(民衆闘争報道/朝鮮民主主義人民共和国外務省 軍縮・平和研究所【研究報告書】 2020年6月25日付)
朝鮮民主主義人民共和国外務省 軍縮・平和研究所【研究報告書】(全文)
朝鮮敵対視政策撤回は朝鮮半島の平和と安全の為の
必須不可欠の先決条件だ<2>
朝鮮戦争停戦70周年を迎えて
【時事研 解題】
朝鮮民主主義人民共和国 外務省 軍縮・平和研究所による、この「研究報告書」は、朝鮮戦争停戦70周年を迎え、朝鮮側の多くの先制的平和措置にも拘らず、依然として2018年5月のシンガポール朝米合意を無視し、朝鮮敵視政策を振りかざして、朝鮮半島の平和と安全を脅かしている米国に対する糾弾の書である。読者はこの書から、米国が朝鮮の地で犯して来た数々の歴史的犯罪行為、とりわけ朝鮮戦争(1950〜1954)の実体に迫る事が出来るだろう。
即ち、米国が、自らの侵略行為を正当化する為に「国連」を動員し、共和国を,戦争を引き起こした《挑発者》として、又、朝鮮人民の祖国解放戦争を、《侵略》として、如何に巧妙な手段で捏造したかを知ることが出来るだろう。米国は、1945年のモスクワ合意を無視、朝鮮全土の統一独立国家樹立を否定して、南朝鮮分断国家樹立を推し進めた。
軍政の下で、傀儡・李承晩−過渡的政権を登場させ、それを後押ししながら、南朝鮮での単独選挙案を国連決議で強行し、南朝鮮の労働者・農民の統一に向けての民族解放闘争を弾圧した。米国と傀儡政権は、朝鮮分断を企む単独選挙に反対する南朝鮮全体に拡大した反米・李承晩打倒の抵抗運動に直面した。米国と傀儡政権は、これを徹底的に弾圧した。1947年からの中国共産党の全土掌握に向けての攻勢から1949年10月の中華人民共和国の成立にいたる、アジア極東地域の民族独立運動と社会主義革命に危機感を持った米帝国主義は、南朝鮮を極東アジアの資本主義反革命勢力の軍事的橋頭堡にすることを企んだ。
朝鮮戦争とは、米国とその傀儡政権に対決した南部朝鮮人民が、全朝鮮の統一と独立に向かって、北部朝鮮人民とともに戦った反帝民族解放戦争であると同時に、世界的階級的視野で見るなら、米国を中心とした世界反革命の一翼としての南朝鮮反革命勢力と、世界革命の一翼としての全朝鮮革命勢力の戦争であったと言う事が言えるだろう。
しかし米国は、この民族解放戦争に敗北した。彼らが狙った北部朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の崩壊の狙いは失敗し、北部朝鮮の資本主義化に失敗した。朝鮮民主主義人民共和国は、この朝鮮戦争当時から、米国によって「大量殺戮兵器」−核兵器使用の恫喝に晒されてきた。
米国は、朝鮮戦争停戦時以降も、更に執拗に、北の体制崩壊が実現可能として、「停戦協定」を踏みにじり、核兵器を南朝鮮に持ち込み、アイゼンハワー政権時期に<大量報復戦略>を策定、ブッシュ政権時には<核先制攻撃戦略>へとエスカレートさせながら、朝鮮に対する核兵器の使用を政策化させ、核による脅しを繰り返してきた。そして、米国の核攻撃恫喝に対する、朝鮮国家の自衛的対処を、「北の軍事的挑発」であるとして「北脅威論」を世界に振りまいて来た。朝鮮戦争勃発から今日まで、70年の、朝鮮とその人民の全歴史は、この国家と人民の生存権を不当に脅かす米国の核攻撃から、自分たちをどう守るべきかに多くのエネルギーを割かねばならなかった歴史でもある。
【本文】
《米国が、占領した地域で敢行した大衆的虐殺と拷問は、ヒトラーナチスがヨーロッパで敢行した蛮行より、もっと悪辣だ。》と国際調査団は指摘した
1951年、米帝の蛮行を現地で調査した国際民主女性連盟調査団は、《米国がリムシで、占領した地域で敢行した大衆的虐殺と拷問は、ヒトラーナチスがヨーロッパで敢行した蛮行より、もっと悪辣だ。》と暴露した。
