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(世界の新聞/朝鮮日本軍性奴隷及び強制連行被害者問題対策委員会調査報告書 「労働新聞」
2018814日)

http://www.uriminzokkiri.com/index.php?ptype=igisa3&no=1157281

     朝鮮・日本軍性奴隷及び強制連行被害者問題対策委員会調査報告書
    解放前、慶興(キョンフン)郡で強行された日本軍性奴隷犯罪の真相


日帝が朝鮮人民に犯した犯罪的蛮行の傷跡

第二次世界大戦が終結され、我が国が、日帝の軍事的強占下から解放された時から、73年が経った。10年経てば山河も変わると言うが、数十年の歳月が過ぎた今日まで、消す事も、忘れる事も出来ないのが、即ち、日帝が朝鮮人民に犯した犯罪的蛮行の痕跡だ。更に、20万人に達する朝鮮女性を、性奴隷として駆り出して犯した、反人倫的悪行に対する恨みは、被害者はもちろん、朝鮮人民の心の中に永遠に癒えない傷として残っている。
最近、朝鮮・日本軍性奴隷と強制連行被害者問題対策委員会では、解放前、我が国で出生し、暮らしてきた途中で、日本の敗亡と共に日本に帰った中村スミエ(日本人92歳)という女性が、ハムギョンプクト(咸鏡北道)キョンフン(慶興)キョンフン(慶興)面(当時)で、日本軍「慰安所」を直接目撃したと言う証言を入手した。 これに基づいて、委員会は、昨年からラソンシソンポン(羅先市先鋒)地域で現地調査を進めて、そこで敢行された日本軍の、性奴隷犯罪を確証した事により、その真相を全世界に暴露する。

1.解放前のキョンフン(慶興)郡の日本軍駐屯状況

1882年、イムオ(壬午―日本語読みジンゴ)軍人暴動 [訳注―壬午(ジンゴ)軍亂]を口実に、朝鮮半島に侵略武力を駐留させ始めた日本は、日露戦争直後、≪韓國駐箚軍(かんこくちゅうさつぐん)≫と言う名前で2個師団の武力を朝鮮半島に配置した。即ち、その2個師団のうち、第19師団がラナム(羅南)に本部を置いた。 ラナム(羅南)第19師団は、会寧、羅南、咸興に歩兵連隊と工兵連隊、騎兵連隊を駐留させ、中国、ロシアと国境を接した地域には、国境守備隊を配置した。
1937年には、ラジン(羅津)に羅津要塞司令部を置くなど、北部の国境の狭い地域に膨大な武力を集中させた。 1920年代当時の人口が6 000人余りに過ぎなかった小さな山里であるキョンフン(慶興)郡は、中国、ロシアの二国と国境を接している事で、国境警備の要衝として重視された。 日帝は、反日と抗日闘争を鎮圧し、旧ソ連からの社会主義思想の流入を防ぐために、ここに国境守備隊を配置して、それをラナム(羅南)第19師団76連隊に所属させ、守備隊員を継続して増強した。
1937年、ラナム(羅南)第19師団76連隊国境守備隊は、「国境守備隊編制改正要綱」により新たに改編され、キョンフン(慶興)郡にその本部を置き、各場所に小部隊を配置した。日帝は、1910年代からキョンフン(慶興)郡に憲兵隊を駐留させた。 キョンフン(慶興)郡を含む朝鮮半島北部地区の憲兵隊は、国境警備と共に、対ソ連作戦(1917年ロシア革命以降)、諜報活動を重要任務とし、必要に応じては、守備隊と一緒に国境を越えて軍事行動もした。 特に朝鮮人民革命軍をはじめ、中国東北地方で活動している抗日勢力が、朝鮮国内に入って来るのを防ぐ為、豆満江が凍っている冬には, 24時間体制で厳重警戒を展開した。 このような現実は、キョンフン(慶興)郡に、日本軍≪慰安所≫が、早くから出現する十分な条件となった。

