(民衆闘争報道/ラムザイヤー論文にたいする経済学者の連名書)
「太平洋戦争における性契約」について憂慮する経済学者による連名書
1. 根拠なしに状況を「契約」問題として捉えている
インターナショナル・レビュー・オブ・ロー・アンド・エコノミクスは先日、J.マーク・ラムザイヤーによる論説「太平洋戦争における性契約」を掲載した。第二次大戦中に日本帝国軍が設営したいわゆる「慰安所」において、若い女性や多くは十代の少女が自発的に契約し売春を行っていたという主張を試みるこの論説には、オサキという名の日本の少女についての下りが含まれている。「オサキが十才を迎えた時に募集者がやって来て、海外に行く事を承知すれば前払いで三百円渡すと申し出た。募集者が彼女を騙そうとしたわけではない。十才という年齢であってもその仕事がどんなものか彼女には分かっていた。」(4頁目) しかし実際に売春宿のオーナーはオサキを騙したのであり、もし論説に描かれた通りの状況であったとしても売春婦になる事に十才の子供が同意できるとここでは論じられている。この論説は、これらの若い女性や少女が耐え忍んだ過酷な状況がゲーム理論の手法を使って理解できるものであると主張する事により、上記経済学の学術誌とおよび学問分野としての経済学双方の評価をおとしめている。
我々は、この論説の学術的基準、規範、倫理の違反が単なる学問上の失態あるいは過誤をはるかに超えるものと考え、故に学術誌への反論投稿という通常のやり方ではなく、経済学業界そしてそれを超える社会に向け本書状を作成した。著者は経済学、より具体的にはゲーム理論そして法と経済学を利用し、恐ろしい非人道的行為を正当化する口実に仕立てている。我々は、自身たちやその他の研究者の教育が先ず最も重要であること、そして一度事実を理解すれば、分別ある学者なら誰もがこの論説を非難し、更に撤回を求めるであろうことを信じるものである。
とはいえ、我々が論説に関して憂慮する点をはっきりさせておく必要があるだろう。我々は学問の自由に尽力している。経済学者として我々が最も憂慮するのは、この論説が経済学の言語を利用し一切根拠のない歴史的主張を試みている点だ。我々はインターナショナル・レビュー・オブ・ロー・アンド・エコノミクスの編集者一同に対し、必要なあらゆる是正手段を用いて以下に述べる憂慮点に対処する事、また掲載決定の過程と学術的基準について説明する事を要求する。我々の学問分野には学術的および倫理的な基準が維持されるべきであると我々は考える。よってここに、同僚に対し署名と書状の拡散を求めるものである。
背景
「慰安婦」とは、第二次世界大戦中、大日本帝国陸軍によって性奴隷となることを強いられた若い女性と少女を指す婉曲表現である。その殆どが年齢11才から20才までであったのこの女性や少女達の出身地は、朝鮮、中国、日本、台湾、フィリピン、インドネシア、オランダ等であった。戦前及び戦時中に日本の占拠下に置かれた国や地域に存在した何百という「慰安所」に、官憲の監修の下、日本軍の船で女性達は移送された。人員募集の手段として、誘拐、詐欺、脅し、暴力等があった事は史実に示されている。「慰安所」の中で女性は、連続強姦、強制堕胎、肉体的拷問、また性病感染を余儀なくされ、その行為によりおよそ75%が死亡したと推定されている。奴隷とされた推定人数は何万人から何十万人と様々である。この非人道的行為の真の重さについて全貌は知られていないが、当事者の女性による証言や陳述そして学術史によって性奴隷の存在は実証され明確に文書化されている。
最も重要なのが1993年の河野談話で、この若い女性や少女達が「本人の意思に反して集められた」、また「慰安所における生活は強制的な状況の下での痛ましいものであった」、更に日本の「軍当局員が募集に直接関与していた」ことを日本政府が認めたことだ。合意済みのこの事実は更に国連、アムネスティ・インターナショナル、米国議会でも確言されている。この非人道的行為を否定する事は、普遍的に受容されていないことによる孤立感と相まって、激しくまた体の奥底に衝撃的な痛みを生じる。それを体験し直接影響を受けた多くの勇敢な女性達は、今も残る生存者を含め、これまで何十年も呼びかけを行って来た。この勇敢な女性達、そしてその痛みを分かつ多くの人々や機関にとって、起こった事を否定し歪曲する事は彼らを深く傷付ける行為である。
