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(民衆闘争報道 <元沖縄県知事・大田昌秀さんが語る「沖縄の心」>講演記録 <その2
 2013630日)

 

元沖縄県知事・大田昌秀さんが語る「沖縄の心」>講演記録 <その2

 

―この講演記録 は、三回に分けて連載しています―

 

 

●日本軍は、沖縄語しか話せない老人達を、スパイとして「処分」した。

●朝鮮戦争の出撃基地となった沖縄で、基地・演習場の拡大のための強制的土地取り上げにより、農地を奪われた多数の農民は、「移民」として南米・ボリビアのジャングルに追いやられた

●復帰後も「基地の自由使用」と「核兵器の自由持ち込み」を確約させた米国。

●辺野古移転が、巨大な建設費を日本が肩代わりする事になる事実を、知らない国民−隠す政府。

●エストラーダ・フィリピン副大統領「米軍基地撤去は、主権国家としての誇りである」

 

 

△写真上 講演する元沖縄県知事 大田昌秀氏 [出処・柴野貞夫時事研]     

 

△写真上 辺野古移転に反対し、海浜に座り込む沖縄住民[出処・柴野貞夫時事研]     

 

日本軍は、沖縄語しか話せない老人達を、スパイとして「処分」した

辺野古の基地は、どんな経緯(いきさつ)で生まれてきたのか、日本政府は発表していませんが、私は知事時代を含め、米国に20年間通いました。米国立公文書館があります。そこで沖縄関係の資料(フィルム、文書など)を集めました。私は県に「公文書館」を作り、米国立公文書館に県の職員を9年間張り付け、沖縄問題に関する米機密文書を、解禁されたもの毎に、県の「公文書館」に移して集め続けました。
その中に、辺野古の問題が出てきました。辺野古問題は、多くの方々はつい最近の問題と思っているかも知れません。しかし、日米両政府の間で、沖縄復帰の話が出始めた1965年から、既に出ていました。
話が少し飛びますが、米軍に対する沖縄の住民感情は、1953年までは極めて友好的でした。どうしてかと言いますと、沖縄戦で日本の兵隊より米国兵に助けられた人々が多かったからです。

例えば、昭和2041日に米軍が沖縄に上陸しました。49日、首里城の地下30mに日本軍守備軍司令部の壕がほってあり、そこに普通は15003000名程度の将兵が入っていました。その壕は、我々学生隊が、軍の工兵隊と一緒になって朝・昼・晩三交代で掘った壕です。そこでは、3000名の将兵に日々の命令を出す為のタプロイド版の小さな新聞が発行されていました。

昭和2049日付には、「今日から後、軍人であろうとなかろうと、日本語以外の言葉で話しをする事を禁止する。沖縄語で話をする者は、間諜(スパイ)として処分する」と言う命令が出ました。

55日になると、参謀長の署名入りで同じ命令がでました。

沖縄の当時65歳以上の人は、日本語を良く知らない訳です。方言でしか話せないのです。本土から来た日本軍将兵は、沖縄語が全く理解出来ないものですから、沖縄語を話す老人は、何を話しているか分からないのです。方言を話すだけで利敵行為と看做されスパイとして日本軍に命を奪われたケースがずいぶん出たのです。

 

    

△写真上 日本国家は、スパイ養成組織・「陸軍中野学校」のメンバーを、沖縄住民監視のために学校その他に潜入させていた。

 

 

△写真上 日本軍は、種々のスパイ容疑の名目で、沖縄住民を虐殺・処刑していた。(上は、久米島事件の例である)

 

一方米軍は、沖縄戦が始まる2年前から、ニューヨークのコロンビア大学で、エール、ハーバード、プリンストン、スタンフォードの教授等を動員して「沖縄研究チーム」を作り、あらゆる面から徹底的な沖縄研究をしていました。その時に米軍は、“沖縄には方言しか話せない高齢者が沢山いる”との情報から、ハワイ在住の沖縄出身2世や、サンフランシスコにいる沖縄2世の中で方言を理解する人々だけを招集し、特別方言チームを作り、沖縄戦場に送りこんだ。濠の壕の中に潜んでいる年寄り達を、方言で救いだす事をしました。また別に、戦車部隊に1015人が配属され、沖縄住民を安全な場所に移すチームを作りました。沖縄住民を救いだすチームが、ピーク時には5000名も居ました。

