(韓国民衆言論 統一ニュースcom 「張成沢判決文を、どう読むのか」 2013年12月17日)
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「チャン・ソンテク(張成沢) 判決文」をどの様に読むのか(その1)
チョン・チャンヒヨン(鄭昌鉉)韓国・国民大学教授)
一つの結び目が解かれたら、複雑にもつれた<糸かせ>(訳注―糸を巻き取る道具)がすいすいと解ける場合がある。12月8日発表されたチャン・ソンテク(張成沢)に対する‘政治局決定書’と、13日公開された‘判決文’の内容がその様だ。
振り返って見れば、昨年から解明が上手く行っていない事が、<糸かせ>の様にもつれていた。その内の幾つかを列挙して見れば、次の様だ。
@2012年9月、最高人民会議12期6次会議を前にして、チャン・ソンテクが最高人民会議常任委員長や内閣総理に起用されるだろうと言う説が、中国の対北消息通を通して流れて来た。根拠無き話として刻まれた。党の職を捨てて‘左遷’を選択する可能性はないと言う判断だった。しかし、どうしてこんな話が、有力な消息通を通して流れて来たのか疑問だった。
A2012年11月4日、北韓は朝鮮労働党中央委員会政治局拡大会議を開催し、国家体育指導委員会を新設する決定をし、委員長にチャン・ソンテクを任命した。しかし、国家機構を新設するのに、敢えて政治局拡大会議を開いたのが異常だった。
B2013年9月、北韓は、サッカー競技で、不正行為を摘発した事実を異例的に報道した。8月28日、キム・イルソン(金日成)競技場で開かれた‘松明(たいまつ)カップ’1級男子サッカー、<人民軍4.25チーム>との決勝で、不正選手を出場させたとして<先峰チーム>の優勝記録を剥奪し、<人民軍4.25チーム>を優勝チームとして調整したのだ。この決勝競技は、キム・ジョンウン(金正恩)国防委員会第一委員長が見守る中で繰り広げられた。しかし競技結果がひっくり返えり、敢えて知らせなくても良い内容を公開した。奇妙な事に、北韓の体制属性上、深刻な問題となる事案だったのに、特に変わった後続措置無く、そのまま越えていった。
Cこの他にも時間を遡及してみれば、2010年の朝鮮大豊国際グループの組織等、色んな事案がミステリーだが、チャン・ソンテク事案が(突如として)現れて、もつれた<糸かせ>が一部解け始めた。チャン・ソンテクに対する判決文に言及された内容を中心に、その浮沈と、死刑にまで至る事となった背景を推論して見る事とする。
チャン・ソンテク逮捕の‘決定的契機’は、何だったか
2013年11月18日、チャン・ソンテク国家体育指導委員長が電撃的に家宅軟禁され、チャン・ソンテクの側近である労働党行政部のリ・リョンハ(李龍河)第一副部長とチャン・スギル(張秀吉)副部長が逮捕された。11月6日、日本のアントニオ・猪木参議員を迎えたのがチャン・ソンテクの最後の公開活動だった。
その頃、チャン・ソンテク関連の‘或る種の報告’を受けたキム・ジョンウン第一委員長は、政治局常務委員と一部の組織指導部、また安保人員らが参加した会議で、チャン・ソンテクに対する扱いを指示したものと伝えられる。リ・リョンハ第一副部長とチャン・スギル副部長は、‘越権’と‘分派行為’、‘党の唯一的領導体系の拒否’などの嫌疑で逮捕されて調査を受け、‘チャン・ソンテクなどの後に隠れ、党の上の党として、内閣の上の内閣として君臨しようとした。’と批判された。数日後、この様な内容が(韓国の)情報当局に入手され、まもなく一部北韓専門家達にも知れ渡った。
リ・リョンハ(李龍河)第一副部長は、ファンヘプクド(黄海北道)の党書記をするが、チャン・ソンテクが、2009年頃行政部副部長として抜擢した幹部として、2011年労力英雄の称号受け第一副部長に昇進した後、キム・ジョンイル(金正日)国防委員長の現地指導に同行する事を始めた。チャン・スギルは、人民保安部傘下の<勝利貿易会社>と言う油類輸入会社を受け持ち運営したし、中国との貿易、また借款投入などを担当したものと伝えられる。調査を終えた両名は、11月27日頃処刑され、この様な事実が30日、パク・クネ大統領に報告された。