また、2015年には約200名の日本研究者が「どれくらい直接的に日本軍が関与したのか、女性たちは「慰安婦」になるように強制されたのか、ということについて一部の歴史学者が議論しているが、多くの女性たちが本人の意思に反して拘束され、恐ろしい残虐行為の対象となったことが証拠により明らかにされている。」と記された公開声明に署名した。
十分な記録があり、広く認知された歴史的残虐行為の否定は、非常に協力な証拠を必要とする。第二次世界大戦中の朝鮮と世界その他の地域での性奴隷制度の否定が、ゲーム理論をちらつかせることで、法経済学の学術誌内の8頁の論文で議論されていること自体、目を疑うものである。
ラムザイヤー氏論文が主張すること
ラムザイヤー論文は、若い女性や少女たちが借金返済のため、自主的に年季奉公のような労働契約に応じ、その契約では労働への意欲がわくよう動機づけが十分に提供されていたとを示そうとしている。特に、それらの契約は日本帝国軍や日本帝国政府が関与したものではなく、民間の業者によって行われたものであり、若い女性や少女たちが参加するように多額の前払い金と短期的な契約期間を含んでいた、と主張しようとした。筆者は「その契約自体は『信頼できるコミットメント』というゲーム理論の法則に従っている」と主張する。(7頁)
経済学者にとって(ゲーム理論のような)モデルを使ったフレームワークは重要である。なぜならそのフレームワークは、通常我々が踏むべき適切な証明プロセスの許す限りにおいて、問題となっている事象の根底にある真実を示すとされているものだからだ。経済学者の「契約」論理の使用は、多くの状況においてアクター間の関係性の力学の説明に役立つ。しかし、「契約」論理というフレームワークを用いるためには、その論理を裏付ける証拠がなくてはならない。
日本軍による女性の奴隷化を「契約」問題として捉えることで、筆者は「慰安所」にいた女性たちの間では自発的な契約関係が一般的で代表的なものだったことが、問題の真実を表しているのだと主張する。この仮定が筆者のモデルの中心を占めるものであるにもかかわらず、主張を正当化する証拠が論文においては提示されていない。その論文の引用において最も関連のある証拠は、日本で営業されていた公娼制度下の売春宿のものである。論文では、正当な理由や根拠なしに世界中の「慰安所」について単純にこれらの前提を当てはめている。ハーバード大学日本近代史教授のアンドリュー・ゴードンと、ハーバード大学朝鮮史教授のカーター・エッカートは、「朝鮮で朝鮮人女性と結ばれた契約の証拠がないということは、読者は正当な理由なしに、それらの契約は日本人女性のものと同じだったと想定することを求められている。」と述べている。オーストラリア国立大学の日本史名誉教授であるテッサ・モーリス・スズキは「ラムザイヤー教授は『慰安婦』と彼女の雇用主との間で交わされた契約書の証明を一つも提示しておらず、彼の主張するような契約に署名したという元「慰安婦」の証言や、そのような契約があったとする第三者の目撃証言も引用していない」と述べている。
もし仮に、そのような署名された契約書が存在したとしても(歴史学者たちは、論文の引用元からその根拠となる証拠を確認できなかったが)、この問題を契約問題としてみなすことを正当化するものではない。「契約」という言葉は、人類の歴史の中で、強圧的・略奪的関係の隠れ蓑として使われてきた。今日においても、性的奴隷やその他の形態の奴隷を含む人身売買はしばしば他国からの違法な密入国を伴うが、それらは多くの場合、どこの法制度であれ認められがたい、被害者を騙し強制する道具としての「契約」の形態を伴っている。
2. 女性たちが同意していたという仮説について
