかで留意したのは,人骨の大量収集が「異常」な個人の「逸脱」行為としておこなわれたというよりも,むしろ「正常」な「科学的」営為として集団的におこなわれたのを示すことだった。「純粋」な科学は,ときに倫理や法令をもこえて突き進む。特に住民集団の意志を軽視できると考える植民者エリートのポジションからは,科学の歯止めとなるような倫理や法の制御が働かなくなっていく。そうした点を客観的に論証しようと心がけた。そのことは,学問のあり方に植民地主義が根深く体制化されており,それが歴史的に構造化されてきたことも示唆するものである。だからこそ,その構造を意識的に解体していこうとしない限り,植民地主義的な体制と思考は再生産され続ける。この裁判が,そうしたことを考えるきっかけとなり,変える契機となってほしいと願っている。


 2020 年4 月7 日付で京都地方裁判所に提出した鑑定意見書