米国は、朝鮮戦争の期間、《北朝鮮の78の都市を、地図上から完全に消してしまった。》、《北朝鮮に・・・ 》と、公然と大袈裟に企てながら、共和国の北半部に,太平洋戦争時、日本本土に落とした3.7倍に達する,約60万トンの爆弾と、ナパーム弾を降り注いだ。
米帝の蛮行で、戦争の期間、工場、企業所建物 50、942棟、各級学校建物・28、632棟、病院・治療所を始めとした保健施設の建物 4,534棟、化学研究機関建物 579棟、出版・文化機関建物 8,163棟、居住住宅 2,077、226棟が、酷甚(あまりにもひどく)に破壊されたのであり、563,755町歩の農地が被害を受け、155,500町歩の田畑面積が減った。戦争が終わった後、朝鮮人民に残ったものは、事実上、灰燼の他には何も無かった。
《訳者注》
米国の現代朝鮮史の最も著名な歴史学者、ブルース・ カミングス(Bruce Cumings)は、自著―The Origins of the Korean
War vol. 2(朝鮮戦争の起源。日本語版は「明石書房」から出版)の中で、朝鮮戦争の要因を、「南北対立」などではなく、米国による、朝鮮半島の植民地支配からの解放を目指す、朝鮮民衆の「内戦」と捉えている。またこの著書でカミングスは、南朝鮮を占領支配下に置いた米国によって遂行された、朝鮮民衆に対する,鬼畜も逃げ出す悪辣非道な蛮行の実体を、次の様に描写している。
《北部朝鮮での市民の犠牲は、およそ200万名で、戦前の人口の20%であった。これは第二次大戦でソビエトとポーランドが被った大量の犠牲よりも高い割合である。…1953年(休戦の年)南端の釜山から北端の新義州に至るまで、人々は死者を埋葬し失われた家族の事に胸を痛め、微塵に壊された生活の立て直しに必死になっていた。北の地にはビルと名付けられる建物は無く、ピョンヤンその他の都市は文字通り瓦礫の山であった。工場はがらんどうであり、かっての巨大なダムも破壊され、ひび割れの湖底がみえるだけであり、洞窟やトンネルの中に土竜の様に潜んでいた人々が外に這い上がって見つけたものは、照り輝く白昼の中での悪夢であった。》
米国は、“朝鮮は、百年経っても、再び立ち上がる事は出来ないだろう”と,自らの非道を自慢した。上記資料は、米帝国主義者こそ、朝鮮戦争の挑発者、朝鮮人民の不倶戴天の敵であると言う事を雄弁に示している。米国の対朝鮮敵対視政策が残る限り、朝鮮半島には、何時まで経っても、平和が宿る事が出来ない事を立証している。
停戦協定を体系的に破壊した米国の犯罪的策動
朝鮮戦争停戦後、米国の対朝鮮敵対視策動を、一言で云って特徴付ければ、朝鮮半島の永久分裂と、我が共和国に対する絶える事無き、核による威嚇と恐喝であった。
戦争怪獣・トルーマンが、第三次世界大戦でも違いがなかったとほざいた朝鮮戦争は、停戦協定で一段落幕を下ろしたが、だからと言って、終戦が宣言されたとか、平和協定が締結されたと言う事ではない。
停戦協定は、締結当時、朝鮮半島から全ての外国軍隊を撤去させ、恒久的な平和を保障する事を目標とした過渡的措置に過ぎなかった。
米国は、我が人民を何が何でも奴隷にし、全朝鮮半島を乗っ取ろうとする野望から、停戦協定に署名したインクが乾く前に、停戦協定を乱暴に違反しながら情勢を戦争の境界(瀬戸際)に追い込んだ。
停戦協定が発効されてから、半時間も経たない1953年7月27日、22時20分頃、米国は我々側に向かって数発の機関銃弾を発射した。ここから数時間の間に,数十分間隔で我が側に向かって、次々と砲弾を撃ち込んだ。
米軍は、共同警備区域を含んだ非武装地帯内で、拳銃と小銃だけを携帯する事とした停戦協定第1条第10項を無視して、自動銃、機関銃、タンク、火炎放射器、ヘリコプターなどを配備し、我が側の警戒所と警備のメンバーに向かって、毎日の様に無差別的射撃を加えた。