論文では、若い女性や少女たちの契約への関与は自発的だったと主張している。論文の7頁では、筆者は単純に「女性たちは同意していた」と明言している。仮に自発的な同意が存在した場合があったとしても(論文の中では信頼性のある根拠は提示されていないが)、この大雑把な主張の根拠はない。実際に、オサキの例は反対のことを示している。1896年以来、日本の民法において20才未満は自分自身で契約をすることはできなかった。まともな法学者はこのエピソードをもって同意とはみなさないだろう。
一方で、同意がなかったとする証拠は元「慰安婦」たちの証言や記述によってたくさん存在する。例えば、1940年、16才の文玉珠は、歩いて家に帰る途中で「日本軍の制服を着た男に腕を掴まれ、何かを呟かれた。そのころはみんな警察を恐れていたので、私はその男について行った」。文はロシアの国境近くの中国の東安省に連れて行かれた。「3日目、所有者が私たちをそれぞれの部屋へ割り振った…その日、私は処女を失った。目の前の全てのものが闇に包まれたようだった。私は泣いて泣いて…そこにはたくさん兵士がいた。私たちは20人から30人を一日で相手にしたと思う」。1941年、文は家に返してくれるように、ある将校を説得した。ところが1942年、文はレストランで働くことを期待していた300人から400人の女性と一緒に船に乗った。船がミャンマーに到着した後、「3日経って、兵士たちが大量に押し寄せてきた。私は家を離れるとき、どんな過酷な仕事も覚悟してきたが、まさか以前の生活繰り返すことになるとは思わなかった」と述べた。
1940年、袁竹林(Yuan Zhulin)は清掃員としての仕事を申し込んだが、騙された。「初めは仕事を見つけることができてとても嬉しかった。最初の困難を越えれば、より良い将来が訪れると思っていた。乗っていた船は約1日で鄂州に到着した。上陸するとすぐに、私たちは日本軍によって寺院に連れて行かれた。実際には、日本軍はすでにその寺院を慰安所にしていた。日本軍の兵士が警備で入り口に立っていた。私は、邪悪な見た目の日本軍に恐怖を抱き、そこに入りたくなかった。その時には、少女たちと私は何かがおかしいとこに気がつき、みんなが家に帰りたいと思っていた。私は泣いて、『ここはホテルではない。家に帰りたい』と言ったが、日本軍は彼らの持っていた銃剣で私たちを強制的に押し込んだ。」
3.女性たちは去ることができた、補償されたという想定について
文では、女性たちは「慰安所」からいつでも「逃げたり、姿を消したりできることを理解していた」(2頁)と述べている。その結果、女性たちは参加するための報奨として「気前の良い」(1頁)前払い金を提供されていたと論文は主張している。しかしながら、資料と証言は圧倒的にこの主張と矛盾する。1996年の国連の報告の中で、チョン・オクソンは「その駐屯地兵舎にいた半分以上の少女たちは殺されたと思う。私は2回逃げようとしたことがあったけど、2回とも数日後には捕まった。私たちはさらに拷問され、私は頭を殴られすぎてその傷は未だに残っている」と証言している。女性たちは逃れられなかっただけではなく、残虐に拷問され、時には彼女たちの状況に対する些細な不満を言っただけで殺された。チョン・オクソンは、「ある1人の朝鮮人の少女が、なぜ40人もの大人数の男の相手を一日中にしなければならないのかと尋ねた。日本軍司令官の山本はその発言の罰として、刀で彼女を殴りつけることを命じた。私たちが見ている間、彼らは彼女の服を脱がせ、手足を縛り、釘の打たれた板の上に彼女を転がし、その釘が彼女の肉片と血で覆われるまで続けた。最後には彼らは彼女の頭を切り落とした。」
