韓国民衆言論 PRESSIAN 世界ニュース2013年8月30日付)http://www.pressian.com/article/article.asp?article_num=20130829134011&Section=05
停戦体制から地域の平和体制へ<その2>
汪暉教授 “中国が、韓国戦争(朝鮮戦争)を、<抗米援朝>とした理由は・・・”
和田春樹教授 “<北・米>、<北・日>修交によって、停戦体制を終息へ”
PRESSIAN 編集者
[韓国戦争(訳注―朝鮮戦争)が勃発してから63年が過ぎた2013年、韓半島は依然として戦争状態だ。1953年7月27日締結された停戦協定が、60年たった今まで有効な協定として残っている為だ。戦争でも平和でもない‘停戦’と言う曖昧な状況が、60年も持続される現在の韓半島は、世界史的にもその類例を探すことが困難だ。
韓半島が現在の不安な平和を抜け出て、永久的な平和を築く為にどんな道に
進むべきか?<民主化のための全国教授評議会>と<民主社会政策研究院>は、停戦体制から地域平和体制への転換を模索する為、‘東アジアから韓国戦争:停戦体制から地域平和体制へ’を主題に国際フォーラムを持った。
28日、ソウル中区プレスセンターで進められた、この日のフォーラムでは、米国― シカゴ大学ブルース・カミングス(Bruce Cumings−下段注・参)教授、中国− 清華大学ワン・フイ(汪暉)教授、日本―東京大学 和田春樹教授、延世大学パク・ミョンリム教授、聖公会大学チョ・ヒヨン教授など、韓国戦争関連国家らの碩学(せきがく)が参席し、平和体制への移行の為の知恵を集めた。
ブルース・カミングス教授は、停戦協定は、北韓に対する米国の核による脅しが作りだした産物だとし、過去60年間、韓半島が戦争の脅威に晒されたのは、米国に責任があると主張した。彼は、韓半島で平和体制が作られないのは、やはり米国が‘平和を構築出来ない失敗’を認める事に他ならないと指摘した。
汪暉教授は、韓国戦争の性格に対する開かれた論議を始める事から、停戦体制問題を解いていかなければならないと主張した。 汪教授は、南韓、北韓、中国が、<韓国戦争>を、すべて他の名称で呼びながら、ここに隠れる各自の観点を互いに認め、調べる事から糸口を探さなければならないと強調した。
和田春樹教授は、停戦協定締結直後に開かれたジュネーブ政治会議を通して、停戦協定を収束させることが出来る機会があったのに、結局霧散され、これによって今まで、時期の約束なき停戦体制が持続されていると分析した。彼は、停戦体制を平和体制へ転換する為には、北・米、北・日間の国交正常化が、成し遂げられなければならないとしながら、この為に韓国と中国政府が積極的な役割をする事を注文した。この日のフォーラム主要内容を、2回に亘って紹介する。]
<関連記事>
世界を見る−世界の新聞/[国際フォーラム]朝鮮半島「停戦体制から地域の平和体制へ」 <その1> (韓国・PRESSIAN 2013年8月29日付)
●汪暉教授 :韓国戦争の性格に対する、開かれた論議から始めなければ・・
中国精華大 ワン・フィ(汪暉)教授は、やはり、韓国戦争が(北への)核の脅しから始まったと分析した。ワン・フィ教授は、“1950年マッカーサ−将軍が、核兵器を利用する事を願った。”とし、“1953年の米国側情報に依れば、深刻に核爆弾の使用を考慮したと出ている。二つは韓国、あとは東アジア、即ち中国側に投下する話が出てきたと言うこと”だと主張した。
ワン・フィ(汪暉)教授は、韓国戦争に対し話する時、戦争の名称からもう一度考えて見なければならないと、話を切り出した。彼は、“北韓では、<祖国解放戦争>と呼ばれており、中国では、<抗米援朝戦争>と呼ぶのだが、これは米国が、韓国を助け様とするのを、さえぎる為の戦争と言う意味もある。”とし、“異なる名称の中に隠れている韓国戦争に対する他の観点を考慮しなければならない。”と主張した。戦争の性格に対する、より開かれた論議が必要と言う事だ。
中国の立場から韓国戦争は、<抗米援朝戦争>と<保家衛国>(家を守り同時に国を防衛すること)の性格を持っている。マオ・ツオトン(毛沢東)は、韓国戦争参戦当時、中国の参戦は“中国に、朝鮮に、東方に、世界にすべて、極めて有益だ。”と主張した。ワン・フィ(汪暉)教授はこれに対し、“ここで‘東方’とは東と西、二つの戦線のなかに、東方を指し示し、‘世界’は、帝国主義の抑圧から解放された全世界の被抑圧民族を指し示す”と説明した。