11月29〜30日、キム・ジョンウン(金正恩)第一委員長はペクトサン・サムジヨンジク(白頭山・三池淵地区)を現地指導した。当時現地指導にはキム・ヨンフン国家安全保衛部長、キム・ヤンゴン党書記、ハン・グアンサン党財政経理部長、パク・テソン、ファン・ビョンソ組織指導部副部長、キム・ビョンホ宣伝扇動部副部長、ホン・ヨンチル機械工業部副部長、マ・オンチュン財政経理部副部長などが同行した。
当時、キム・ジョンウン第一委員長は、“白頭から開拓された主体革命の偉業を終わりまで完成しようと言う決心と意思が更に強くなる。”と語った。<労働新聞>は、サムジヨン(三池淵)訪問に対し、“朝鮮革命の行軍の道を続けて行こうと言う鉄の信念の噴出であったのであり、革命の背信者達に下す、恐るべき鉄槌だった”と報道した。この時、チャン・ソンテクに対する処置と今後の対策問題が、最終決定されたものと推定される。
12月8日、労働党は政治局拡大会議を開き、チャン・ソンテクが‘反党反革命的宗派行為’として、唯一領導体系阻害、党の路線と政策の歪曲、不正腐敗行為、道徳的弛緩などの罪状で批判し、その場で逮捕した。
4日後である12日、チャン・ソンテクは、国家安全保衛部特別軍事裁判で国家転覆陰謀行為で死刑を宣告され、即時執行された。自宅軟禁から死刑までひと月も経たずに事件が締めくくられた計算だ。
チャン・ソンテクに対する批判と最終判決まで、公開的に速戦即決で進めたのは、北韓がこの事件の政治的波長を最小化しようとする意図があった様だ。
そうであれば、11月18日チャン・ソンテクが自宅軟禁され、二人の側近が逮捕された‘導火線’は、何であったのか?政治局決定書や判決文では、それが明確に出ていない。一応は、11月6日前後に開かれたチャン・ソンテクと側近達の集まりが直接的‘導火線’になったと言う説が有力だ。
チャン・ソンテクと30余名の側近が、ともにしたこの集まりで、‘チャン・ソンテク同志の萬寿無疆(寿命が永遠なれ)’、‘チャン・ソンテク同志万歳’などのスローガン(口号)が出たと言うのだ。この集まりに対し、報告を受けたキム・ジョンウン第一委員長が組織指導部と国家安全保衛部に‘合同検閲’を指示した可能性が大きい。一部では、チャン・ソンテクが部長でいる党行政部傘下機関である保衛部でなく、軍保衛司令部を動かしたものと言う分析もある。
1997年の、<青年同盟事件>まで遡る
党政治局決定書は、“党では、チャン・ソンテク一党の反党反革命的宗派行為に対し、永く前から知り、注視して来ながら、幾度も警告もし、打撃も与えてきたが、応ずる事もなく程度を越えた為、更にこれ以上手をこまねいている事は出来ず、チャン・ソンテクを除去し、その一党を粛清する事とし、党内に新たに芽生える危険千万な分派的行動に決定的な打撃を負わせた。”と指摘している。ここで指摘した“幾度も警告もし、打撃も与えてきた”と言うのが、どの時点からなのかは明確でない。
判決文には、“チャン・ソンテクは、青年事業部門に従事しながら、敵達に買収され、変節した者達、背信者達と群れとなって、我が国の青年運動に重大な害毒を及ぼしただけでなく、彼らが、党の断固たる措置によって摘発粛清された以後にも、その手先らを引きずりながら、党と国家の重要職責に根を張っておいた。”と指摘し、1997年まで遡った。
判決文に書かれた“敵達に買収され変節した者達、背信者達”などは、1997年9月‘反党反革命とスパイ罪’で処刑されたチェ・ヒョントク青年同盟秘書、ハム・ウンゴン社会安全部副局長、リ・ビョンソ/ウンビョル(銀星)貿易会社総社長などを指し示している。1997年2月、ファン・ジャンヨブ(黄長Y)秘書が亡命するや、北韓は彼と関係する人士達に対する大々的な検閲を進め、その結果、ファン秘書と心琴を打ち解け対話したソ・ガンヒ農業担当秘書を始めとして、青年同盟関係者達が処刑された。