さらに、筆者の主張するような「気前の良い」補償は実際にはほとんどなかった。韓国挺身隊問題対策協議会の2001年の調査によると、192人中104人の奴隷化された女性は、戦争中に金銭の支払いを受けていなかったことがわかった。これらの中で、192人中57人は死亡や連絡が取れないなどの理由により不明となっている。論文において「最も羽振りが良かった」と主張される文玉珠は、実際には戦争中やその後、1993年になっても、彼女のお金を引き出すことができなかった。黄錦周は「私たちは年に2回だけ服を受け取り、十分な食事もなく餅と水だけだった。私は自分の『奉仕』に対する支払いを受けなかった」と述べている。
4. 日本帝国軍と日本政府の免責について
論理も理由もなしに、完全に突拍子もなく、この論文は日本政府と日本軍を大々的に免責している。論文の5頁は、「しかしながら、この問題が何でなかったのかに注目してほしい。女性たちに売春を強要したのは、政府ではない?朝鮮政府でも日本政府でもない」と述べている。論文の中では、この主張を裏付ける根拠は提示されていないし、当時は日本が朝鮮を植民地化していたため、朝鮮政府などというものは存在しなかった。重要なことは、この主張は経済学を使用したこの論文のどの主張からも導き出されず、関連もしていないということである。また、この主張は、今までの多くの学術研究や、先に述べた1993年と2014年に再度確認された日本政府の認識とも矛盾するものである。関連する論説の中で、筆者はさらに踏み込んでこの残虐行為を「純粋なフィクション」であると呼んだ。
5. 経済学、ゲーム理論、法経済学の使用について
論文は、経済学の特にゲーム理論が彼の結論を正当化すると暗示している。論文の7頁で筆者は「契約自体は基本的なゲーム理論の『信頼できるコミットメント』の原則に従っている」と述べている。ゲーム理論の原則は、犯罪、刑罰や核戦争に至るまで、様々な強圧的な状況下を解釈するのに用いることができる。しかし、ゲーム理論の引用により、暴力的な搾取や略奪がなかったことを立証することはできないし、そのようなやりとりが合意の上だったと結論づけることはできない。ゲーム理論の原則は、このような論文の無謀な主張に対する魔法のようなカバーや権威を与えるものではない。この種ことは、信頼できるコミットメントやゲーム理論の原則から導かれるものではない。信頼できるコミットメントやゲーム理論は、第二次世界大戦中に日本帝国軍によって性奴隷にされた若い女性や少女たちが同意をした証拠がないことの代わりにはならない。そしてそれらは日本帝国政府と日本帝国軍の免責を裏付けるものではない。
結論
この論文がゲーム理論を明示的に引用し、法経済学の学術誌に掲載され、経済学の学問であると自身をみなしているため、私たちの分野とサブフィールドは被害を被り、私たちは専門家としてその論文や将来起こるかもしれない同様な試みに憤慨している。私たちの専門領域に入ろうとしているに若い学者たちは、この政府公認の性的強制システムの存在を否定し、10才の少女がセックスワーカーとして働くことに同意できるとする論文が、経済学の学術誌に掲載されることに大きな落胆を覚えるだろう。このような論文が掲載されることは、経済学が女性に歓迎的な分野となるための、どのような努力をも大きく損なうことになる。
以上に述べたような理由から、私たちはこの論文の主張の誤りを理解する学者は誰でも、この論文を批判し、撤回を求めるだろうと確信している。最後に、私たちはインターナショナル・レビュー・オブ・ロー・アンド・エコノミクスの編集者たちに、これらの憂慮に対応するために必要なあらゆる是正手段
を用い、掲載決定の過程 と学術的基準について説明する事を要求する。私たちは、単純に憂慮を表明し、反対意見を掲載するだけでは十分でないと考えている。
これは、誰かの学問の自由を制限するものではない。学問は論争を呼び、辛いトピックの分析を避けるべきではない。しかし、ある特定の歴史的出来事についての経済学的と主張する論文は、実証に基づいた歴史的主張の真実を十分に考慮しなければ成り立たない。私たちは、経済学者、ゲーム理論家、法経済学者に対して、学術的・倫理的基準を維持する責任を負うことを求める。
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