【平壌8月11日発朝鮮中央通信】
「維新」独裁の復活は絶対に許されない 朝鮮歴史学学会備忘録
「セヌリ党」(李明博政権与党)の連中の間で、5.16クーデターは「不可避な最善の選択」「今日の様にした、根本礎石」として、朴正煕「維新」独裁を正当化する妄言が公然と吐かれて万人を驚愕させている。
歳月がいくら流れても、身震いする「維新」独裁の悪夢は決して忘れられず、その罪悪を許すことができようか。
朝鮮民主主義人民共和国歴史学学会は、5.16クーデターの真相と18年間の朴正煕ファッショ独裁が果たしてどんなものであったのかを全世界に告げるためにこの備忘録を発表する。
5・16クーデターの真相
1961年5月16日の零時、当時傀儡野戦軍司令部所属の第6軍団砲兵大隊と第1空輸団、海兵旅団などにソウルを占領しろという出動命令が下達された。傀儡軍第2軍副司令官であった朴正煕逆徒と彼の一味が起こした5.16クーデターの序幕であった。
クーデター反乱軍がソウルの漢江橋南方の入り口に至ったのは、未明3時であった。
反乱軍がソウルに押し寄せるという情報を入手したかいらい陸軍参謀総長チャン・ドヨンの命令に従って漢江橋には傀儡憲兵隊が幾重にも陣を張っていた。熾烈な交戦で多数の死傷者が発生し、傀儡憲兵隊の防御陣は重武装した反乱軍により崩れてしまった。
第6軍団砲兵大隊は即時、傀儡陸軍本部を占領し、第1空輸団は傀儡国会議事堂、中央庁、市庁、治安局、中央電信局、「国務総理」の臨時宿所である半島ホテルなどを一挙に掌握した。
ソウルだけでなく、大邱、釜山、光州など主要都市も反乱軍によって一斉に掌握された。
傀儡海兵隊と空輸団を率いて漢江を突破した朴正煕逆徒は放送局を占領し、そこに指揮部を定めた後、行政、立法、司法を完全に掌握したということを発表した。
傀儡国務総理の張勉は、びっくり仰天して妻と共に米中央情報局(CIA)ソウル支部長の家に駆けつけて助けを頼んだが、門前払いを食って尼僧院へ逃避した。傀儡大統領の尹?善は家族だけ避難させ、青瓦台に潜らなければならなかった。傀儡閣僚はみな逮捕、拘束された。
朴正煕逆徒は、傀儡陸軍本部に閉じ込められている陸軍参謀総長のチャン・ドヨンに南朝鮮全域に「非常戒厳令」を宣布することを強迫したが、彼は合法的手順を受ける前には戒厳令を宣布することができないと拒絶した。
すると、逆徒は「クーデター自体が憲法を無視した不法な手段であるのに、なんの合法的な手順を踏むというのか」とし、自分が直接チャン・ドヨンの名を借りて「非常戒厳令」を宣布した。
そして、「大統領」の尹?善を訪ねて戒厳令宣布を承認し、クーデターを支持する声明を出すことを強要した。
戒厳令宣布により、張勉「政権」の国務委員全員逮捕、「国会」と地方「議会」の解散、政党、社会団体の活動と集会およびスト、旅行、夜間通行の禁止、言論、出版、報道の事前検閲、金融の凍結、空港と港湾の封鎖などの措置が取られた。
クーデター直後朴正煕逆徒は、「軍事政権は暫定的なものであり、早く良心的な政治家に政権を委ねてわれわれは軍隊に帰る」と唱えたが、実際は「政治活動浄化法」のような悪法で政治的ライバルの活動を弾圧する一方、密かに「民主共和党」をつくり上げるなどで執権の準備に狂奔した。
これが南朝鮮各界の強い抵抗にぶつかると、逆徒は1963年2月、欺まん的な「大統領」出馬放棄声明を発表しては、すぐ政界混乱と旧政治家退出を口実にして軍政延長を求める類例のない傀儡軍デモまで繰り広げる醜態の末、軍政を4年間延長するという「3.16声明」を発表した。
軍政延長に反対する在野勢力をはじめ各階層の闘争が再び高調すると、朴正煕逆徒は年内に民政移譲をするという欺まん的な声明を発表し、5月27日、クーデター主導勢力が中心になってつくり上げた「民主共和党」の「大統領」候補になり、10月15日には非常警戒の恐怖雰囲気のなかで詐欺の方法で「大統領」のポストにつくことに至った。これがまさに5.16クーデターの真相である。