2.ウォンジョンドン(元汀洞)に設置・運営されていた日本軍≪慰安所≫

中村スミエの証言に基づいて、羅先市先鋒地域ウォンジョンドン(元汀洞)で現地調査を進める過程で、ここに設置された日本軍「慰安所」の存在を確認した。 1930年代中葉,もしくは後半期に建てられたと見られる ≪慰安所≫の建物は、高い塀をめぐらした,一方方向に幾つかの個室があり、各部屋の出入り口には、女性達の写真がかかっており、将校達は写真を見て、気に入った女性を選択する事が出来た。普通の日と夜は将校たちが利用して、一般的な兵士たちは、日曜日に利用した。
「慰安所」には、17-20歳くらいの南側地方の処女(未婚の女性)が連れてこられており、彼らはほぼ監禁状態にあった。 これに対して、地元住民であるキム・ジャミョン(男・72才)、チェ・チャンナム(男73歳)は、「母が言うには、解放前、ここに日本軍兵士達が多く来ていたが、彼等は真昼間でも、建物の前でパジチュムを握って並び、待って入って行ったと言う」「当時の建物には、普通の日にも日本軍人達が出入りし、特に日曜日には、日本軍兵士達が列をなして順番を待ち、早く出ろと声をあげたと言う」と、証言した。

また、キム・ヨンスク(女92歳)は、「その時、私たちの家は、その建物の背後にあるので、その中を覗き見ていた。 そこの主人は、住民をひどく警戒しながら、人々が女子と接触しないようにした。 子供たちは、その前に来て遊んだり、覗き見ることもできなくしたので、女子と話を交わす事は、考えもできなかった。女子も、外に出る事は出来なかったのであり、せいぜいのところ、塀をめぐらせた庭の中で歩くのが精いっぱいだった。
女子は皆、幼い小娘達だったので、頭はもじゃもじゃで、身なりが大変見すぼらしかった。その中には、妊娠した女子もいたので、痩せた体に大きく膨れたお腹を抱かえ、疲れて座っている様子がたいそう可哀そうに見えた。彼女たちが、南側地方の言葉つきを使うのを見ると、他の場所から連れて来た娘達の様だった。」と言った。これについては、中村スミエも同じ内容の証言をした。
彼の父は広島県出身で、当時ウンギ電気株式会社電気技師として勤務していた19384月に、キョンフン(慶興)郡に移り暮らす事となった中村スミエは、ある日、板で高く囲まれ、中を見えない様にした建物の前で、兵士達が並び立っているのを見たが、兵士達はみんな、ゲートルを外して立っていた。これに対し、母に聞くと、ここは淫乱な振る舞いをする所だと答えたと、語った。中村スミエは、ここの女性達に対する性病検査の為に、日本軍軍医が、良く訪れていた事に対しても証言した。中村スミエは、以前から面識のある日本軍軍医が、ここの女性たちに対する性病検査の為に、町に来たと言ったと聞いた。現地調査の結果、中村スミエが記憶している建物と、現地住民が話している建物が、一つの「慰安所」であったことが確証された。

3.ウォンジョンドン(元汀洞)「慰安所」はラナム(羅南)第19師団所属の日本軍専用「慰安所」

ウォンジョンドン(元汀洞)「慰安所」は、当時のキョンフン(慶興)郡に駐留していたラナム(羅南)第19師団所属キョンフン(慶興)国境守備隊と憲兵隊の専用 "慰安所"として建てられ、中国東北地方で活動する抗日遊撃隊の「討伐」に動員された日本軍と、大陸に進出するためにここを通過する日本軍に服務した、軍だけの「慰安所」であった。 それはまず、ウォンジョンドン(元汀洞)「慰安所」の設置時期について語る事が出来る。
前にも述べたが、1937年「国境守備隊編制改正要綱」によって、ラナム第19師団76連隊国境守備隊も新たに改編されて、キョンフン郡にその本部を移した。 地元の住民も「慰安所」が1937年か、1938年頃からあったと証言した。
日帝の中国大陸侵略策動が強化されることによって、多くの日本軍が、キョンフン郡に待機したり、そこを通過して中国に入り、1938年にあったハッサン号事件の時も、何千人もの日本の軍人が、直ちに、ここに待機したがソ連に行った。
ウォンジョンドンの「慰安所」が、軍専用であったということは、ここの住民構成を見ても判る事だ。 「慰安所」が位置していたウォンジョンドンは、当時数十戸の農家しかない小さな農村であった。 ここの大多数は、経済的土台が微弱な小作農だったし、他に憲兵隊と守備隊が駐屯していただけだった。キョンフン郡の人民達の生活が、どの様に困難かについては、当時発行された「中央日報」に、豆満江沿岸の農民の生活事情は、到底語る事が出来ない境遇だ。その中でも一番厳しい所であるキョンフン郡ロソ面チュンサン洞の1000余世帯は、すぐに食べるものがなくて飢えているという内容の記事が掲載されたことを見てもよくわかる。 ウォンジョンドンの住民も同じだった。
一日三度の食事を取ることが出来ず、飢えをしのぐことが困難な農民たちを相手に、商業売春を目的とする遊郭が設置されたと言うのは、到底考えられない事だ。地元の住民も一様に「慰安所」には、民間人が出入りすることはなく、日本軍将校たちと兵士たちだけ通ったと証言した。
次の様に、「慰安所」の内部の様子と女性達の立場を見ても理解する事が出来る。 「慰安所」は、外部と徹底的に遮断されており、女性はほとんど監禁状態にあった。 子供さえ接近させなかったとか、女性達が見すぼらしい服を纏っていたし、庭から逃れる事が出来なかった状況は、彼女らが、他でもなく、日本軍の性奴隷であったことを教えてくれる。 「慰安所」に巡らせられた高い塀も、日本軍人が出入りすることを民間人には見せない為であったし、この場所の女性達が、南言葉遣いを維持することができるのも、最終的に日本の軍人だけ相手しながら「慰安所」に閉じ込められていたからである。

