(韓国民衆言論 統一ニュース <張成沢判決文を、どう読むのか>2013年12月17日付)http://www.tongilnews.com/news/articleView.html?idxno=105351)
「チャン・ソンテク(張成沢) 判決文」をどの様に読むのか(その3)
チョン・チャンヒヨン(鄭昌鉉)韓国・国民大学教授)
どうであれ、2011年に入って、チャン・ソンテクの公開されたあゆみには、差し障りがなかった。2011年1月23日キム・ジョンイル国防委員長が、訪北したエジプトのナギブ・サウィリス オラスコム(訳注―エジプト最大の企業グループ)会長に会った後、撮った写真で、彼の立場(地位)がよく明らかになった。北韓が公開した写真を見ると、チャン・ソンテクはキム・ジョンイル国防委員長とサウィリス会長が晩餐後、手を取って写真を撮る場所に、単独で陪席した。更にチャン・ソンテクは、その年5月、キム・ジョンイル委員長の中国非公式訪問時に随行しており、この時合意されたラソン(羅先)経済貿易地帯とファングムピョン(黄金坪)、ウイファド(威化島)経済地帯共同開発、また共同管理の為の朝・中共同指導委員会の北側委員長になった。
そして6月8日、‘ファングムピョン(黄金坪)、ウイファド(威化島)経済地帯 朝・中共同開発共同管理対象着工式’を始め、7つの北・中協力事業着工式を盛大に開催した。しかし、2011年に進行されたサウィリス・ オラスコム社長の訪北、北・中協力事業などは、大部分リ・スヨンが主導した朝鮮合営投資委の作品だった。
チャン・ソンテクは、2010年9月28日開かれた党代表者会で、意外にも‘疎外’された。リ・ヨンホ(李英鎬)新任人民軍総参謀長が、政治局常務委員、党中央軍事委員会副委員長として浮上したが、チャン・ソンテクは政治局委員でもない候補委員として党中央軍事委員会委員に選出されただけだ。当時夫人であるキム・ギョンヒ(金敬姫)は、政治局委員として選出された。その上前年、キム・ギョンヒ、チェ・リョンヘ、キム・ギョンオク第一副委員長などに、大将の称号が与えられたが、チャン・ソンテクは外された。
チャン・ソンテクが政治局委員に入る事が出来ず、当時ファンヘプクド(黄海北道)党責任秘書(書記)チエ・ヨンヘも受けた‘大将’の軍事称号を受ける事が出来ず、外部の観測と異なり<ナンバー2>、<摂政管理者(後見人)>になる事が出来ない事を見せてくれたと言う評価が出てきた。当時北側の関係者は、“チャン・ソンテクが<ナンバー2>の役割を遂行しているのでは?”と言う質問に、“歴史上、婿(訳注→チャン・ソンテクは、キム・ギョンヒの婿である)が<ナンバー2>の席に上ったことがあるのか?”と反問し、“彼の役割を過大評価する必要がない”と言った事がある。特に彼は、チャン・ソンテクの話が出る毎に、否定的評価で一貫した。
しかし、チャン・ソンテク判決文には、思いがけない内容が書かれている。
“チャン・ソンテクは、全党、全軍、全民の一致した念願と意思に従い、敬愛するキム・ジョンウン同志を、偉大な将軍の唯一の後継者として推戴する事に対する、重大な問題が討議される時期に、‘左縄をねじって’(訳注―ある問題に懸念を示す事)領導の継承問題を陰に陽に妨害する永遠に許す事が出来ない大逆罪を犯した。
2008年8月、キム・ジョンイル委員長が倒れた後、キム・ギョンヒ(金敬姫)、チャン・ソンテク夫婦が、キム・ジョンウン第一委員長を後継者に擁立する事に積極的に乗り出したと言う外部の評価とは全く異なる内容だ。チャン・ソンテクが2010年9月28日、党代表者会議で、キム・ジョンウン後継者を公開するのに‘留保的意見’を出したのか?