朴正煕逆徒はクーデターで傀儡政権を強奪した後、7万人の反対派を粛清し、終いには、自分らが利用したチャン・ドヨンさえも、クーデター反対陰謀をめぐらしたという罪をかぶせて逮捕した。
5.16クーデターは徹頭徹尾、米国によって計画され、その背後の操り者も米国である
米国は、朝鮮侵略戦争で惨敗した後、南朝鮮で政治的混乱と危機が深化し、1960年に4.19人民蜂起が起きて李承晩「政権」が倒れると、強力な鉄拳統治で南朝鮮人民の民主化と祖国統一の熱望を押さえるために以前から目星をつけていた朴正煕軍事ごろを推し立ててクーデターを起こす陰謀をめぐらした。
当時、南朝鮮占領米軍司令官マグルーダーは、朴正煕逆徒に自分の管轄の傀儡軍武力をためらわずに動員させて、クーデターを起こさせては、傀儡陸軍参謀総長の連中がクーデターが起きたと報告すると、米軍は一切干渉するなという秘密指令を下達した。
マグルーダーと南朝鮮駐在米国大使代理グリーンは、「米軍を動員して反乱軍を鎮圧してほしい」という傀儡大統領尹?善の要請に対しても冷静に拒絶した。
それだけでなく、クーデターが起きてから即時、米国務長官代理ボルスは「新軍事政府を支持する」という立場を発表し、マグルーダーが直接クーデターの核心人物である金鐘泌に会って成功を祝った。
米大統領のケネディは朴正煕軍事「政権」を支持する「親書」まで送った。
当時、米中央情報局(CIA)長官であったダレスは後日、英国のBBC放送に出演し、「私が在任中CIAの海外活動で最も成功したものは5.16クーデターであった」と言った。
このように、5.16クーデターはいわゆる不可避の選択ではなく、米国のシナリオによる朴正煕逆徒の白昼強盗さながらの「政権」強奪であった。
逆徒の後を継いで軍事ごろである全斗煥、盧泰愚も、12.12粛軍クーデターを強行して「政権」を横取りした。
実に、朴正煕逆徒の5.16クーデターは南朝鮮を親米ファッショ軍事独裁の暗黒の地にさらに転落させた歴史の大悲劇であった。血みどろの「10月維新」1,972年10月17日、朴正煕逆徒は南朝鮮全域に「非常戒厳令」を宣布し、戦車と装甲車を駆り出して「国会」を解散し、一切の政治活動を中止させたのに続き、「維新憲法」をねつ造した。
この「10月維新」は、朴正煕逆徒が1868年の日本のブルジョア改革派が起こした「明治維新」を真似て長期独裁体制の樹立を狙っての政治クーデターであった。
「維新憲法」によって、朴正煕逆徒は「大統領」「国務会議」議長、「国家安全保障会議」議長、統一主体国民会議議長のポストを独り占めし、すべての権力手段を統制する権限、「憲法」改正権、国民投票権、「緊急措置」発動権、戒厳令宣布権、「国会」解散権など、無制限の権限を握りしめた。
また、国民の直接投票もなしに自分が議長となり、そのメンバーも自分が任命する統一主体国民会議というもので自分を「大統領」に選出するようにし、その任期に限界を置かない「終身大統領制」を実施した。それこそ、朴正煕逆徒は「維新憲法」で一挙に「総統」「専制君主」の地位を占めたのである。
逆徒の残忍な「維新」独裁統治は、前例のないものであった。
「維新」独裁体制下の南朝鮮はそれこそ、政治不在、民主不在、民権不在、言論不在の荒涼とした不毛の地に変わった。
当時、南朝鮮社会を揺り動かした統一革命党再建事件、民青学連事件、鬱陵島スパイ団事件、南民戦事件などで数多くの民主人士や愛国者が無残に虐殺された。
朴正煕逆徒が野党党首の金大中を日本の東京で白昼に拉致して海に水葬しようとした金大中拉致事件は全世界を驚愕させた。
逆徒はメディアに猿ぐつわをかませ、人々の目と耳、口を塞ぎ、学園をはじめ社会全体を軍靴で踏みにじり、初歩的な民主的自由や権利、生存権さえ無残に蹂躙(じゅうりん)した。
70万人に及ぶ傀儡軍、1万5000人余りの中央情報部要員、40余万人の政治特務、5万人余りのかいらい警察と32万人以上の警察情報員、300万人の郷土予備軍などが南朝鮮の全土を暴圧の乱舞場につくった。