そのために、沖縄住民の犠牲者の数は比較的おさえられたのです。そうでなければ、3倍に増えていたと考えられます。又、10万人分の食料,衣料、医薬品を、沖縄住民1年分の生活維持に使った。沖縄住民は、辛うじて生命を繋ぐ事ができたのです。これらの状況から、1953年頃までは、婦女暴行事件など、米軍による犯罪・事故などはあったのですが、トータルとしては、米軍への住民感情は「友好的」と言えました。

●朝鮮戦争の出撃基地となった沖縄で、基地・演習場の拡大のための強制的土地取り上げにより、農地を奪われた多数の農民は、米国によって「移民」として南米・ボリビアのジャングルに追いやられた

しかし、1953年の朝鮮戦争の勃発によって、戦争に備えた基地・演習場の新設、拡張の為に、土地収用令による農地の強制的取り上げが続発しました。

沖縄は、産業的に見ると80%は農家なのです。農家にとって土地を失う事は生きて行けないと言う事です。

土地を取り上げられた農民は、沖縄東海岸のテント小屋に集められ、惨めな生活を強いられました。米国は、強制取り上げで農地を失った沖縄農民を、「沖縄移民」として、世界に受け入れ先を求めたのです。南米ボリビアだけが、「沖縄移民」を受け入れました。次々に、500世帯の単位でボリビアに送り込んだのです。しかし、ボリビアに田畑があるわけでもなく、ジャングルを切り開くのですが、移民だけに罹る病気などで、悲惨な状況に置かれました。

このような、米軍政下での農地強制収用はもう我慢ならないと、1953年から1958年まで、沖縄の歴史始まって以来の反基地闘争、島ぐるみの土地闘争が開始されたのです。

 

 

△写真上  2012・1223日の「怒りの御万人大行進」沖縄会場で。 [出処・柴野貞夫時事研]   


●沖縄の日本への復帰は、「日本国憲法の下に帰る」事であり、沖縄住民の基本的人権の侵害を許さない事である


27年間、日本と切り離され米軍政下に置かれた沖縄は、日本国憲法も米国憲法も適用されず、沖縄県民は基本的人権・教育権・労働権、すべての人権を失ってきました。憲法が適用されないと言うのは、どう言う事かおわかりですか?

人間が、人間らしく生きる事が出来ないと言う事です。沖縄住民は、軍政下の憲法が適用されない状況下で、一つ一つ土地闘争を、財産権を守る戦いとして勝ち取ってきたのです。ですから復帰運動は、「日本憲法の下に帰る」をスローガンにして続けてきたのです。

米軍は、もし沖縄が日本に復帰した場合、日本国憲法の下に置かれると、沖縄住民の権利意識がますます高まり、一番重要な基地の運用が困難になる事を大変心配しました。

先述しました様に、1972年の沖縄復帰後も日本政府が法律を変えて、沖縄県民がいくら反対しても、国家が勝手にサインすれば土地を軍事基地にする法律をつくったのも、このような県民の反基地、土地闘争の歴史があるからです。

●沖縄の本土復帰前に、辺野古移転を含む「基地再編」を計画し「基地の自由使用」を約束させた米国

米国は、1965年頃から、沖縄の本土復帰を見越しながら、この19531958年の県民の反基地、土地闘争に恐れをなして、復帰前に基地の再編を進めておかなければならない、基地の運用が困難になってはならないと考えていました。

米軍の一番重要な基地は、嘉手納以南の那覇に一番近い所に集中しています。キャンプ金山と言って裏沿いに倉庫地帯があり、普天間飛行場もあり、キャンプ・ズケラン(瑞慶覧)と言って米軍司令部のあるところもある。

米軍は、それまでは、基地の自由使用が勝手に出来たわけです。住民の財産を取り上げて、核兵器も自由自在に持ち込んでいましたが、それが出来なくなる事を心配したわけです。

それで米国は、日本政府と密約を結んで復帰後も「核の持ち込み」と「基地の自由使用」を出来る様にしました。

1966年の段階で、米軍は嘉手納以南の一番重要な基地が、日本に復帰したら使えなくなると考え、一まとめにしてどちらかへ移そうと計画を立てたのです。

西表(イリオモテ)から北部の今帰仁(ナキジン)港、本部(モトブ)港まで全てを調査させ、最終的に大浦湾(辺野古)が一番良いと、図面まで作成していた。196667年、米国・マニング社と言うゼネコンに頼んでいました。