北韓は当初、2010年6月の党代表者会を、9月上旬に招集すると発表した。しかし、どんな理由も明らかにせず9月末に延期した。これについて北韓が、非公式的に言及した水害の為だと言う説から、キム・ジョンイル国防委員長の健康異常説、党代表者会を迎えた権力葛藤、キム・ジョンウン後継者の公式登場の善し悪しに対する立場の調整などが、延期事由として論議された。
当時、北側関係者は、“当初、党代表者会の招集が発表された時まで、北韓は後継者を公開しない計画だった”と明らかにし、キム・ジョンウン後継者の公式登場の当否について、調整が果たされた事を示唆した。8月26日から30日まで4泊5日間、キム・ジョンイル委員長がキム・ジョンウン後継者を同行し、満州地域を訪問し帰った後,‘非公開’から‘公開’に変えられたのだ。北韓がこの時期にチャン・ソンテクが“領導の継承問題を陰に陽に妨害”したと明らかにしたのは、当時チャン・ソンテクが‘後継者公開が極めて早い’と言う意見を出した可能性を示唆する。9月党代表者会で、チャン・ソンテクが相対的に‘疎外’されたのは、そんな理由の為だったかも知れない。
チャン・ソンテクは、内閣総理に欲心があったのか
しかし、2011年12月17日、キム・ジョンイル委員長が急逝し、チャン・ソンテクは前面に浮上した。彼は12月24日クムスサン(錦繍山)太陽宮殿参拝の時、大将の階級章が取り付けてある軍服姿で姿を現した。
2012年4月キム・ジョンウン第一委員長が労働党第一秘書(書記)に推戴された第4次党代表者会で、チャン・ソンテクは、遂に政治局委員に上がった。そして2012年の1年の間、チャン・ソンテクは106回も、キム・ジョンウン第一委員長の現地指導に随行し、最側近である事を誇示した。
この年に、キム・ジョンウン第一委員長が意欲的に推進した平壌市建設、また便益サービス施設建設事業に、チャン・ソンテクが管掌していた資金が投入されたと見える。9月2日、キム・ジョンウン第一委員長が大同江タイル工場を現地指導した時は、(チャン・ソンテクの)側近であるリ・リョンハ行政部第一副部長とチャン・スギル副部長がすべて随行する程だった。ただし、人民軍次席に昇進して、政治局常務委員、党中央軍事委員会副委員長、人民軍総政治局に昇進したチェ・リョンヘよりは、序列で押しのけられた。
しかし、ひとつ訝(いぶか)しい点は、2012年3月からチャン・ソンテクが年老いたキム・ヨンナム最高人民会議常務委員長の代わりに4月に開かれる最高人民会議第12期第5次会議で、最高人民会議常務委員長に就任するだろうと言う消息が、中国の対北消息通を通して流れて来たと言うのだ。それも中国に出ている北側関係者達の間でこんな話が出たと言う。そしてひき続いて、チャン・ソンテクが内閣総理に任命されると言う別の噂が広がった。当時には、チャン・ソンテクが党と国防委員会の職責を投げ出して最高人民会議常務委員長や、内閣総理に行く可能性はないと見た為に、考慮する価値はないと見た。
しかし、以外にも判決文にこれと関連される部分が入っている。
“チャン・ソンテクは、党と国家の最高権力を奪い取る為の第一段階として、内閣総理の席に登って坐ると言う馬鹿げた夢を見ながら、自分達が居る部署が国の重要経済諸部門をすべて掌握し、内閣を無力化させる事で、国の経済と人民生活を収捨出来ない破局へと追いやろうと画策した。”
チャン・ソンテク、もしくは彼の側近達の間で、‘チャン・ソンテク総理説’があったと言う事は、事実である様だ。
判決文には、“チャン・ソンテクが部署と傘下単位の機構を、大々的に拡げながら、国の全般の事業を掌握し、省、中央諸機関に、深く手を伸ばそうと策動したのであり、自分たちがいる部署を、誰も触れる事が出来ない<小王国>に作って置いた。”と指摘しているが、党行政部を側近であるリ・ヨンハ第一副部長に委ね、自身は経済事業を管掌する内閣総理に移ろうとしたのだろうか?本当に解らない一節だ。
その年11月、チャン・ソンテクは内閣総理でなく、国家体育指導委員会委員長に任命された。副委員長には内閣副総理、チェ・ブイル総参謀部副参謀長、リ・ヨンス労働党勤労団体部長などが任命されたのであり、委員として党秘書らと内閣の主要相(長官)が網羅され内閣と軍に影響力を行使する事が出来る席だった。これにより、彼は国防委員会副委員長、政治局委員、党中央軍事委・委員、人民軍大将、党行政部長、最高人民会議代議員、国家体育指導委員長など、およそ八つの職責を持つ事となった。外部では、チャン・ソンテクが北韓の<ナンバー2>と言う事実を誰も疑わなかった。事実上、チャン・ソンテクがキム・ジョンウン第一委員長後ろで‘摂政’すると言う話まで出た。
判決文でも、“チャン・ソンテクは、特に、敬愛するキム・ジョンウン同志から以前の時期より、更に高い職務と信頼を受けた”と出ている。(続) (訳 柴野貞夫 2014年1月17日)
<参考サイト>
☆論考/チャン・ソンテク(張成沢)は社会主義朝鮮のエリツインだった
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