労働者が密集している都市には10人に1人ずつ情報員が浸透し、農村には5つの農家が互いに監視し、連帯責任をもつ5戸責任制が導入され、漁民5人当たり1人は密偵であり、学校には青年学生思想研究会という秘密情報網が生じた。はては、隣家同士の監視制、夫婦、父子間の監視制というものまで考案された。随時発動する「非常戒厳令」「衛戍令」「非常事態」「緊急措置」に政治バケーション、政治休校令、防諜月間と防犯週間、不穏者捜し出し運動、「維新」反逆者撲滅運動によって南朝鮮の住民は一日も恐怖なしに暮らした日がなかった。
悪名高い「緊急措置」は、1974年から1975年まで2年間だけでもおおよそ9回も発動された。
「緊急措置」により、非常軍法会議で無この人々が多く処刑された。
友人に会えば接触に、一緒に酒を飲めば謀議したことに、握手をすれば秘密約束に見なされて裁判もなく即決審判され、はては「腹がすいて生きられない」という一言の言葉に「不穏分子」というレッテルが張り付けられて中央情報部の地下拷問室に連行されて殴られなければならず、「入山禁止令」「通行禁止令」のために墓参りもできず、昼間に隣家に行くこともできないかとすれば、家に盗人が入ったと申告しても流言飛語の流布罪にかかって投獄されることまであった。
南朝鮮で「鼻にかければ鼻輪、耳にかければ耳輪」という言葉が生じたのも、この時からであり、鳥がどのように鳴くかという質問になんと答えても殺した中世の暴君に朴正煕逆徒を例えたのも、この時からである。
「維新」独裁の野蛮な拷問政治は、またどうだったのか
中央情報部の秘密拷問室では水責め、火責め、電気拷問、麻薬拷問、蛇拷問、白熱灯拷問、飛行機拷問、チンギスハン料理拷問、竹針拷問などありとあらゆる拷問が加えられた。
在日同胞留学生であったソ・スン、ソ・ジュンシッの兄弟が朴正煕一味がつくり上げた学園スパイ団事件で逮捕され、野獣じみた拷問を受けて見分けられない顔でメディアに公開されたその凄惨な姿はいまも記憶に新しい。
朴正煕逆徒が政権を執ってから18年間、一年に70万〜80万人、延べ1400余万人の無この人民が逮捕、投獄され、虐殺された。「維新」ファッショ独裁は、南朝鮮全土を監獄に、暴圧の乱舞場につくった。
これがまさに、朴正煕「維新」ファッショ独裁の実状である。永久分裂の固着化と「勝共統一」狂乱、朴正煕逆徒は執権期間、人民の祖国統一運動を過酷に弾圧し、分裂と対決に狂奔した。
逆徒は、5.16クーデターで「政権」を横取りするやいなや、「行こう北へ、来たれ南に、会おう板門店で!」というスローガンのもとに高まっていた南朝鮮人民の統一機運を残酷に押しつぶし、「反共」を「第1の国是」と宣布した。そして、「共産主義と対決することのできる実力培養」をけん伝し、米国上司を訪ねて「米国の利益を犠牲にしてまで統一しない」と盟約した。
逆徒は、1965年6月に発表した談話文で「われわれの至上課題は勝共統一」と言い散らした。
1970年代に入ってわれわれの北南協議提議と内外の世論の圧力に屈して北南対話にやむなく出た朴正煕逆賊一味は祖国統一の3大原則を基本内容とする7.4共同声明に判を押してはそのインクが乾く前に「あんまりの(過度の)楽観は禁物」として声明を白紙に戻す道に進んだ。
また、「国連は外部勢力ではない」だの、「米軍駐屯は長ければ長いほどよい」だのとして共同声明で合意した自主の原則を否定し、南朝鮮人民の統一運動を「反共法」と「保安法」にかけて過酷に弾圧した。
そして、西海事件、東海事件、トンネル事件など各種の謀略事件をねつ造し、「反共」決起大会、弾劾大会、糾弾大会などの茶番劇を次々と演じて反共和国対決狂気を振るった。
朴正煕逆徒は、米帝のそそのかしのもとで「二つの朝鮮」つくり上げ策動に狂奔した
逆徒は1973年6月、「特別声明」で国の永久分裂を追求する「二つの朝鮮」政策を公然と宣布した。
米国と日本は逆徒の「二つの朝鮮」政策を即時に支持した。
朴正煕逆徒は「二つの朝鮮」政策を実践に移すための策動にヒステリックに執着した。