ところがこの時期、ベトナム戦争の真最中で、米国は戦費が重なり金を使いすぎて、「安全保障条約」は沖縄に適用されていないから、「移設費」も「建設費」も「維持費」も、米軍が自己負担しなければならなかったのです。

しかし、日米密約で、復帰後も「基地の自由使用」「核兵器の持ち込みも自由」となったものですから、66年、67年、作って置いた普天間飛行場の代わりの滑走路のブループリントなどが出来ていたのに、放置されたままになっていたものを、40数年ぶりに息を吹き返すこととなったのです。今度は米国にとって幸いなことに、移設費も、建設費も、維持費も、すべて皆さんの税金で持ってもらう事になると言うわけです。しかも「思いやり予算」まで付けてやると言うのですから、米国にとって、こんな有難い話はないのです。

●普天間基地の辺野古移転に対する、米国と日本の「報告書」には大きな違いがある

日本政府は、1995年の少女暴行事件が起きて、「沖縄問題特別行動委員会」を作って「報告書」を出しました。米国も「サコ」を作って「報告書」を出しました。しかし、この日本と米国の「報告書」の内容は、ずいぶん違っていました。

日本政府は、普天間基地の規模を“今の5分の1に縮小して造る”とし、移転期間は“5年〜7年掛る”。費用は“5000億以内で”と言うものであった。

現普天間飛行場は、2400m〜2800mであるが、最初の移転計画では滑走路の長さを1300mに縮めたわけです。前後に100mの緩衝地帯を設けるとした。

これを、私の次の知事が、軍民共用基地を作ると言う事で引き受けた。私は心配して「軍民共用」となったら、滑走路の長さは2000m以上なければジェット機は飛ばせない。1500mでなく2000m以上になるだろうと懸念していたら、案の定そうなってしまったのです。これも又こじれてしまって、当時の額田防衛長官は、受け入れ派の名護市長と裏話をして、1800mの滑走路を二つ作る。X字型に作ると言う案が出てきました。そうすると日本政府は、この予算は5000億ドルで出来るとしました。

しかし、米国防省の最終報告書を読みますと、辺野古に作る基地は「運用年数40年間、耐用年数200年の基地を造る」と書いてある。又先ほど触れました様に、MVオスプレイを24機配備するとした。アメリカ本土で何度も事故を起こしまして、未亡人製造機と言うネーミングが付けられた欠陥飛行機です。「建設期間に10年を要し」、しかもオスプレイが危険なものだから、「安全の為に二カ年間の練習期間が必要である」と、従って辺野古に基地を造っても、「実際に使い始めるには10数年は掛るだろう」と書いてあります。

60年代に米軍が計画し自分達の負担で出来なかった辺野古を、日本の負担で造ると言う日米政府。辺野古移転が、巨大な建設費を日本が肩代わりする事になる事実を、知らない国民−隠す政府。

さてそうしますと、建設費用の問題ですが、日本政府は5000億以内と言ったわけですが、実際には米国はどのように考えているのでしょう。

米普天間基地で発行している<マリンガゼッタ>と言う、海兵隊の機関新聞があります。そこに海兵隊中隊長をしているロバート・ハミルトンと言う男(今までに論文を6本ほど書いている)が、“この辺野古に造る基地は、安全保障問題と全く関係の無い基地だ”と書いている。どう言う事かと言うと、“日本の鉄鋼業会が韓国の鉄鋼業会に追い抜かれる事態になって、日本の鉄鋼業会を救う為の政治的配慮として造ろうとしている基地だ”と言っています。何万本と言う鉄柱を打ち込み、鉄の函を繋ぎ合わせ、厚い鉄板を敷き滑走路を造ると言うのです。

現普天間のヘリ部隊は、機体を2週間に1回ずつ真水で洗浄しています。ヘリは合金で出来ているので真水洗浄しないと腐食してしまいます。辺野古は海上基地であり、また練習を繰り返すわけですから、ほとんど毎日でも洗わなければなりません。