日本<読売新聞>1998年3月18日付け報道によれば、ソ・ガンヒ農業担当秘書が処刑されるとき、社会安全部のハム・ウンゴン政治局副局長とリ・ビョンソ/ウンビョル(銀星)貿易会社総社長も一緒に処刑され、彼らの家宅捜査で韓国情報機関と接触した証拠品が押収されたと言う。これは、ファン・ジャンヨブ(黄長Y)秘書の亡命直後、金正日の指示により亡命経緯と接触者達を調査する過程で明らかになったものと言う。この新聞はまた、ハム・ウンゴンとリ・ビョンソは、ファン・ジャンヨブとともに亡命したキム・ドッコン(金徳弘)[訳注 →元朝鮮労働党中央委員会資料研究室副室長 現韓国亡命・在住]を通して、北京で韓国情報機関と接触した事実も明らかになり、キム・ジョンイル(金正日)委員長の妹の夫である、チャン・ソンテク(張成沢)と青年同盟第一秘書のチェ・ヨンヘも処刑対象であったが、側近なので、禍を免れたと報道した。
同じ日、<ヨンハップニュース>も、ピョンヤンを訪問し帰って来た海外同胞の言葉を引用して、青年同盟幹部達が処刑されたのは、(韓国)安企部の対北工作に巻き込まれた事実が、北韓当局の集中的な思想検閲で発見された為だと報道した。
<ヨンハップニュース>は、“この消息通は、‘北韓体制転覆の為の対北工作’は、‘具体的に、金正日暗殺企図’だと述べ、当時処刑されたチェ・ヒョントク青年同盟秘書など、青年同盟幹部4〜5名がピョンヤン青年劇場の食堂で金正日暗殺を謀議したものと、北韓当局は把握していると伝えた。
消息通によれば、彼らはキム・ジョンイルを暗殺すれば、自動的に北韓のナンバー2であるチャン・ソンテクが、キム・ジョンイルの席を受け継ぐ事となるだろうと言う‘クーデター陰謀’を企んだと言う事だと付け加えた。
チャン・ソンテクは、1988年12月、労働党青年事業部長、1992年12月、労働党青年また3大革命小組部長を担当するなど青年組織に深く関与して来た。
<ヨンハップニュース>は、更にまた、“青年同盟で運営するウンビョル(銀星)貿易会社を通して、‘南韓側情報当局の操縦を受ける貿易会社’の関係者と、北京で随時に接触しながら、‘南側の金を受け取り買収’され、この様な提供資金の中の一部は青年同盟からチャン・ソンテクへ、またチャン・ソンテクから最高位級まで流れて行くなど、<衝撃的な事実>が発覚した。”と報道した。この報道に言及された<南韓側情報当局の操縦を受ける貿易会社>の関係者は、リ・ビョンソ/ウンビョル(銀星)貿易会社総社長の兄で、当時筆者もインタビューを試みたが失敗した経験がある。
少しして、自分たちの代表がチャン・ソンテクだと主張し、北側関係者が南側の情報当局に伝えた相当な分量の文書を入手した。この文書には、北韓労働党の非公開会議で行われた主要論議事項が、日付別に具体的に記録されていたのであり、具体的に金額まで示し<挙事(事をやり遂げる)資金>を要請していた。
しかし、当時この文書を見た北韓専門家達は、北韓の情報当局が虚偽で作り、流した<逆情報>だと判断した。‘チャン(張)部長’と呼ばれ、‘実勢’で活動したチャン・ソンテクが、その様な物々しい‘反革命陰謀’に介入した筈がないと判断した為だ。実際に、青年同盟事件の以後にも、チャン・ソンテクは、‘常勝疾走’した。
しかし、16年が流れた時点で、北韓は‘チャン・ソンテク判決文’で、“チャン・ソンテクが当時処刑された‘青年同盟関連者達と同じ仲間’となり、青年運動に害毒を及ぼした”と言及した。何が事実なのか混乱する。ただ、青年同盟事件がチャン・ソンテクと、当時青年同盟第一秘書だったチェ・リョンヘ(崔龍海)を苦しく困難にさせたのは確実だ。チェ・リョンヘ(崔龍海 訳注→現人民軍総政治局長)は、1998年1月、‘病気’を理由に解任された。
(訳 柴野貞夫 2013年12月19日)
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