逆徒は、傀儡外務部長官を国連に送って「二つの朝鮮」認定を懇請するようにし、1973年の第28回国連総会では米国にしがみついて「南北朝鮮の国連同時加入に関する決議案」を提出し、支持表を得るためにあらゆる卑劣な醜態を演じた。
それが失敗すると米帝と朴正煕一味は、1975年の第30回国連総会時に南朝鮮の国連単独加入案を持ち出して実現させようとあがいた。朴正煕逆徒は、米国のそそのかしのもとに侵略戦争の火ぶたを切るために共和国に対する敵対的な偵察行為と武装挑発を悪らつに強行した。
軍事境界線一帯で共和国に対する武装挑発は1968年だけでも1万余件もあったし、停戦協定違反行為は1972年に7.4共同声明が発表された以降1975年9月末までの間だけでもおおよそ6万8900余件に及んだ。
朴正煕逆徒は、「勝共統一」「滅共統一」を唱えてかいらい軍武力を大々的に増強し、郷土予備軍、学徒護国団、民防衛隊、はては婦女防衛団、婦女自衛隊のようなものまでつくり上げて南朝鮮の全域を軍事兵営につくった。「兵役法」を修正して40歳までの青壮年を盲人や大きな障害者でなければすべて傀儡軍に徴集できるようにつくった.
逆徒は、米帝の武装情報収集艦「プエブロ」号事件とEC121大型偵察機事件後に傀儡軍兵士の服務年限を増やし、後方予備師団を戦闘師団に改編した。1970年にはかいらい軍徴集を専門的に担当する中央兵務庁を設け、1975年には防衛税というものもつくり上げた。
朴正煕逆徒は、1971年から「国軍現代化5カ年計画」を次々と立てて米国から数十億ドルの軍事援助を引き入れて対決と戦争策動に狂奔した。
逆徒は、1977年から祖国の領土とわが民族を永遠に二分する悪巧みのもとに膨大な資金と労力、資材をつぎ込んで軍事境界線南側地域にコンクリート障壁を積んだ。
この巨大な障壁は122の村と8の郡を分け、山地と平地はもちろん、北と南に通る3つの路線の鉄道と220余りの大小の道路、そして河川まで断ち切った。
コンクリート障壁を積む当時、現場に現れた朴正煕逆徒は「北の共産主義者とは共に生きることができない。彼らはわが民族ではない。民族が二つになろうと、三つになろうと関知するところではない。障壁構築工事に総力を傾けろ」と言い散らした。
実に、逆徒が祖国の統一と北南関係に及ぼした莫大な結果は計り知れないものである。
古今東西に類例のないコンクリート障壁はこんにちも、北南対決と民族分裂の象徴に、朴正煕逆徒の犯罪的蛮行を全世界に告発している生きた証拠物として立っている。
南朝鮮経済の植民地隷属化と政経癒着による不正腐敗「セヌリ党」をはじめ保守一味は「漢江の奇跡」「経済的土台の構築」などと言って朴正煕の「維新」独裁を賛美しているが、実際はその正反対である。
こんにち、南朝鮮の経済が抱えている深刻な対外隷属性と財閥経済構造、貧富の差はいずれも、逆徒がその毒草の種をまき、育てたものだ。
朴正煕逆徒は、南朝鮮の経済を外国資本に徹底的に縛られている植民地隷属経済に、びっこ経済に転落させた。
逆徒は、5.16クーデターで傀儡政権を横取りして間もなく「産業近代化」「経済開発」という欺まん的な看板を掲げて外国資本を大々的に引き入れた。
逆徒は、「外資導入法」「外国人投資の導入増進と外国人投資企業の育成施策」「輸出自由地域法」「外国人投資企業体の労働組合および労働争議に関する臨時措置法」「工業所有権法」などをつくり上げて、外国独占資本にあらゆる特恵と特典を保障してやり、外国企業に雇用された労働者が労働組合を組んだり、労働争議を起こすことまで法律的に禁止させた。
その結果、特権を付与された外国資本は南朝鮮にどっと押し寄せて無制限の略奪をこととした。
朴正煕逆徒の執権全期間、南朝鮮に入ってきた外国借款は225億ドル、外国人直接投資は10億ドル以上に及んだし、このように入ってきた外国資本は人民の膏血を搾り取って莫大な利潤を得た。