汪暉教授は、中国の支援軍が朝鮮に入って行った意味は、多重的だと主張した。彼は、“朝鮮に対する支持、中国東北地域に対する保護、米国が台湾海峡を封鎖したことに対する反撃、連合軍が中国共産党政権を認めない事に対する抗議、覇権的世界局面に対する反対などの意味が内包されたもの”だとし、“毛沢東は、1950年中央人民政府会議で、‘全世界人民は団結し、米帝国主義を打倒し、追い払おう’と言うスローガンを掲げた。”と説明した。
汪暉教授は、60年前、中国が韓国戦争に参戦した時と現在の状況は、大きく変わらなかったと指摘した。彼は、“60年の間、停戦体制が依然として継続されて”いるが、“覇権と圧迫の構造が変わらず、これを改める事が出来る能動的力を発見するのが難しい。”と指摘した。しかし、彼は“平和が最も根本的な接近法”としながら、中国、韓国を始めとした東アジアが、どのように平和を維持する事が出来るのか、苦悶しなければならないと強調した。(写真
▲清華大学校ワン・フイ(汪暉)教授)
●和田春樹教授: <北・米><北・日>国交正常化で、停戦体制を終息させなければならない
和田春樹 東京大教授は、停戦協定締結直後、繰り広げられた状況に注目した。教授は、停戦協定第4条に“韓国問題の平和的解決を保障する為に、双方の軍司令官は関連政府に対し、以下の様に勧告する。停戦協定が発効した後3カ月以内に、それぞれで任命された代表により、より高い水準の双方の政治会議を開催し、韓国からすべての外国軍隊を撤収させる問題、平和的解決のように、諸問題を話し合いよって解決すること”と明示したと言う事を提示しながら、これによって1954年、ジュネーブ政治会議が開かれたと説明した。
この会議で、南韓代表は、北韓でだけ自由選挙を実施し、北韓を南韓に統合する<韓国統一案>を提案した・
これに(対し)北韓は、韓国のあらゆる地域で自由選挙を通して国会を開設し、統一政府を樹立することを提案し、すべての外国軍隊を6か月以内に撤収させる事、選挙に対する国連の介入を拒否する事を主張した。
春樹教授は、当時、“この提案を中国とソ連が支持した。”とし、“会議に参加した国連側の参戦国らも、韓国全体の選挙を支持するように圧力を加えた。”と指摘した。
彼は、“これに南韓政府は、5月22日に国連の監視下で自由選挙を南・北韓で実施する事を提案した。”のであり、“しかし、南韓の憲法は、統一議会で修正される時まで効力を持つ事になっており、中国軍の撤収は選挙一カ月前に進められねばならず、国連軍の撤収は選挙以前に始められ、国連によって韓国全体が統制された後に、完了されなければならないと、なっていた。”と、当時の状況を説明した。春樹教授は、“これに対し、北韓、中国、ソ連が皆拒否し、結局6月15日国連は16カ国声明を発表し、討論に意味がないと宣言した”と付け加えた。
結局、韓国問題に対する平和会議はお終いとなって、停戦協定体制は、時期の制限なく進行形で残ることとなった。春樹教授は、“1958年、中国軍が最終撤収した後には、米軍の撤収と統一問題を論議する会議を、米国と南韓が真摯に願う訳がなかった。”とし、“一方で北韓は、停戦協定に南韓側関係者が署名をしなかったと言う理由で、北・米間の談判をしなければならないと言う方向で、論議を引っ張って行った”と指摘した。そして彼は、“平和論議は進展出来ないまま、緊張だけが継続された。”と診断した。(写真▲和田春樹 東京大教授)
春樹教授は、国際化された韓国(朝鮮)戦争を実質的に終わらせる為には、<北・米>、<北・日>間の国交正常化が必要だと強調した。この為に彼は、韓国と中国政府が米国と日本政府に影響力を発揮し、北韓と米国、北韓と日本の関係改善を導いていかなければならないと注文した。
一方で彼は、6者会談の重要性を言及した。春樹教授は、“6者会談が依存する事が出来る枠組みであると同時に、安全に行く事が出来る唯一の方法”だとし、“<東北アジア共同の家>へ行くため、必ず必要だ”と主張した。彼は、6者会談を拡大させ、東アジアが共同の繁栄で進む道を探さなければならないと重ねて強調した。
(訳 柴野貞夫 2013年9月2日)
<参考サイト>
☆ 論考/米国と追隋国家の核攻撃戦争から社会主義朝鮮を防衛せよ(2013年2月23日)
☆ 論考/米国と追随国家の核攻撃から社会主義朝鮮を防衛せよ(2) (2013年3月2日)
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