ウォンジョンドン「慰安所」を、日本軍専用 "慰安所として見る最大の根拠は、日本軍軍医の通常的「検診」を受けたと言う事にある。即ち、軍人の中で、性感染症が蔓延するのを防ぐために、軍医が直接女性達に対する性病検査をすることは、唯一日本軍「慰安所」でのみ見られることであった。
この他にも、ラナム第19師団所属の部隊が駐留していた咸鏡北道清津市をはじめとする各地で、既に、日本軍専用「慰安所」が発見され、被害者が出てきたことから、ウォンジョンドン「慰安所」も、ラナム第19師団所属の日本軍専用「慰安所」の一つだったと言うことができる。 歳月の流れの中、ウォンジョンドンの「慰安所」も、今はその跡を探して見るのは難しくなった。
しかし、朝鮮人民に犯した日帝の永遠の罪は絶対に隠す事は出来ない。日本の反動層が、過去の犯罪を黒幕の中、永遠に埋めてしまおうと、あらゆる卑劣な策動を尽くしているが、歴史は、朝鮮女性達を強制連行、拉致、誘拐し,性のなぶり者として蹂躙し、無惨に虐殺した日帝の反人倫的犯罪を満天下に一つ一つ暴露している。
我が朝鮮人民は、日本の過去の清算に関する責任を、最後まで問い詰めるものであり、朝鮮民族が日本によって受けたむごい不幸と苦痛、恥と被害に対する対価を必ず千百倍にして受け取って当たり前だ。
主体1072018)年814
                                                         (訳 柴野貞夫)

関連サイト>

 

☆<論考>従軍慰安婦強制動員」の“強制”否定と“謝罪”拒否は、安倍政権がアジアに対する日本の国家犯罪を正当化し、改憲を進める為の確信犯的行為である

http://www.shibano-jijiken.com/SEKAI%20O%20MIRU%20SEKAI%20NO%20REKISHI%204.html

☆記録/吉見義明教授の講演記録<その3>(日本軍「慰安婦」被害者証言キャンペーン2013 in 奈良  2013年5月26日)
http://www.shibano-jijiken.com/nihon_o_miru_jijitokusyu_91.html


☆記録/吉見義明教授の講演記録<その2>(日本軍「慰安婦」被害者証言キャンペーン2013 in 奈良 2013年5月26日)
http://www.shibano-jijiken.com/nihon_o_miru_jijitokusyu_90.html


☆記録/吉見義明教授の講演記録<その1>(日本軍「慰安婦」被害者証言キャンペーン2013 in 奈良 2013年5月26日)
http://www.shibano-jijiken.com/njhon_o_miru_jijitokusyu_89.html


☆中国黒龍江省>“朝鮮人慰安婦2千名強制徴用”日本軍文書を暴露
http://www.shibano-jijiken.com/sekai_o_miru_sekai_no_shinbun_503.html

☆安倍‘謝罪’には6つの要点が欠落している<その2>(韓国・プレシアン
http://www.shibano-jijiken.com/sekai_o_miru_sekai_no_shinbun_508.html


☆安倍‘謝罪’には6つの要点が欠落している<その1>(韓国・プレシアン)

http://www.shibano-jijiken.com/sekai_o_miru_sekai_no_shinbun_506.html