自衛隊OBの佐藤某は或る論文の中で、1機洗浄するのに真水4tが必要だ。100機規模(ヘリ全体の機数?)だと毎日400tの真水が必要になって来る。沖縄は、一年中水飢饉なのに水をどこから持ってくるのかと言っています。
1度に2機を洗うとすれば、基地に巨大なタンクをたくさん作らなければなりません。しかし沖縄の海兵隊の連中は10代後半から20代の遊び盛り,食盛りの連中ばかり。 食堂も兵舎も海の上、バー、クラブも作れば倉庫も必要で食糧倉庫も要る。関西空港規模の海上基地となる。予算は、1兆〜1兆5000億円かかると言っているのです。それは全て、日本国民の税金で賄うと言うのです。辺野古問題は、決して他人事ではなく、全くみなさんの税金での負担なるのです。 
しかもこれは、60年代に米軍が計画し自分達の負担で出来なかったものを、40年ぶりに日本の負担、みなさんの税金に頼って造ると言うのです。ほぼ関西空港なみの規模となるのですが、ロバート・ハミルトンは、その論文で皮肉たっぷりに言っています。“辺野古は、世界で2番目に海底に沈む基地になる”と。鉄の函と函を繋ぐリングが日本でも米国でも出来上がっていない。米が北欧の会社にたのんでいるが、まだ完成していない。真珠湾に次いで2番目に沈む基地となるだろうと書いています。

一貫して国民に嘘をつき、沖縄の治外法権的現実を容認する日本政府

こんなものを、日本政府は造ろうとしています。その中身を皆さんに知らせないまま、普天間の移設が語られている。

オスプレイについても、我々沖縄の人間から申しあげますと、沖縄・辺野古に配備される事実は、その時点ではっきりしていたのです。

しかし、皆さんが先程見られた映画(「標的の村 〜国に訴えられた沖縄・高江の住民たち〜」の上映)で、防衛省の役人の回答でも、「知らない」と嘘をついていたでしょう?日本政府は、一貫して国民に嘘をついてきたのです。日本が、講和条約締結をした時、沖縄はまだ米軍政下に置かれて、憲法の適用も受けられないにも拘わらず、日本本土では「日本が主権を回復した」などと言って、日本には、沖縄などなかったかの様に「お祝い」をすると言う有様です。

普天間周辺には、幼稚園から大学まで16の教育施設があります。ここに(地図上を示しながら)普天間小学校があります。ここはクリアゾーンと言って本来一切の建物を禁止しているところです。子供達は爆音で声が聞こえない、勉強出来ないと言う状況です。沖縄国際大にヘリが墜落した時の事を、皆さんは覚えていらっしゃると思います。我々が現場に飛び込んで行ったら、米軍は一切中に入れない。沖縄の警察も中に入れない。これが沖縄の治外法権的現実なのです。米軍は、沖縄では何でも出来ると言う実態を示しています。

●「基地撤去によって、主権国家として誇りを取り戻す事が出来た」と言うフィリピン副大統領

フィリピンの「キュービック」或いは「クラーク」と言う米軍基地が返還された時、私はフィリピンに行き調査してきました。

フィリピンは、沖縄より、遙かに基地依存度が高いにも拘らず、それでも基地の撤去に向かいました。当時副大統領だったエストラーダさんと会いました。

私は彼に“基地依存度が高いのに、良く撤去させましたね。”と言いますと、彼は、“経済は確かに厳しいが、しかし我々は、主権国家としての誇りを取り戻す事が出来た。”と言いました。私はその一言に感動しました。

撤去されたキュービック基地には、巨大な弾薬庫跡がありました。そこにフィリピンの若い女性達が200台のミシンを備えて、高級服を縫製し、ロンドンやニューヨークに輸出していると言う話を聞いた時に、私は、沖縄の反戦地主達が戦争と結びつく軍事基地に土地を提供するのでなく、人間の幸せに結びつく生産の場にしたいと言ったことを思い出しました。これこそ、反戦地主達が希望した事であると言う思いを深くしました。(続く)

 

 
参考サイト>

民衆闘争報道/元沖縄県知事・大田昌秀さんが語る「沖縄の心」 講演記録(その1) 
2013年6月30日)


民衆闘争報道/<山城博治さんと語る会>の案内(2013年3月29日)

論考/オスプレイ沖縄配備と、規制なき米軍基地の実態を暴く2012年10月10日)

論考/日米安保条約と日米地位協定の歴史と、その反憲法的・反民衆的本質(2012年11月1日)


民衆闘争報道/「高江・辺野古につながれ!沖縄の課題を私達の課題にする11・25奈良集会」 が開催された(2012年11月27日)