特に、米国企業は150〜240%の利潤を得たが、当時の外国資本が普通他国で得る利潤率が20%であったという事実に比べてみれば、それこそ黄金の夕立に当たったことである。
その反面、南朝鮮の経済に残ったのは、山のような借金と深刻な対外隷属性だけであった。
朴正煕逆徒の無差別な外資導入策動によって、南朝鮮の経済が負った対外債務は1979年末に至って1960年に比べて227倍も増えた250億ドルであった。
借金が増えるにつれて、元金と利子償還額が増加して朴正煕「政権」末期には外国から借りる対外債務の60%以上を自国の地に搬入できず、外国資本にそっくり渡さなければならなかった。
逆徒が外国資本と安い南朝鮮の労働力で海外原材料を加工して再輸出する輸出主導型経済政策を強行実施して、1962―1975年の期間に傀儡の投資資金の海外依存度は平均40%、原材料輸入率は平均62.8%に至った。
傀儡が現在、毎年、日本との貿易で300億ドル以上という莫大な赤字を出しているのも、朴正煕が日本の設備と原材料をやたらに引き入れて経済を日本に隷属させたからである。
特に、エネルギーの海外依存度は1979年末に75%程度に至った。
主要設備と原料を全的に海外に依存したので、工業部門で完成品加工組立て部門に比べて生産手段および原材料生産部門が甚しく凋落して南朝鮮の経済が奇形化、びっこのかたわ経済に転落した。
穀倉地帯として有名であった南朝鮮が必要な穀物の70%を海外から購入しなければならなくなったのもまさに、朴正煕の対外依存政策の所産である。
南朝鮮の農業人口は1967年から1976年の間に670万人も減った。
南朝鮮の経済を極少数の財閥が跋扈する財閥経済につくった元凶も、他ならぬ朴正煕逆徒である。逆徒は、財閥から莫大な政治資金を受け取る代価として執権全期間、親財閥政策を実施した。
解放後、米国と李承晩かいらい政権が敵産払下政策で南朝鮮の買弁財閥に元手を与えたならば、逆徒は人民と中小企業の血と汗で財閥供与をして財閥を本格的に育成した。
朴正煕逆徒は財閥に資金を優先的に貸出することを制度化し、為替相場の操作で莫大な利潤を与え、財閥が海外からの借金で企業を拡張するようにし、銀行が借金を返済してやるように財閥優待政策を実施した結果、1966―1975年の期間に企業支援投資額のうち、98.2%が財閥に入り、1.8%だけが中小企業へ回された。
財閥が肥大して権力と財閥の間の癒着関係が深化し、あらゆる不正腐敗が横行した。
1963年、朴正煕逆徒が財閥をしてメリケン粉と粉砂糖、セメントの値段を意のままに上げて暴利を得るようにし、数千万ドルを政治資金として受け取った3粉暴利事件、財閥のサッカリン密輸に目をつぶって莫大な金を儲けたサッカリン密輸事件、米国産剰余農産物を引き入れる代価として最小限7900万ドルを納めた不正腐敗事件などはその一端である。
傀儡権力と財閥は絡み合って思う存分食べ遊んだが、中小企業は恒常的に深刻な資金難を経ながら、続々と倒産、没落した。
朴正煕「政権」時代に、貧富の差がより劇甚になった。逆徒の親財閥、低賃金政策で1970年代中葉、南朝鮮人口の0.3%に過ぎなかった財閥と反動官僚層が国民所得の約60%を占めていたなら、全人口の70%に該当する勤労者の分け前は15%に過ぎなかった。
労働者は一日平均10時間以上労働しながらも、世界的に最も低い賃金をもらって飢餓にあえいだ。
当時、南朝鮮労働者の毎時の賃金は日本労働者の8分の1、米国労働者の11分の1、シンガポール、インドの労働者の2分の1に過ぎなかった。
実に、「維新」独裁者朴正煕の18年間統治の悪夢は、身震いするものであった。「維新」独裁による血のにじむ南朝鮮人民の恨みは、現在も骨髄に徹している。「維新」独裁の復活は絶対に許されない。
2012年8月9日
平 壌
<参考サイト>
☆333 パク・チョンヒ(朴正煕)記念館は、犯罪の再構成の現場だ
(韓国・統一ニュースコム 2012年2月22日付)
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