1968年からは、完全武装した戦闘集団を駆り立て、6.25戦争挑発直前、ソンアクサン(松岳山)を始めとした、38度線地域で繰り広げた軍事攻撃作戦を再現した。
1976年8月18日のパンムンチョム(板門店)事件、1984年11月23日の我が警務員に対する銃撃事件など、板門店共共同警備区域内で米軍によって敢行された挑発行為は、数えきれないぐらい多い。
米国は、停戦協定が効力を生じた後、3か月以内に全ての外国軍隊の撤退、上級の政治会議を招集する事を全て踏みにじった
米国は、朝鮮から全ての外国軍隊を撤退させ、朝鮮問題を平和的に解決する事を規定した停戦協定第4条第60項を白紙にした。
停戦協定第60項の規定に従って、朝米双方は、停戦協定が効力を生じた後、三か月以内に上級の政治会議を招集し、朝鮮半島からの全ての外国軍隊の撤退と、朝鮮問題の平和的解決の方途を協議する事になっていた。
1953年10月26日から、パンムンジョム(板門店)で開かれた、政治会議招集の為の予備会議で、人為的な障害を醸成し、妨害策動に専念し、その年12月12日、会議場から一方的に退場する事で、政治会議は本会議に入れないまま予備会議の段階で決裂した。
その後、朝鮮問題の平和的解決の為のジュネーブ会議が招集されたが、米国は会議を故意に破綻させた。米国は、米軍の南朝鮮の永久駐屯を合法化する為に、1953年8月8日南朝鮮と「相互防衛条約」を締結した。
1955年1月2日、当時の米統合参謀本部議長は、米軍が、世界制覇の実現において、重要な戦略的意義を持つ南朝鮮に無期駐屯し、引き続き朝鮮問題の平和的調整を妨げると言い触らした。
1975年11月、第30回国連総会で、朝鮮半島における恒久平和のために《国連軍司令部》を解体する事に関する決議が採択されたが、米国は米・南朝鮮《連合軍司令部》の捏造で、永久強占の陰謀を露骨にした。
《訳者注》
1975年11月、第30回 国連総会決議で「国連軍司令部」を解体すると同時に、停戦協定を平和協定に取り換える<3390号>議案を議決している。にも拘らず、この決議は今日まで、米国と加盟国に依って無視されてきた。
2006年3月初め、米国は朝鮮戦争参戦国の役割を高め、彼等を有事時、又作戦計画樹立には勿論、細部的活動にも参加させることで、有名無実となった《国連軍司令部》を恒久的な他国籍連合武力機構に拡大再編成する事に関する計画を出し、その実行に取り掛かった。
結局、停戦協定を平和協定に変える為の過程は挫折し、朝鮮半島では、戦争でもない平和でもない不安定な状態が持続されている。
米国は、停戦協定第二条第13号?目に背馳する事で、1953年8月不法無法のソヘ(西海)《北方限界線》を一方的に引く事で、その周辺地域を世界最大の ホットスポットにしたのであり、朝鮮に対してどんな種類の封鎖もしてはならないと規定した停戦協定第二条 第15項に反して、《大量殺戮武器拡散防止構想》と言う美名の下、我々に対する封鎖を実現して見ようと各方面に策動している。
米国は、朝鮮境外から、あらゆる武装装備搬入を一切禁止する事に対する、休戦協定第2条 第13項?目を破棄し、南朝鮮を世界的な武器展示場に変貌させた。
(そのBに続く)
(訳 柴野貞夫)
<関連サイト>
☆ 計画的に行われた米帝の朝鮮戦争準備策動朝鮮戦争とは如何なる戦争なのか58周年を顧みる
http://vpack.shibano-jijiken.com/SEKAI%20O%20MIRU%20SEKAI%20NO%20SHINBUN%2089.html
☆ 韓国軍、1950年に無実の済州島民218名を“集団銃殺”
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☆ 日本は口を閉ざしているが、事実上、韓国戦争(朝鮮戦争)の参戦国
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